怨恨0:【プロローグ】
イメージソング:ローレライ サウンドトラック
https://youtu.be/29YktmpwSW4?si=0nJ1mdHmVxiVDncD
狂気に満ちた地獄の底へと踏み外された歴史は、何度やり直してもついに正常には戻らなかった。
魔導の始祖、フウカ・ヴェリタスは、世界に対して「荒療治」を行った。
そして世界は、「しぶしぶ」平和になった……。
あの日、1995年。
極東の一国を起点として、世界は悪夢に覆い尽くされた。人類が人為的に放出した「キングダム・ウイルス」。
それは、文明の歯車を根底から粉々に破壊した。
ウイルスの侵食を受けた人類の肉体は、異形の怪物へと堕ち、あるいは、獣人へと作り変えられた。
そして、その肉体の変質と呼応するように、この世界には本来存在し得ない超常の力……「魔力」という名の毒が世界に滴り落ちた。
血塗られた混乱の時代が過ぎ去り、狂暴な力にどうにか順応した人類が新たな秩序を築き上げたのは、2025年のことだった。
為政者たちはそれまでの歴史との断絶を高らかに宣言し、元号を廃して新たな紀年法「新暦」を制定した。
しかし、その輝かしい響きを持つ新しい時代の裏側で、すでに世界は終わりのない呪われた歴史の泥沼へと足を踏み入れていたのである。
そして、新暦1年。
世界を覆う魔術のインフラを支え、その裏で隠蔽され続けていた政府の極秘実験と、その凄まじい「副作用」の真実がわずかに漏れ出したとき、為政者たちはそのすべての罪を一つの種族になすりつけることで自己保身を図った。
その標的となったのは、サメ獣人たちであった。
根拠のない陰謀論と、歪んだ劣等感に駆られた人間やエルフたちは、正義の面を被って「狩り」を始めた。サメ獣人への迫害は瞬く間に世界中を焼き尽くした。
さらに、新暦8年。
わずか数年のうちに、サメ獣人はこの世から完全なる絶滅へと追いやられた。
だが、その血塗られた惨劇のただ中に、ただ一人、生き残った者がいた。
世界で初めて魔力を会得し、全魔導生命体の頂点に君臨する始祖であり、最後のサメ獣人、フウカ・ヴェリタス。
愛する肉親を、友を、同胞のすべてを残虐な人間の手で奪い尽くされた彼女は、醜悪な世界に向けて冷徹なまでの呆れと絶望を吐き捨てた。彼女は救いの手を差しのべるどころか、時の隙間、存在の理すら凍りつく「無の世界」へと自らの身を投じ、この救いようのない星から姿を消したのだった。
絶対的な平和の象徴であり、同時に人々の憎悪の対象であったフウカという神の消失は、世界を制御不能な流血の混沌へと突き落とした。
新暦1年から新暦108年に至るまでの100年間。
世界は一瞬たりとも休まることなく、不条理な内乱、理由のない虐殺、狂気に満ちた犯罪の連鎖に塗れ続けた。フウカを失った世界は、自らの業火に焼かれるだけの壊れた玩具と成り果てた。
時は流れ、新暦108年。
暗黒の歴史の底から、さらなる因果が這い出てきた。
フウカの血脈と遺志を引く名門ヴェリタス一族の末裔たちによる、あまりにも壮絶で果てしない激闘が幕を開けたのだ。
最強の天才魔導士にして世界の理を書き換えるエラーラ・ヴェリタスの傲慢。
物理法則の呪縛そのものを超越して真実を暴く武闘派探偵ナラティブ・ヴェリタスの暴力。
エラーラの深い愛に包まれた天才エルフの少女アリシア・ヴェリタスの偏見。
エラーラの傍らに立ち、世界の盾となり続けた龍人の妻アスナ・ヴェリタスの欲望。
そして、エラーラへの歪んだ愛憎と嫉妬にその身を焦がし続けた妹ヘレナ・ヴェリタスの憤怒。
彼女たちの宿命的な激闘と殺し合いは、この星を何十度となく物理的、概念的な破滅の淵へと追いやった。
次元が裂け、時空が粉々に破裂し、命ある者たちは生きる意味すら与えられないまま、何度も無残に殺され、そして狂った理の中で無理やり生き返らされた。どれほどの年月が流れようとも、どれほどの血の海を渡ろうとも、人類は狂うことをやめなかった。100年の時が流れてなお、とうにこの世から絶滅したはずのサメ獣人に対する理不尽なヘイトと呪詛を、人々は狂信的に燃やし続けた。
そして、何度目かの新暦108年。
復活を果たした始祖フウカ・ヴェリタスが見たものは、100年前と何一つ変わらず、一微塵の反省すら持ち合わせていない、傲慢な人類の醜い姿であった。
どれほど世界を滅ぼしても、どれほど血を流させても、人間たちは最後の絶息の瞬間まで、己の欲深さと過ちを悔い改めることをしなかった。
フウカは、そのあまりの救いようのなさに、ただ冷ややかに呆れた。
