ダンジョン攻略
翌日、午前九時五十分。
新宿区――第二ダンジョン。
普段は冷徹な鉄柵と厳重な自動警備システムによって、一般人の立ち入りが完全に遮断されているその領域は、あの日を境に一変していた。そこにあったのは、人類史の転換点を一目見ようと集まった、かつてない数の人間の熱気と、肌を刺すような緊張感だった。
ダンジョンの外縁を埋め尽くすのは、重厚なオリーブドラブに塗装された自衛隊の装甲車両。何重にも強固な防衛線が敷かれ、そのさらに外側では、拡声器を手にした警察官たちが押し寄せる群衆と報道陣を阻むべく、必死の交通規制を行っている。
誰もが、夏の兆しを孕んだ青空を見上げていた。
上空では、政府の特別許可を得た報道各社の中継ヘリと、無数のドローンが蜂の巣のように旋回している。それらが放つ不気味な風切り音と機械駆動音の隙間を縫って、世界中へ向けられた電波が、興奮に震えるアナウンサーの声を送り続けていた。
『――まもなく、まもなくです! 人類史上初、神授能力者によるダンジョン攻略作戦が開始されます!』
『現在、日本国内のみならず、全世界で百を超える国と地域で同時生中継が行われています。地球の命運を懸けた視線が、すべてこの神奈川に集まっています!』
数十億の視線が、一点に収束する。
ダンジョン入口。
剥き出しのコンクリートの前に、五人の男女が影を落としていた。
東條蓮。
白石凛。
黒崎修吾。
藤堂玲奈。
桐谷蓮司。
誰も、口を開かない。
これまで幾度となく、生還の確率を無視したような死線を潜り抜けてきた彼らだ。だからこそ、今この場を支配する絶対的な静寂が、恐怖による硬直などではなく、極限まで研ぎ澄まされた集中であることを、互いの呼吸だけで理解していた。
それは、死地へ足を踏み入れる者だけが纏う、濃密な空気だった。
そこへ、硬い足音を響かせて神宮寺がゆっくりと歩み出る。
五人の前に立ち、その鋭い眼光で一人ひとりの顔を見据えた。
「諸君」
低く、しかし驚くほど明瞭に響く声だった。
「今回の任務は、人類が暗闇の中で新たな一歩を踏み出す、歴史的な挑戦だ」
一拍、間が置かれる。神宮寺の視線が、五人の背負うものの重さを測るように深くなった。
「しかし、それ以上に重要なのは――必ず、生きて帰ってくることだ」
五人は微動だにせず、ただ静かに、けれど網膜の奥に強い意思を宿して頷いた。
「君たちは英雄になるために選ばれたのではない。未来を切り開くために選ばれた。そのことを、一瞬たりとも忘れないでほしい」
神宮寺の言葉を受け、先頭の東條が一歩前へ踏み出す。その佇まいには、神から授かったという未知の力が、目に見えない歪みとなって大気を震わせているようだった。
「了解しました」
短い返事だった。
だが、その一言には、世界中の祈りと呪いを背負うだけの揺るぎない覚悟が乗っていた。
神宮寺は満足そうに、深く首を縦に振る。
「では――作戦を開始する」
その宣告と同時に、ダンジョン入口を厳重に封鎖していた、厚さ数メートルに及ぶ超合金製の巨大な隔壁が動き始めた。
ゴゴゴゴゴ……と地鳴りのような重々しい駆動音が、周囲の地面を揺らしながら、ゆっくりと左右へ開いていく。
その先に広がっていたのは、光を拒絶する漆黒の闇。
10年前に世界が変貌して以来、人類がまだ誰一人として踏破していない、未知の深淵が口を開けていた。
東條が迷いなく先頭に立つ。その手はすでに、愛刀の柄にかけられていた。
「隊形を維持。俺が前衛」
「黒崎は後衛を警戒」
「藤堂は索敵」
「白石は遊撃」
「桐谷、全体指揮を頼む」
「了解」
短い応酬。
それだけで、彼らの意識は完全に同期する。五人は正確に足並みを揃え、未知の暗闇へとその身を投じた。
その瞬間、世界中の中継画面が一斉に、暗視モードの緑がかった映像へと切り替わる。
『――攻略隊、ダンジョン内部へ進入しました! ここから先は、人類未踏破区域を目指す戦いとなります!』
一歩入れば、そこは地上の狂騒から完全に切り離された異世界だった。
肌にまとわりつくような、ひんやりとした湿った空気。
古い岩肌の隙間から不規則に滴り落ちる、かすかな水滴の音。
静まり返った一本道の通路には、彼ら自身の固いブーツの足音だけが、不気味に反響していた。
「……静かだな」
東條が視線を落とさぬまま、低く呟く。
白石は自身の周囲に透明な魔力を巡らせ、肉眼には見えないレーダーを張りながら答えた。
「静かすぎる。こういう時ほど、気を付けた方がいい」
その言葉の残響が消えるより、ほんのわずかに早かった。
ピクリ、と最後尾にいた藤堂の眉が跳ねる。その表情が、一瞬で鋭利なものへと変貌した。
「反応……!」
その緊迫した一声で、全員の身体が限界まで引き絞られた弦のように緊張する。それぞれが自身の獲物を、暗闇の
奥へと向けた。
「右前方!」
藤堂の指し示す闇の深淵。
そこに、冷徹な赤い光が、ぽつりと一つ灯った。
いや、一つではない。二つ、三つ、四つ――。
暗闇の至る所から、不気味な血の色の眼光が、また一つと浮かび上がってくる。
