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ダンジョン会議

地上では初夏の乾いた風が吹き抜ける東京・永田町。しかし、首相官邸の最深部に位置する地下特別会議室は、地上の季節感とは完全に隔絶された、冷徹かつ濃密な熱気に満たされていた。


極厚の防音壁と最新鋭の電磁シールドに守られたその部屋は、国家の命運を左右する最高機密や、国家緊急事態宣言の裁定にのみ使用される、文字通りの「最後の砦」である。しかし、今この部屋を埋め尽くしているのは、これまでの日本の歴史の中で経験したことのない、地球規模の地殻変動を思わせる凄まじいまでのプレッシャーだった。


部屋の中央に据えられた、重厚なマホガニー製の大型円卓。その上には、もはや収まりきらないほどの書類がうずたかく積まれ、いくつもの山を形成していた。それらはすべて、ここ数十時間の間に世界各国から一斉に届けられた、最高暗号レベルの電報や公式の外交書簡である。


「……アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ。さらには中国、ロシア、インド、オーストラリア。文字通り、地球上の主要国、ひいては国連常任理事国を含むすべての超大国が、我が国との個別トップ会談、あるいは例外なき緊急多国間協議を求めてきています」


外務大臣が、手元の暗号化タブレットに次々と表示される未読の重要アラートを指でスクロールしながら、掠れた声で報告した。その目の下には、丸二日一睡もしていないことを物語る色濃い隈が刻まれている。普段は洗練された外交辞令を使い分ける彼の手が、今は微かに震えていた。


「その他、中東の産油国、南米の資源大国、アフリカの連合体からも、駐日大使を通じて連日のように面会要請が入っている状況です。彼らの要求は、文面こそ各国の外交的修辞や友好の言葉で飾られていますが、本質はすべて同じ。要求の核心は、ただ一つしかありません」


官房長官が、山積みになった資料の最上部にある、アメリカ合衆国大統領からの直筆署名入り親書と刻印されたファイルを手に取り、深く、重い溜息を吐き出した。その表情には、押し潰されそうなほどの疲弊が滲んでいる。


「世界初の『ダンジョン攻略成功』に関する詳細な情報提供、および戦闘データの全面開示。そして、攻略報酬として確認された奇跡の霊薬『ポーション』の分配、あるいはその製造・入手に関する全面的協力の要請……。これほどまでに世界が一色に染まり、我が国に平身低頭、あるいは脅迫めいた態度で詰め寄ってくるとはな。歴史上、こんな事態は一度としてなかった」


「当然でしょう」

防衛大臣が、頑強な腕を組んだまま、険しい表情で机の上の資料を見つめた。その視線の先にあるモニターには、先日、日本国内に現れた第一号ダンジョンで記録された、世界初の「ダンジョン踏破」の映像記録が静かにループ再生されていた。


「人類史上、誰も成し遂げられなかったダンジョンの最深部への到達。そして、現代医学では不治とされる病や致命傷すら一瞬で癒やすという、概念そのものが奇跡である『完全治癒ポーション』の獲得。それが、映像だけでなく、科学的な分析によっても『本物』であると証明されたのです。各国が狂乱せんばかりに我が国に詰め寄ってくるのも無理はありません。今や我が国は、世界で唯一、ダンジョン攻略の成功例と、その具体的なプロセス、そして現物を握る唯一の『超大国』となってしまったのですから」


防衛大臣の言葉が会議室のコンクリート壁に重く反響し、再び息の詰まるような沈黙がその場を支配した。

机を囲む閣僚たちの誰もが、背負わされた責任のあまりの重さに圧倒されていた。日本が手にしたのは、世界を変革する全能の鍵であると同時に、一歩間違えれば、羨望と嫉妬に狂った世界中を敵に回しかねない、破滅の引き金でもあった。もし情報の独占を宣言すれば、明日にも経済封鎖、最悪の場合は超法規的な軍事介入すらあり得る。


