怨恨5:【主人公の登場!そして輪廻は動き出す!】
イメージソング:ロックマンX5 サウンドトラック
https://youtu.be/FMH4KvX6NUc?si=-69Ifi1rBBYU-tOX
中央王都の外れ。
レンガ造りの建物が肩を寄せ合う細い路地の奥角に、その小さな病院はあった。
看板には、ペンキの匂いがまだほのかに残る手書きの文字で「獣医院」とだけ書かれている。
天空の城塞都市アーク・ノヴァでの絶望的な真実を知り、冷たい雲海を潜り抜けて地上へ戻ってから、ほんの数日。俺とアリアは、この世界の最果てではなく、人間が汗と泥にまみれて生きる王都の片隅に小さなくさびを打った。
あらかじめ定められた未来の死期。世界が巡る無限のループ。そして、すべてを上空から見下ろし、下界の惨劇を退屈しのぎの娯楽として消費する黒幕の存在。
それらすべてを知った上で、俺たちは……あえて日常を始めることを選んだ。
運命という名の凄惨な、確定した「結果」に対する、ささやかな抵抗だった。
「ケンジ、裏庭の野良犬、傷口の抜糸が終わったわ。でも、なんだかまだ機嫌が悪くて」
「いや、アリア。君が真剣な目つきで近づくから、犬の方が命の危険を感じてるんだと思うよ」
「そんなことないわ。私はただ、全身全霊の誠意を持って対峙しているだけなのに」
アリアは不満そうに細い眉をひそめながら、手ぬぐいで汗を拭った。かつての凄腕の剣士は、今やエプロンを身につけ、動物たちの世話に追われている。手首に刻まれた戦いの痕や、目元に残るわずかな疲労の影は消えないが、その瞳には確かに生きている人間の光が宿っていた。
俺は苦笑しながら、すり鉢でハーブを擦り潰す手を動かし続けた。下界での暮らしは決して楽ではない。物資は限られ、患者として運ばれてくるのは怪我をした裏路地の猫や、荷車を引いて脚を痛めた老馬ばかりだ。
だが、ここには確かに「過程」があった。
一回一回の処置に意味があり、目の前の命が痛みに耐え、回復していく確かな時間があった。未来の結末がどれほど悲惨に固定されていようと、いま過ごしているこの一秒一秒だけは、誰にも奪えない俺たちだけのものだった。
その、平穏が破られたのは、午後の日差しが斜めに差し込む、静かな時間帯のことだった。
猛烈な勢いで診察室の木扉が叩かれた。いや、叩かれたというよりは、外から人間が倒れ込んできた音だった。
ドカン、という重い音と共に扉が勢いよく開き、一人の影が崩れ落ちてきた。
「フム……脳への糖分供給が途絶え、シナプス伝達が限界値を下回った……。これが……飢餓という名の不可逆的生体現象か……!」
ハスキーで涼やかな声が、地を這うようなかすれ声となって響く。
俺とアリアは驚いて作業の手を止め、床に突っ伏した怪人物を見下ろした。
そこに倒れていたのは、あまりにも奇妙な女だった。
肩下まで伸びた銀髪はぼさぼさに乱れており、その隙間から覗く肌は健康的な褐色だった。羽織っているのは、油と謎の薬品の焦げ痕で斑点だらけになったダブダブの白衣だ。豊満すぎる胸部が床に押し付けられ、白衣のボタンが弾け飛ばんばかりに張っている。さらに、ぽっちゃりと丸みを帯びたお腹が、ぐう、と惨めな腹鳴りを上げた。
「ケンジ……敵……かしら」
アリアが即座に腰の短剣に手を伸ばす。
「待て待て、アリア。刺客がこんなに派手に腹を鳴らして倒れ込むわけがないだろ」
俺は慌ててアリアを制し、倒れた女の背中に手を当てた。脈拍は微弱。だが、病気ではない。
単純極まりない……極度の脱水と低血糖症状だった。
「水だ……できれば、大量の糖分と……コーヒーを……あと、ドーナツだな……。それも、ミスター・マジックの新作の限定ドーナツを……。さもなくば、この偉大な頭脳が死滅し、それは、世界の損失となる……!」
女は仰向けにひっくり返ると、鮮やかな青い瞳で俺にしがみついてきた。
俺とアリアは顔を見合わせ、即座に動いた。
