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蝶々結び  作者: chiroru
3/4

1.-3


あの頃の自分は、何もかもが手探りだった。

新人看護師として働き始めてまだ数週間。

毎日が緊張の連続で、時間に追われるように動いていた。


 ナースステーションの時計は、いつも針が早く進んで見えた。

 記録、点滴、検温、採血。覚えなければならないことは山ほどあって、頭の中はいつも混乱していた。


 特に採血のときは、どうしても針を持つ手が震えてしまう。

 患者さんの腕に影を落としながら、心の中で何度も「大丈夫、落ち着いて」と言い聞かせる。

けれど、緊張すればするほど指先はこわばっていく。


「……ごめんなさい、少しチクッとしますね。」


 そう言っても思うように針が入らず、患者さんが小さく顔をしかめた。


「ちょっと、痛いよ……。」


 その言葉に、結衣の心臓がぎゅっと縮んだ。

 隣で見ていた先輩看護師が、小声でため息をつく。


「橘さん、もっと角度を浅くしてみて。焦らないでって言ったでしょ」


「は、はいっ……すみません……。」


 声が震える。

 なんとか採血を終えて頭を下げたあと、ナースステーションに戻る足取りは重かった。

 自分の未熟さが情けなくて、泣きたくなるのを必死でこらえていた。


 ――そのとき。


「焦らなくていいよ。誰だって最初は、失敗からのスタートだから。」


 やわらかな声がした。


 顔を上げると、白衣の袖を少し捲りながら、優しく笑う男性がいた。

 早瀬(ハヤセ) 隼人(ハヤト)先生。

 外科の若手医師で、研修を終えたばかりの新人。

 けれど、その笑顔には不思議な安心感があった。


「手が震えるのは、患者さんをそれだけ大切に思ってる証拠だよ。」


「……証拠、ですか?」


「うん。怖いのは、ちゃんと相手の痛みを想像できる人だけだと思うから。」


 その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。

 結衣は小さく笑った。

「……ありがとうございます。」


「ほら、こうやって深呼吸してみて?」


 そう言って、彼は軽く背中を押してくれた。

 あの温もりを、結衣はきっと一生忘れない。


 それからの日々、結衣は少しずつ彼と言葉を交わすようになった。

 廊下ですれ違うたびに、

 「お疲れさまです。」

 「お疲れ様!今日も忙しかったね。」

 そんな何気ない言葉が交わされるだけで、胸がふわりと軽くなった。


 食堂で偶然隣の席になった昼休み、

 「橘さんて、コーヒーとか飲める方?」

 「ええと、ミルクたっぷりなら……。」

 「じゃあ、次からそれで持ってくるね。」

 そんな他愛ない会話のひとつひとつが、当時の彼女には宝物のように思えた。


 笑うタイミングも、歩く速度も、不思議と似ていた。

 まるで神様が見えない糸で結んでくれたように感じていた。




 それからの毎日は、不思議なほど早く過ぎていった。

 ナースステーションの向こうから聞こえる彼の声。

 カルテに目を落としながらも、どこかでその姿を探してしまう自分がいることに気が付いた。


「橘さん、今日も頑張ってるね。」

「……はい。まだ慣れなくて。」

「慣れなくていいよ。完璧な新人なんていないんだからさ。」


 そう言って笑う顔に、いつも救われた。


 休憩室で二人きりになった昼下がり。

 湯気の立つ紙コップを差し出される。


「ココアでいいかな?」

「はい、覚えていてくださってたんですね……。」

「まあね。橘さんのことなら…ね?」


 そんな何気ない会話が、嬉しくてたまらなかった。


 夜勤明け、朝日が昇る病院の屋上。

 二人で缶コーヒーとココアを分け合った。

 オレンジ色の光の中で、彼の横顔がやけに優しく見えた。


「橘さんって、頑張り屋さんだよね。」

「そんなことないですよ!すぐ落ち込んじゃうし、すぐ泣いちゃうし。」

「それでいいんだよ。泣ける人のほうが、誰よりも強い心を持ってるんだから。」


 不意に見つめ合って、なんだか照れくさくなってて目を逸らした。

 けれどその瞬間、胸の奥がドキドキしていた。




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