それほどまでに「ポーション」の価値は、従来の大量破壊兵器や化石燃料の利権を遥かに凌駕していた。

その張り詰めた沈黙を破ったのは、会議室の片隅に置かれた、総理の賓客用であるはずの豪奢なベルベット製ソファから響いた、場違いなほどに軽やかな音だった。


サクッ。

上質な高級バターと小麦が焼き上がった香ばしい匂いが、張り詰めた室内の空気にふわりと溶け出す。

全員の視線が自然とそちらへ向かった。そこには、背もたれにゆったりと身を預け、クッキーを優雅に口へと運ぶ

一人の少女――いや、人間の姿を模して現世に降臨した「神」である、月詠霞の姿があった。


「霞様」

総理大臣が、これまでの人生で一度も使ったことのないほどの、最も深い敬意と平伏の念を込めて彼女に視線を向けた。その表情には、一国の最高権力者としての威厳とともに、目の前の存在に対する絶対的な畏怖が滲み出ていた。人間がどれだけ軍隊を揃え、法を整備しようとも、彼女が一言「消えなさい」と呟くだけで、この国など一瞬で塵に還ることを、彼らは直感的に理解していた。


「世界各国からの、この猛烈なまでの要求……。そして今後の対応、および我が国が取るべきスタンスについて、神たる霞様のご意見を、ぜひともお聞かせ願いたく存じます」


霞は手にした最高級のウェッジウッドのティーカップから、淹れたてのアールグレイを上品に一口啜り、カチリと微かな音を立ててソーサーに戻した。そして、少しだけ首を傾げて、少女らしい仕草で考え込んだ。その滑らかな髪の動き一つ取っても、人間の常識を超えた神秘的な美しさと、空間を歪めるほどの神聖さが宿っている。


「そうねぇ……」

彼女は長い睫毛を揺らしながら、集まった日本のトップ閣僚たちを、まるで迷える子羊を見るかのような優しい眼差しで一人ずつ見つめた。


「まず、根本的な部分で、一つ勘違いをしている国がとても多いみたいだけれど」

その静かな、しかし有無を言わせぬ一言が放たれた瞬間、官房長官も防衛大臣も、まるで冷水を浴びせられたかのように背筋を伸ばし、姿勢を正した。彼女の口調はどこまでも穏やかで、近所の少女と話しているかのような錯覚さえ覚えるが、そこに内包された言葉の質量は、地球上の全核兵器を合わせたものよりも重い。


「ポーションっていうのはね、ただ配れば万事解決、っていう種類のものじゃないのよ。例えば、あなたたちが今一番気にしている『完全治癒ポーション』。あれは確かにどんな怪我も病気も、死にかけの身体すら一瞬で元通りに治せるけれど、本質的には『一本使えばそれで終わり』の消耗品よ。魔法のように空気から無限に湧き出るわけじゃない。なくなれば、また命を懸けて危険なダンジョンを攻略し、その奥底から持ち帰るしかないの。つまりね、現物そのものには、本質的な価値はないのよ」


官房長官が、自身の喉が鳴るのを自覚しながら、静かに、噛み締めるように頷いた。

「つまり……目先の現物を他国に分け与え、機嫌を取ることには、長期的な意味も、安全保障上のメリットもない、と」

「ええ、その通り」

霞は満足そうに微笑み、細く白い指先でティーカップの縁を滑らせた。


「本当に大切なのは、ポーションそのものじゃないわ。それをいつでも、必要な時に自力で獲りに行ける『ダンジョンを攻略する力』を、人類自身が育てること。そして、人類全体の戦力と生存能力を底上げすることよ。ダンジョンが現れたのは人類に対してに試練よ。人類という種全体の進化であり、生き残るための適応を求めているのだから」

彼女の言葉が、会議室の空気をガラリと変えた。


これまで日本政府も、そして要求を突きつけてくる諸外国も、頭のどこかで「限られたパイ(果実)をどう分配し、いかにして他国より優位に立つか」という、前世紀から続くゼロサムゲームの論理で動いていた。しかし、霞が見据えている地平は、国家や国境という矮小な枠組みなど遥かに超越した、「人類の未来」そのものだった。


「日本だけが他国を出し抜いて突出して強くなって、日本国内のダンジョンだけを綺麗に片付けたところで、世界中に現れたダンジョンが消えてくれるわけじゃないでしょう? 放っておけば、他の国で対処しきれなくなったダンジョンから溢れ出た魔物が、津波のように世界を滅ぼしてしまうわ。人類全体が等しく強くならなきゃ、何の意味もないのよ」