アリアが奥から井戸水と、昨日買い込んでおいた揚げパンの残りを運んでくる。俺は急いで濃い目に入れた熱い珈琲に、砂糖をふたさじ放り込んで女の口元へ運んだ。
「ほら、ゆっくり飲め。一度に飲むと吐くぞ」
女は俺の手からカップをひったくると、喉を鳴らして一気に煽り立てた。続いて、アリアが差し出した砂糖塗れのドーナツを、野獣のような勢いで噛み砕いていく。
「ふははは!蘇る!蘇るぞ!思考の歯車が高速回転を始めた!素晴らしい!実に素晴らしい糖分の補給速度だ!」
わずか数分でパン三つと珈琲二杯を平らげた女は、白衣の袖で口元を雑に拭うと、勢いよく立ち上がった。褐色肌に銀髪、そして豊満な体に似合わぬぽっこり出たお腹。彼女は胸を張り、大袈裟な手振りで自分の体を指し示した。
「助かったよ、見知らぬ市民諸君!私は実に五日間、水と食物の摂取を絶たれていたのだ!人間の肉体とは実に不便な構造をしているねえ!たった百二十時間エネルギーを補給しないだけで、生命維持システムが停止しかけるのだから!」
「五日間も……?君、その身なりを見るに、どこかの研究者か何かだろう?」
俺が尋ねると、女は心底不服そうに唇を尖らせ、両腕を大きく振り回しながら語り始めた。
「聞いてくれたまえよね!私は王立ソフィア魔導大学の主席であり、いや……元主席であり、現役の最高権威なのだがねえ!先日、魔導炉において、グリッチ・オーディナルなる、聞いたこともない学者の論文に従って高次元魔力の定着実験を行っていたのだ!……結局グリッチとは誰だったのやら……。そしてだ!ほんの少し、理論上の限界値を三百パーセントほど超えた出力を試したところ、少々計算が狂ってね。地脈の安全弁が吹き飛び、王都全域が灰燼に帰す寸前の連鎖爆破反応が始まってしまったのだ!」
「爆破寸前……!?」
アリアが目を見開く。
「そう!だが安心したまえ、私の頭脳に不可能な計算など存在しない!私は気を失っていたらしいが、どうやら私が地脈の暴走を完璧かつ瞬時に熱力学的に相殺してやったのだ!完璧な解決!完璧な手際!当然、賞賛と勲章が授与されるべき事態だろ?」
女は胸を張って鼻を鳴らした。
「……で、なんで五日間も行き倒れてたんだ?」
「……王都政府と魔導規制局の奴らが、あまりにも臆病すぎたのだよ」
女は急に不機嫌そうになり、眉間にしわを寄せた。
「私が乱暴すぎるとか何とか抜かしてね。あいつらは私の知性と魔力に恐怖をなし、あろうことか私に無限期の謹慎処分と大学への出入り禁止を命じたのだ! 私は大学の研究室に寝泊まりしていたからね、警備兵によって即座に敷地外へ叩き出されてしまったのだよ」
「はあ……まあ、王都を吹き飛ばしかけたなら、当然の処置な気もするが……」
「問題はそこからだよ!」
女は大袈裟に両手を天に突き上げた。
「私は世界中の特許や魔術権利で、山のような財産を持っている!つまり、大富豪なのだよ!だがしかし!私の財布も!銀行の魔導鍵も!身分証明書も!そして、あらゆる免責の免罪符である救国の勲章も!すべて大学の私の部屋の机の上に置き忘れてきたのだ!」
アリアが呆れたように呟く。
「つまり、着の身着のままで追い出され、身分を証明するものも金もなく、プライドが邪魔して人に頼めず、五日間彷徨っていたのね」
「そう!その通りだ!理解が早くて助かるよ、美しい剣士の君!」
女は悪びれもせず高らかに笑った。私生活の能力が完全にゼロであることが、その数分間の会話だけで痛いほど伝わってきた。
俺は頭を抱えそうになりながら、一息ついた。とんでもない破天荒な人間に巻き込まれてしまったようだが、命を救えたのなら良しとするべきだろう。
「まあ、事情は分かった。俺はここで獣医をやっている橘ケンジだ。こっちはアリア。君の名前は?」
俺が問いかけると、女は白衣の裾をひらりと翻し、気取り切った動作で胸に手を当てた。
「私の名はエラーラ!エラーラ・ヴェリタスだ!」
その瞬間、俺の全身の血が凍りついた!
視界が真っ白に染まる!
ヴェリタス!
忘れもしない、忘れられるはずもない名前!
