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蝶々結び  作者: chiroru
4/4

1.-4

早瀬先生と結衣が付き合い始めたのは、その少しあとだった。


 当直の合間にこっそり食堂で一緒に夜食を食べたり、

 休日に病院の近くの小さなカフェで待ち合わせしたりした。


「このケーキ、結衣が好きそうだね。」

「早瀬先生、私の好み覚えてるんですか?」

「当たり前。君のことなら、もうけっこう覚えてるよ。」


 その言葉に、頬が熱くなった。

 名前を呼ばれるたびに、世界が少し輝いて見えた。


 帰り道、人気のない裏通り。

 ふいに手をつながれて、心臓が跳ねた。


「手、冷たいね。」

「冬ですから……」

「じゃあ、俺が温めてあげる。手、貸してみて。」


 そう言って、指先を包み込む彼の手。

 少し大きくて、温かくて、まるで世界そのものを守ってくれるようだった。


 笑うタイミングも、歩く速度も似ていた。

 まるで神様が結んだ運命の糸みたいに感じていた。


 「結衣、この先もずっと一緒にいよう。」

 夜の公園で、彼がそう言った。

 街灯の明かりが淡く照らす中、結衣は小さく頷いた。


 あのとき信じて疑わなかった。

 この人となら、何があっても乗り越えられるって。





 ――けれど、その糸は思いがけない形でほどけてしまったのだ。






 その日も、日勤の終わりだった。

 夕方の病棟は、いつものように慌ただしくて、ナースコールの音が途切れることはなかった。

 それでも結衣は、仕事を終えたあとの小さな達成感に包まれていた。


 夕日が廊下の窓から差し込み、床に長い影を落としている。

 ナースステーションから医局の方をなんとなく見やったそのとき――


 そこに、見慣れた背中があった。

 白衣の袖越しに見える、あの人の背中。

 隣には、後輩の若い看護師が立っていた。


 まだ二十代前半で、誰からも可愛がられている子。

 明るくて、愛されるタイプ。

 結衣も彼女を嫌いではなかった。


 けれど――その瞬間、笑い声が聞こえた。

 早瀬先生の手が、その子の肩をそっと引き寄せた。


 抱きしめる仕草。

 世界が一瞬で静止する。

 呼吸が止まり、鼓動の音さえ遠くに消えていった。


 何かの見間違いだと思いたかった。

 でも、二人の距離は、見間違うほど遠くはなかった。


 視界の端がにじみ、手に持っていたファイルが落ちる音だけがやけに大きく響いた。



足元がふらつき、壁に手をついた。



 心の中で何かが「ぷつん」と音を立てて切れた気がした。




 頬を叩く音が、医局の中に響いた。

 それでも涙は出なかった。





 ――「結衣…ごめん。」





 「…っさようなら。」





 たったそれだけの冷えきった言葉を残して、結衣は背を向けた。



*



その夜。

 部屋の中は、静かだった。


 段ボールをひとつ広げ、少しずつ荷物を詰めていく。

 二人で撮った写真、誕生日にもらった小さなブレスレット、

 彼が残した手書きのメモ――「無理してない?結衣の笑顔がみたい。」


 ひとつ箱に入れるたび、心の中の糸が静かにほどけていく気がした。


「もう、いいよね……。」


 声に出して言った瞬間、頬をつたう涙が継ぎから次へと止めどなく流れ落ちた。

 その涙は、思っていたより温かくて、まるで長い間凍っていた心が溶け出したようだった。

窓の外は、雨と一緒にたくさんの滴が流れ落ちた。



ーーー


 翌朝、鏡の前で結衣はハサミを握る。

 結衣の髪は、彼に褒められた長い髪だった。

 「長い髪、似合ってる。」――その言葉を、今でも覚えている。


 けれど今、その髪を残しておく理由はもうなかった。


 シャキ、シャキ、とハサミが落とす音が静かな部屋に響く。

 肩に落ちた髪が、まるで過去の自分の破片のように見えた。



それから、気持ちを整理するかのように結衣は

気付いたら美容院の前に立っていた。


 美容師に「本当に切っちゃっていいんですか?」と聞かれて、

 結衣は鏡越しに自分の目を見つめた。


「はい、大丈夫です。」


 そう答えた声は思ったよりしっかりしていて、

 その瞬間、ほんの少しだけ本当に笑えた気がした。



***


 そして今、電車がホームに滑り込んでくる。

 ドアが開き、人々が流れ込む。

 制服のボタンを留めながら、結衣は小さく息を吸い、前を向いた。


 ――ほどけた糸を、もう一度結べる日は来るのだろうか。


 そう思いながらも、心の奥では、誰にも見えない新しい結び目を作っていた。


 “もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。


 だけど――人生の糸は、いつも思い通りには結べない。


 しかし、これから彼女が出会う「ある男性」が、その糸を再び引き寄せてしまうことを、

 このときの結衣はまだ知らなかった。

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