総理大臣は深く息を吸い込み、そして、これまでの古い政治的思考を完全に捨てるかのように、力強く頷いた。

「確かに……霞様のおっしゃる通りです。我々は目先の利益や、国際社会での外交優位という狭い視野に囚われ、大局を見失うところでした」


霞は悪戯っぽく微笑みながら、皿からもう一枚のクッキーを手に取った。

「だから、結論としてはね。ポーションそのものを他国に安易に譲る必要は一切ないわ。それはあなたたちが命を懸けて得た、正当な努力の報酬なんだから。でもね――」


彼女はクッキーをサクリと噛み砕き、言葉を続けた。

「攻略方法や、ダンジョンに関する基礎的なシステムデータ、魔物の弱点なんかを隠す必要も、全くないわ」

「なっ……公開、するのですか!?」

防衛大臣が思わず椅子を鳴らして身を乗り出し、驚愕の声を上げた。世界を日本のコントロール下に置くことができる最大の非対称カードを、無償で世界に手放すと言われたに等しいからだ。


「もちろんよ」

霞は一切の迷いなく即答した。


「情報を独占したところで、人類全体が弱ければ結局は共倒れよ。それにね……」

彼女は少しだけ口角を上げ、神ならではの、すべてを織り込み済みの含みを持たせた笑みを浮かべた。


「各国には、それぞれの土地に根ざした独自のダンジョンがあるでしょう? 構造も、出てくる魔物も、気候も、トラップの性質も全部違う。基礎知識を教えたところで、最終的には自分たちの足で立ち上がって、自分たちの命を懸けて攻略しなきゃいけないんだから。過保護にする必要はないけれど、スタートラインに立たせるための手助けは、むしろ積極的にすべきよ」

その毅然とした、しかし人類への深い慈愛に満ちた言葉を聞き、総理大臣は静かに椅子から立ち上がった。彼の瞳からは、先ほどまでの迷いや困惑、大国からの圧力に対する恐れが完全に消え去っていた。


「方針は決まりました。それでは、日本政府としての公式ステートメント、および世界に向けた新指針を策定します」

会議室の全員が、総理の背中に熱い視線を送る。


「第一に、世界各国に対し、我が国がこれまでに蓄積したダンジョン攻略の『基礎情報、魔物の生態、および戦闘データ』を全面共有・無償公開する。

第二に、獲得したポーションをはじめとする高ランク報酬については国家の厳重な管理下に置き、安全保障上の観点から、安易な国外流出および商業的な譲渡は一切行わない。

第三に、諸外国との共同研究機関を日本国内に立ち上げ、人類全体のダンジョン適応能力および攻略能力の底上げを、我が国が主導する」


総理は一度言葉を区切り、ゆっくりと振り返って、ソファに座る少女へ向かって深く、最敬礼の角度で一礼した。


「そして第四。神である霞様の御意志を我が国の最高絶対の指針とし、日本は人類全体の未来を救うための『先導国』として行動する」

その宣言に対し、異論を唱える者は、もはやこの部屋には誰一人としていなかった。


こうして、日本政府は混沌とする世界の中で、明確な羅針盤を手に入れ、世界初の「ダンジョン先進国」としての新たな一歩を踏み出したのだった。


日本政府が世界に向けて「ダンジョンに関する新方針」と、それに伴う「緊急国際会議の招集」を発表した翌日。

東京・羽田空港は、建国以来、いや人類の歴史をどれほど遡っても類を見ない、異様な光景に包まれていた。


普段であれば、世界中からの観光客やビジネスマン、色鮮やかな民間航空機が行き交う広大な滑走路。しかしこの日ばかりは、すべての民間便が急遽欠航、あるいは成田空港や地方空港へと強制的に代替着陸させられ、空港一帯は完全に「国家の要塞」へと変貌していた。


ゴォォォォ……という、空気を引き裂くような重低音の地響きとともに、白地に赤丸をあしらった日本の政府専用機、星条旗を掲げたアメリカの『エアフォース・ワン』、フランス共和国の三色旗をまとった機体が、数分おきという、通常の航空管制の常識を無視した超過密スケジュールで次々と滑走路に滑り込んでくる。


アメリカ合衆国。

連合王国イギリス

フランス共和国。

ドイツ連邦共和国。

イタリア共和国。

カナダ。

オーストラリア連邦。

インド。

中華人民共和国。

大韓民国。


さらには、中東、南米、アフリカの主要国を含む、世界数十カ国の大統領、首相、そして国家元首クラスの重鎮たちが、文字通り「一堂に会する」ために日本へと降り立っていた。これほどの超VIPが同時に一つの国、一つの空港に集まるなど、過去の主要国首脳会議(G7やG20)すら遥かに凌駕する、地球の歴史上初の異常事態だった。通常であれば、首脳一人が移動するだけで数ヶ月前から準備が必要なところを、各国はすべてのスケジュールを白紙にして、要請からわずか二十四時間以内に日本へと飛び込んできたのだ。