やがて、地を這うような低い、不快なうなり声と共に、その悍ましい輪郭がゆっくりと姿を現した。
鋭く突き出た牙。
刃物のように研ぎ澄まされた黒い甲殻。
人間の大人を軽々と噛み砕く巨体を持つ狼型の魔物――シャドウファング。
これまで幾度となく、優秀な探索者たちを肉塊に変え、攻略隊を退却へと追い込んできた、極めて獰猛な危険度B級の群れだった。その数、十数体。
しかし、東條の双眸に揺らぎはなかった。彼は静かに剣を引き抜き、正眼に構える。
「……来るぞ」
人類史上初。
神の力を宿した者たちによる最初の戦闘が、今まさに、全世界の秒針を止めるようにして始まろうとしていた。
戦闘は、あまりにも静かに、そして呆気なく幕を閉じた。
かつて多くの探索者を絶望の底へと突き落としたシャドウファングの群れを完全に屠ったにもかかわらず、攻略隊の五人の息はまったく乱れていなかった。
荒い呼吸も、激しい鼓動の音もない。ただ、肉塊と化した魔物から立ち上る微かな魔力の霧だけが、冷たい大気に溶けていく。
ダンジョン内に、再び重苦しい静寂が戻る。
東條は抜き放った剣を鞘へ収めることなく、切先を微かに下げた状態で周囲の暗闇へ鋭い視線を巡らせた。
「全員、無事か」
「問題なし」
黒崎が巨大な大盾を肩に担ぎ直し、短く答える。その鉄錆色の双眸には、疲労の色など微塵もなかった。
「魔力消費も、ほとんど感じないな」
藤堂も手元に灯した索敵の魔力光を弄びながら、深く頷く。
「このまま、何一つ支障なく索敵を続けられます」
白石は細い首を傾げ、少しだけ肩を回しながら、どこか拍子抜けしたように苦笑した。
「……なんだか、まだ準備運動にもなってないわね」
その一言に、隊員たちは思わず互いの顔を見合わせる。
軽口のようでありながら、それは決して傲慢の類ではなかった。なぜなら、現場にいる誰もが全く同じ感覚を共有していたからだ。
昨日までであれば、一歩間違えれば命を落としかねなかった高危険度の戦闘。それが今では、信じられないほど深い余裕を持って、まるで子供の手をひねるかのように対処できてしまう。
神が授けた、超常の力。
その恩恵がもたらす現実の改変は、彼らの想像を遥かに超えた領域に達していた。
◇
一方、その光景を地上から見守る政府特別観測室は、現場とは真逆の静かな混乱に包まれていた。
壁一面に埋め込まれた大型モニターには、攻略隊五人の生体データやバイタルサインが、無数の折れ線グラフとなってリアルタイムで刻々と表示されている。
「信じられない……」
精密な数値を凝視していた天城が、乾いた声を漏らす。
「戦闘直後であるにもかかわらず、全員の心拍数はほぼ平常値を維持しています。乳酸値の上昇も見られず、筋疲労も極めて少ない」
「魔力残量……おい、嘘だろ。九十七パーセントだと?」
隣に座るベテランの研究員が、眼鏡の奥の目をこれ以上ないほど見開いて画面を凝視した。
「通常のアプローチなら、危険度B級の群れをあれだけの短時間で殲滅すれば、どれほど効率よく立ち回っても二割以上は総魔力を消費するはずです。それが、たったの三パーセント……!」
部屋にいたオペレーターや政府高官の全員が、言葉を失って凍りつく。
この10年間、人類が血を流しながら泥泥になって集めてきたあらゆる戦闘データ、戦術理論、常識。その全てが今、目の前のデジタル数字によって、その意味を完全に失おうとしていた。
神宮寺は一人、腕を組んだまま、静かに明滅するモニターを見つめている。
「……これが、神の力か」
その低く呟いた一言には、科学では測りきれない絶対的な力への驚きと、この10年の絶望を覆せるかもしれないという、狂おしいほどの期待が入り混じっていた。
◇
ダンジョン内部。
世界からの驚嘆を他所に、攻略隊は精密な機械のように一定の速度を保ったまま、歩みを止めることなく進み続けていた。
昏い一本道の途中で、彼らの行く手を阻むように現れる魔物たち。
獰猛な笑みを浮かべるゴブリンの群れ。
巨体を揺らすオーク。
鉄壁の防御を誇るアーマービートル。
どれも通常であれば、複数の小隊が連携し、周到な作戦を立てて対処するべき悪夢のような相手だった。
しかし。
今の五人にとっては、ただそこにある障害物に過ぎず、足を止める理由にすらならない。
東條が一振りすれば、大気を引き裂く剣風だけで魔物の肉体が両断される。
白石が一閃すれば、絶対零度の冷気が通路ごと敵を凍結させ、砕け散らせる。
黒崎がただ重厚な盾を構えて一歩前進するだけで、迫り来る魔物は骨を砕かれて吹き飛び、その後方から藤堂が放つ高密度の魔法が、残った群れを一網打尽に薙ぎ払っていく。
全体を最後方から見据える桐谷は、冷徹なまでに冷静に盤面を把握し、最も効率の良い、最短の進路を淡々と指示し続けた。
「左通路を選択。右は魔物の密度が高い、時間の無駄だ。このまま直進しろ」
「了解」
無駄がない。迷いもない。
彼らは戦っているのではない。ただ洗練された作業をこなすように、驚異的な、これまでの常識を置き去りにする速度で階層を突破していく。