だが同時に、そのどうしようもないまでの身勝手さと、尽きせぬ欲望こそが「人間」という生物の本質であることも、あまりにも痛切に理解していた。
「……救いようのない愚か者たちですこと」
フウカは、自らの膨大な魔導エネルギーのすべてを解放した。
その小さな唇が動いた瞬間、世界は完全に壊れた。
まず消え去ったのは、古い石畳の路地裏で細々と暮らしていた老婆だった。
皺枯れた顔でスープの鍋をかき混ぜていた彼女の肉体は、フウカの放った第一波の魔導の光に触れた瞬間、肉も骨も衣服すらも砕け散り、血の霧となってフウカの開いた口へと吸い込まれていった。
足元を駆け抜けていた子犬が、恐怖に鳴き声を上げる前に一飲みにされた。
その硬い骨が砕けるおいしい歯ごたえが、フウカの聴覚を心地よく刺激する。
止まることはない。
怒涛の捕食は、生あるものから無機質な都市の構造物へと容赦なく飛び火した。
街の中心にそびえ立つ高層ビルが真っ二つに引き裂かれた。鉄骨が悲鳴を上げ、ガラス窓が数千の破片となって飛び散り、巨大なコンクリートの塊が引き剥がされ、次々とその体内に呑み込まれていく。コンクリートの粉塵、鉄の錆びた匂い、そして無機物の冷たい質量が、すべて彼女の血肉へと変換されていく。
街路樹として何十年も根を張っていた大木が、根元から引き裂かれ、葉の一枚に至るまで乱雑に丸呑みにされた。
逃げ惑う少年がいた。恐怖に顔を歪めてアスファルトの上を転げ回った。だが、フウカの影が覆いかぶさった瞬間、その小さな心臓の鼓動ごと、全身が優しく、かつ、惨めに引き裂かれた。
レールの上を全速力で走っていた列車が、魔導の衝撃波によって文字通り空中で紙くずのように捻じ曲げられ、鉄の塊と人間の肉片がまんべんなく混ざり合い、真っ赤な泥の川となって大地を汚す。
駆けつけた警官隊が、拳銃を抜くよりも早く、その存在ごと咀嚼された。
夜の街で刃物を振り回していた凶悪な殺人鬼が、もっと巨大な顎に怯えながら、自慢のナイフごと喉元から齧りとられて絶命した。
燃え盛る炎を消そうとホースを握っていた消防士が、熱い蒸気と共に燃やされて一飲みにされた。
人命を救うために奔走していた医者が、白衣を血に染めたまま、その誇り高い知性を搾り取られてから胃袋の中へと消え去った。
人間だけではない。
凶悪な魔獣たちは、この絶対的な捕食者の前では、ただの肥えた家畜に成り下がった。
岩のような硬い外殻を持つ大地の魔獣が、空を飛ぶ翼竜が、毒の息を吐く海底の怪獣が、その内臓を無関心に引きずり出されながら咽頭へと押し込まれていく。
老若男女、強者も弱者も、無機質な鉄も、生命を宿した魔獣も。
一切の偏見も、慈悲も、選別もなく。
ただ「そこにあるすべての物質」が、フウカという底知れぬ胃袋へと、無限の効率で放り込まれていく。
血と臓物と涙と排泄物が混ざり合い、街全体が巨大な赤いミンチの沼へと変貌した。
世界が断末魔の叫びを上げる中、フウカはたった一人でそのすべてを咀嚼し続けた。
満たされることはない。どれだけ喰らっても、どれだけ命を奪っても、彼女の胸の奥にある果てしない……「知性という名の愛への飢餓感」と、馬鹿な世界に対する冷徹な呆れと悲しみは消えなかった。
だが。
いや。
だからこそ、彼女はすべてを喰らい尽くした。
この救いようのない世界を形作るすべての要素を一度ゼロに戻すために、徹底的な、一切の例外なき無差別殺戮を、完遂したのだった。
だが、彼女はその残酷な屠殺のあと、人間の魂が持つ底知れぬ業をそのままにする気にはなれなかった。いつの日か、このどうしようもない生物が本当の意味で変わる日が来るかもしれないという、ごく微かな、あまりにも報われない期待を胸に、フウカは自らの命の火を燃やし尽くし、滅ぼした人類をすべて元通りに蘇らせたのだった。
そして彼女は、人類の記憶から自分の存在のすべてを消し去り、誰一人として自分を知らない、遥か遠くの全く異なる異世界の次元へと、たった一人で旅立った。
この世界は、一体、どの時点で一線を超えてしまったのだろうか。
いま、フウカ・ヴェリタスは、風が吹き抜ける異世界の海岸線、その果てしない空の境界線に静かに佇んでいた。
頭上に広がる空の青。
足元を打ち付ける海の青。
その二つの世界が交わる地平線を、彼女は一人、見つめ続けている。
誰にも愛されず、誰にも理解されず、すべての絶望の記憶を、その身に背負いながら。
世界の片隅で、最後のサメ獣人は、水平線の果てに昇りゆく新しい時代の朝陽を、静かに、孤独に、見つめていた……。