当然、それを受け入れるための日本側の警備態勢もまた、狂気とも言える防衛密度に達していた。

空港の敷地内だけでなく、周辺の臨海地域、首都高速道路一帯には、警視庁および全国から総動員で招集された警察庁の機動隊員、さらには実戦装備に身を包み、実弾を装填した自衛隊の普通科部隊が合同で展開。数メートルおきに鋭い視線を走らせる警備兵が配置され、空港周辺の半径五キロ圏内は一般人の立ち入りが完全に禁止された。周辺の住民には外出自粛要請が出され、湾岸エリアの物流は完全にストップしている。


空を見上げれば、航空自衛隊の最新鋭戦闘機F-35Aが数機編成で爆音を響かせながら、戦闘配置のまま常に上空を警戒飛行しており、東京湾の海上には、海上自衛隊のイージス護衛艦や海上保安庁の大型巡視船が、何重もの強固な防衛線を築いて停泊している。民間船の航行はすべて差し止められ、海中には潜水艦の侵入を防ぐためのソナー監視網まで敷かれていた。


世界中の要人が集まっているから、という理由だけではない。

最大の理由は、この後の会議に――本物の「神」が出席する。


そのあまりにも現実離れした、しかし紛れもない事実に対し、各国政府はテロ対策という名目のもと、自国の元首を護衛するため、そして同時に「神」に対して不敬を働かないよう、自国の威信をかけた最高レベルの警戒と、最大級の敬意を払わざるを得なかったのだ。もしここで何らかの不手際があり、神の不興を買えば、その国家そのものが地図から消え去る可能性すらある。各国の随行員やSPたちの顔は、緊張のあまり土気色に変色していた。


同じ頃、首相官邸の地下特別会議室。

前日から引き続き、総理をはじめとする主要閣僚たちが、刻一刻と変化する状況の最終確認に追われていた。会議室の大型モニターには、羽田空港から官邸へと続く高速道路の監視カメラ映像が何十分割にもされて映し出されている。


「各国代表団の到着および移動状況は!」

総理の鋭い声が飛ぶ。彼の声もまた、緊張で固くなっている。


「すべて予定通り、極めて順調です」

官房長官が、リアルタイムで更新される警備状況のデータを見ながら答える。


「アメリカ大統領の車列は、十分前に羽田を出発。キャデラックの重装甲仕様ビーストを中心とした総勢五十台の車列が、間もなく首都高を抜けて官邸敷地内に入ります。イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの代表団も、それぞれの厳重な車列で官邸へ移動中。中国およびロシアの特使団も、間もなく空港からの移動を開始します。首都高速道路は完全に一般車を排除し、我が国の警察車両が前後を完全に固めております」


「官邸周辺の防衛システムに不備はないか?」

総理が防衛大臣を睨みつけるように尋ねる。


「異常ありません」

防衛大臣は毅然とした態度で頷いたが、その拳は固く握りしめられていた。


「官邸を中心に、半径五キロ圏内の陸路は完全封鎖。上空は対空ミサイル部隊がロックオン態勢を維持。さらに、テロリストのドローン兵器や化学兵器を警戒し、広帯域電波妨害装置ジャマーおよび最新鋭の対ドローン用高出力レーザー迎撃システムも稼働を完了しています。自衛隊の特殊作戦群も官邸内部のあらゆる死角に配置。万が一の事態が起きる確率は限りなくゼロに等しい……万全です」


「……そうか」

総理は深く息を吐き出し、自身のネクタイを締め直した。鏡に映る自分の顔は、まるで行刑台に向かう男のように硬直している。


これほどまでの規模の国際外交は、人類の歴史をどれだけ遡っても存在しない。世界を二分した冷戦期の大国会談すら、これに比べれば牧歌的な話し合いに過ぎない。しかも、今回の外交の主役は、対等な主権を持つ他国ではないのだ。世界にダンジョンという超常の試練をもたらし、人類にその適応と攻略を促す「絶対的な上位存在」――神。