天空都市アーク・ノヴァの最深部に刻まれていた、世界の支配者であり、人間を箱庭に閉じ込めて無限のループと死を強いる黒幕の血族。
俺の指先がかすかに震えた。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、呼吸が浅くなる。この女が……あの天空の神々、ヴェリタス家の末裔……!?
俺は咄嗟にエラーラの表情を凝視した。
だが、そこには何の一片の悪意も、冷酷さも、見下すような色もなかった。あるのはただ、喉を潤して満たされた無邪気な知的好奇心と、目の前の助けてくれた人間に対する、屈託のない親愛の情だけだった。
アリアが俺の異変に気づき、静かに視線を送ってくる。俺は深呼吸をし、強引に動悸を抑え込んだ。
そうだ。
目の前にいるこの女は、あの空の上の狂ったシステムとは何の関係もない。ただの私生活能力が欠如した、飛び抜けて頭の悪い、そして飛び抜けて天才的な、地に足をつけて生きている一人の人間だ。
俺たちはあのアーク・ノヴァの真実について、地上では一切口にしないと決めていた。エラーラに対しても、アーク・ノヴァや天空都市の話題を出すつもりは毛頭なかった。過去の憎しみを、目の前の無垢な人間にぶつけるような真似は、俺たちの矜持が許さなかった。
「ヴェリタス……かあ。いい名前だな」
俺は努力して声を平静に保ち、微笑んでみせた。
「だろう?私の家系は昔から偏執的な研究者が多くてね。だが私は私だ!どんな既成概念にも縛られん!」
エラーラは嬉しそうに笑うと、今度はアリアの方へ歩み寄った。彼女の鍛え抜かれた腕や指関節を、躊躇なくべたべたと触り始める。
「ふむ!素晴らしい筋肉の付き方だ!君、相当な死線を潜り抜けてきたね? 生体標本として非常に興味深い! ぜひ後でじっくりと解剖……いや、計測させてもらいたいものだね!」
普通なら無礼極まりない言動だが、エラーラの瞳があまりにも純粋な科学的興味に満ちていたためか、アリアは怒るどころか、少し誇らしげに胸を張った。
「解剖は困るけれど、計測くらいならいいわよ。私も、自分の身体の限界には興味があるもの」
「おお、理解のある被検体だ!気に入ったぞ、アリア君!」
あっという間に二人は打ち解けていた。アリアは根が直情的な戦士であり、エラーラの裏表のない破天荒さは、むしろ心地よく感じられたのかもしれなかった。
エラーラは周囲を見回し、満腹になったお腹をポンと叩いた。
「いやあ、恩に着るよ。大学の謹慎が解けるまで、どこかで野宿でも決め込もうかと思っていたのだがね」
「野宿って……君、そんな体で野宿したら今度こそ死ぬぞ」
俺はため息をついた。財布も身分証もない大富豪の天才科学者。放っておけば、明日には路地裏で冷たくなっているかもしれない。
少しばかり、うちの予備の部屋に泊めてあげるべきだろうか。俺がそう提案しようと口を開かけた、まさにその瞬間だった。
エラーラは鋭い青い目を光らせ、天井を指さした。
「ふむ!しかしだ!この建物の構造、および外観の容積計算から推測するに、二階には現在使用されていない空き部屋が少なくとも二つは存在するはずだね!そうだろう、ケンジ君!」
「え?ああ、まあ……物置にしている部屋ならあるが……」
「決定だ!」
エラーラは大袈裟に白衣を翻し、勝手知ったる他人の家のように階段へと足を進めた。
「私を数日間、そこに居候させたまえ!もちろんタダとは言わない。大学から身分証を取り戻し次第、この獣医院の運営資金をポンと寄付してやろう!どうだね、悪い話ではないだろう?」
「いや、金のために言ってるんじゃなくてだな……」
「よし、交渉成立だね!素晴らしい!今日からここが私の臨時拠点だ!」
俺が制止する間もなく、エラーラは階段をドタバタと駆け上がっていってしまった。
「……ケンジ」
アリアが、少し楽しそうな目で俺を見た。
「賑やかになりそうね」
「あの女、本当に大丈夫なんだろうな……」
俺は額を押さえ、深いため息をついた。絶望的な運命に抗うために始めた静かな獣医院の日常は、こうして一人の破天荒な暴風によって、あっけなく塗り替えられてしまったのだ。