歴史の教科書のどこにも載っていない、前人未到の、そして失敗の許されない外交が始まろうとしていた。


その頃、首相官邸の最上階に近い、最高賓客用の特別控室。


外の防衛軍による厳重きわまる喧騒や、世界各国の首脳たちが放つピリピリとした殺気めいた空気とは、完全に物理的・精神的に隔絶されたその部屋で、霞は高級な本革製ソファの上にゴロゴロと仰向けに寝転がりながら、壁に掛けられた大型テレビの画面をぼんやりと眺めていた。


テレビの中では、世界各国の主要メディアのキャスターたちが、興奮と緊張のあまり声を上ずらせながら、羽田空港から次々と出発する各国首脳の車列を生中継している。


「へぇ、ずいぶんたくさん集まったわねぇ。人間って、こういう利害が絡んだ時の行動力だけは、本当に目を見張るものがあるわ」

霞はそう独り言を呟きながら、テーブルの上に置かれた市販のスナック袋に細い手を伸ばし、ポテトチップスを一枚、指先でつまんで口へと放り込んだ。


パリッ。

高級ホテルのスイートルームをも凌ぐ静かな室内に、なんとも気の抜けた、軽い咀嚼音が響き渡る。


そのソファの傍らに、借りてきた猫のように直立不動で控えていた神宮寺(日本政府から霞の専属お世話係兼連絡官として任命された、財務省・外務省を渡り歩いた超エリート官僚)は、額にじっとりとした冷や汗を浮かべながら、これ以上ないほど複雑で苦い笑みを浮かべた。


「霞様……」

「んー? なぁに、神宮寺。あなたも食べる? 九州しょうゆ味、結構いけるわよ?」

「……お気遣いありがとうございます。しかし、私の胃が今、それを拒絶しておりまして。……それよりも霞様、間もなく、世界数十カ国の首脳たちが一堂に会する国際会議が始まります。お召し物や、その、神としての……心の準備のほどは……」


「分かってるわよ」

霞はポテトチップスをのんびりと飲み込み、今度はサイドテーブルに置かれたアールグレイの紅茶を一口、優雅に楽しんだ。


「でも、まだ時間はたっぷりあるでしょう? 人間って、どうしていつもそんなに生き急いでいるのかしら」

神宮寺は、自身の左腕にあるパテック・フィリップの文字盤に目を落とし、引き攣った声を絞り出した。


「……あと五分で、世界大統領や首相たちが待つ、会議の開始予定時刻でございます」


「あら、本当? 時が経つのは早いわねぇ。このテレビの生中継、結構面白くて見てちゃうのよね」

霞はくすくすと、まるで春の鈴を転がすような愛らしい声で笑うと、ソファからゆっくりと、名残惜しそうに身を起こした。


「じゃあ、そろそろ行きましょうか。世界を動かす偉い人たちを、これ以上待たせるのも悪いしね」

そう言って、彼女が完全に両足で床を踏みしめ、立ち上がった――その瞬間だった。


部屋全体の空気が、一瞬にして完全に、そして不可逆的に変貌した。

それまで室内に漂っていた、おっとりとした今時の女子高生のような、気の抜けた親しみやすい雰囲気が一瞬で霧散する。


霞の身体から、目に見えない、しかし世界そのものを圧し潰すような質量を持った「神としての絶対的な威厳」が、静かな奔流となって溢れ出したのだ。


部屋の気圧が急激に変化し、重力が数倍になったかのような錯覚。ただそこに存在しているだけで、周囲の空間、光、そして時間の流れそのものが彼女の意志に従属しているかのような、圧倒的な存在感。


神宮寺は、誰に命令されたわけでも、物理的な力を加えられたわけでもないのに、本能的な恐怖と、魂の底から湧き上がる圧倒的な畏敬のあまり、心臓が爆発しそうなほど跳ね上がり、自然と直立不動の姿勢のまま、深く頭を下げていた。呼吸をすることすら、この神聖な空間においては許されない不敬なのではないかと感じさせるほどの、神威。


「行きましょう、神宮寺」

霞は、先ほどと変わらない穏やかな微笑みを浮かべていた。しかし、その瞳の奥には、星々の運行や宇宙の開闢すら司るかのような、底知れない、人間には決して理解できない知性と神威が宿っていた。


「人類の代表たちと、これからの地球の未来についてお話しする時間だもの。彼らが正しい道を選択できるように、しっかり導いてあげなきゃね」

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