・・・・・・・・・・
それから数日後。
俺の胸騒ぎは、最高に馬鹿馬鹿しい形で現実となった。
獣病院の二階は、エラーラ・ヴェリタスによって完全に占拠されていた。
「おい……エラーラ……!これは一体どういうことだ……!」
階段を上がってきた俺は、目の前に広がる光景に絶句した。
かつて数箱の古い書籍と予備のベッドが置いてあるだけだった静かな空き部屋は、原型をとどめていなかった。
部屋の壁一面には、エラーラがどこからか調達してきた魔導回路の配線がのたうち回り、怪しい紫や緑の光を放つフラスコが所狭しと並べられている。部屋の中央には、木組みの巨大な謎の装置が鎮座し、シュウシュウと怪しい蒸気を吹き出していた。
さらに、廊下に面した扉には、ペンキでデカデカと新しい看板が掲げられている。
「ヴェリタス探偵事務所」
俺はこめかみを引きつらせながら、部屋の中心で白衣を揺らしている女を睨みつけた。
「探偵事務所ってなんだ!ここは獣病院だぞ!」
「やあ、ケンジ君!いいところに来たね!」
エラーラは片手に怪しい青い液体が入った試験管を持ち、もう片方の手で大袈裟にポーズを決めた。
「説明しよう!私ほどの頭脳があれば、大学の警備システムなど遠隔の魔導共鳴で一発突破できるのだよ!無事に身分証と救国の勲章を取り戻した私は、莫大な資金を動かせるようになった! そこでだ、天才の私は考えた!」
「考えなくていい!」
「王都の民は実に愚かで哀れだ。毎日毎日、くだらない悩みや失くし物、原因不明の現象に頭を痛めている。ならば、この世界最高の知性である私が、科学と魔導の力をもってそれらの問題を一瞬で解決してやろうではないか!探偵業とは実に合理的で、知的好奇心を刺激する娯楽だよ!」
「ただの退屈しのぎだろ!」
俺が叫ぶ横で、ひょっこりと顔を出したアリアが、感心したように頷いていた。
「あら、昨日も、近所のおばあさんの消えた鍵を、エラーラが金属探知の魔導具を作って一秒で見つけたのよ。お礼に美味しいアップルパイをもらったわ」
「アリア、君まで買収されるな!そもそも探偵事務所って、警察や治安維持隊の仕事だろ!」
「ほほう?治安維持隊の無能どもに何がわかるというのだね、ケンジ君」
エラーラは鼻を鳴らし、部屋の隅に視線を向けた。
そこには、毛並みの荒れた一匹の野良猫が座っていた。エラーラがどこからか拾ってきたらしい、片耳の欠けた薄汚れた黒猫だ。
エラーラは白衣のポケットから小さな魚肉の切れ端を取り出すと、威風堂々と黒猫に歩み寄った。
「さあ受け取りたまえ、ネコ!私の差し出す高タンパク質の栄養素だ!」
しかし、黒猫は激しい威嚇の声を上げると、エラーラの手を鋭いパンチで一閃した。
「ふぎゃっ!?」
魚肉が床に落ちる。黒猫はそれを素早くくわえると、エラーラをあざ笑うかのようにフッと鼻を鳴らし、窓枠の上へと跳び上がった。完全にナメられている。
「……くっ、相変わらず凶暴な個体だね、ネコは。だがそれもいい!容易に懐かない野生の摂理、実に興味深い観察対象だ!」
俺は言葉を失い、開いた口が塞がらなかった。
あのアーク・ノヴァで知った、血塗られた世界線。ヴェリタス家という、すべてを統べる絶対的な影。
だが、目の前で猫に手を叩かれながら、ドーナツをかじり、怪しい薬品を混ぜ合わせているこの女を見ていると、そんな壮大な絶望すらも馬鹿馬鹿しく思えてくる。
運命がなんだ。世界のループがなんだ。
ここには、台本にも予測データにも存在しない、泥臭く狂った日常が確かに存在している。
「さあ、ケンジ君!アリア君!」
エラーラは試験管を掲げ、銀髪を揺らしながら大袈裟に腕を広げた。その青い瞳には、この世界のあらゆる謎と真実を解き明かそうとする、底なしの情熱が宿っていた。
「今日も王都の理不尽と謎を、この私の知性で叩き潰してやろう!不確定で、予測不能で、混沌に満ちたこの世界……」
エラーラはフッと不敵な笑みを浮かべ、白衣を翻して決め台詞を言い放った。
「これぞ、真理だ!」




