↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界迷宮で仲間と恋をする  作者: 天音シオン
第1巻『異世界に降り立った青年』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/2

第2話 迷宮都市の日常

 受付の女性が広げた地図には、知らない文字がびっしり並んでいた。


 文字の隙間を、細い線が縦横に走っている。灰色に塗られた四角は建物だろうか。青い曲線は川か水路。門の形をした印には、黒い墨(すみ)で輪が描かれていた。


「ここが現在地。少し南へ行くと中央市場です。西側には宿泊区、東側には工房が集まっています」


 女性の指先が、地図の上をゆっくり動く。


 俺はその動きを目で追いながら、なんとか頭の中に覚え込もうとした。


「この大きな印は、さっき見た門ですか?」


「はい。迷宮への主要な出入口です。門前は荷車も多いので、初めて歩く方は広場側の道を使ってくださいね」


「分かりました。あの、それで……迷宮はどこまで続いてるんですか」


「地下の階層へ続いています。確認されているだけでも、ずっと深いところまで。詳しい記録は探索窓口で閲覧できますが、まずはここまでにしておきましょうか」


 地図を開いていた彼女が、俺の顔を見上げる。


「お疲れのようですから」


 そう言われて初めて、俺が地図の端を強く握りしめていることに気づいた。


「……すみません」


「謝らなくて大丈夫です。初めての土地なら、何から聞けばいいか迷いますよね」


 初めての土地。


 俺には、その言い方がありがたかった。


 日本から突然ここに来た、なんて話をしても、彼女は笑わずに聞いてくれた。信じたわけではないだろう。でも、少なくとも今の俺を追い返そうとはしていない。


「先ほどお話に出たニホンという国について、旅行者の記録を調べることはできます。ただ、手元の国名一覧には見当たりませんでした」


「……そうですか」


「ほかの国や地域も含めて調査をお願いすることはできますが、依頼の受付には内容の確認と費用が必要です。すぐに答えが出るものでもありません」


 俺は膝(ひざ)の上で両手を握った。


 やっぱり、知らないのか。


 けれど、ここで「きっと帰れますよ」と言われたとしても、それはそれで困ったかもしれない。根拠のない安心より、分からないと教えてもらえるほうがましだった。


「調べ方があるなら、いつか頼みたいです」


「ええ。まずは、今日の寝る場所と食事を考えましょう」


 彼女は地図の横に、小さな木札(きふだ)を三枚置いた。


 それぞれ、寝台、湯気の上がる皿、手に道具を持った人の絵が描かれている。


「宿、食事、仕事。順番としてはこの三つです」


「仕事をしないと、宿にも泊まれませんよね」


「残念ながら、お金は必要です。緊急の救護が必要なら担当窓口がありますけど、泊まるところを無料で用意できるわけではありません」


「はい」


 分かっていたことなのに、喉の奥が重くなった。


「最初に確認します。レイさんは字を読めますか?」


「……ここの字は、読めないです」


 女性は怪訝(けげん)そうな顔をせず、手元の帳面に何かを書き加えた。


「では、仕事の掲示を一緒に確認しましょう。読めないことを隠して契約すると、危ないですから」


 その一言で、壁の掲示板を思い出した。


 さっきは色と形の違う紙が何十枚も貼られているのを見た。内容が読めれば、少しは何とかなると思っていた。


 字が読めないままだと、仕事の条件さえ分からない。


 俺は財布の中身を思い出した。紙幣も硬貨も持っている。それなのに、この街では何の役にも立たない。


 そして今は、字すら読めない。


「……本当に何もないな、俺」


「ん?」


「いえ、何でもありません」


 女性は俺を少し見つめたあと、地図を畳(たた)んだ。


「外の掲示板へ行きましょうか。ここで説明するより、実物を見たほうが早いと思います」


 受付台から離れる前に、女性は隣の職員に声をかけた。彼は一度うなずいて、こちらの窓口に並びかけた人を案内している。


 忙しい中で手を止めさせていることが、申し訳なかった。


 けれど、今はその親切に甘えるしかない。


 掲示板は思った以上に大きかった。


 木枠の中で紙が何段にも分かれていて、端には赤、黄、青の色布が留(と)められている。古い紙の上に新しい紙が重なり、端のほうは日焼けで薄茶色になっていた。


「こちらは危険度が比較的低い依頼。こちらは護衛と探索。赤い札は、経験のない方にはお勧めしません」


「色で分かれてるんですね」


「はい。でも、色だけで判断しないでください。場所や期限、依頼人の条件もありますから」


 彼女は黄色い紙を一枚指した。


「これ、何の依頼だと思いますか?」


 俺は紙をじっと見た。


 文字の形は相変わらず意味不明だ。分かるのは、下のほうに籠の絵が描かれていることくらい。


「……荷物を運ぶ仕事、とか?」


「正解です。工房への素材運搬ですね。ただし、これは迷宮の第三階層から荷を持ち帰る仕事なので、経験者向けです」


「えっ」


「絵が似ていても、運ぶ場所が違えば危険も変わります」


 女性は別の紙を指で叩いた。


「こちらなら、地上の倉庫整理です。重い物を持てることが条件。今日の午後だけでも応募できます」


「それなら、俺にもできそうです」


 力仕事をした経験は多くない。会社で運ぶといえば、せいぜい段ボール箱やコピー用紙くらいだ。


 でも、剣を持って怪物と戦えと言われるより、ずっと現実的だった。


「ただし、現場監督の指示を守ること。荷を壊した場合の扱いもありますから、仕事内容を聞いてから決めてください」


「はい。それ、応募できますか」


「できますよ。その前に、ギルドについて少しだけ説明させてください。地上の仕事でも、ここを通す意味がありますから」


 女性は掲示板の横へ移動した。


 そこには、半分ほど磨り減った木の看板が掛けられている。図案は盾と紙、それから細長い何か――羽根ペンだろうか。


「公的冒険者ギルドは、冒険者を集めるだけの場所ではありません。依頼の確認、探索の記録、負傷者への対応、報酬の支払い。そういう仕事もしています」


「全部、ここが決めるんですか?」


「いいえ。街には商人の組合も、職人の組合もあります。王国や市の決まりもあります。ギルドが何でも自由に決められるわけではありません」


 少し考えてから、俺は聞いた。


「じゃあ、ここに登録したら、仕事を紹介してもらえるんですね」


「受けられる仕事の種類は増えます。ただし、登録すれば必ず依頼がもらえるわけではありません。人数制限もありますし、依頼人が経験を求める場合もあります」


 当たり前の話だった。


 仕事がない日もある。失敗すれば信用を失う。危険な仕事ほど、無条件に誰でも参加できるわけじゃない。


 漫画みたいに、適当な紙を一枚剥がせばそれで冒険が始まるわけではなかった。


「冒険者には、ランクがあります。最初はFから。実績と能力の確認を重ねて上がっていく仕組みです」


「Fって、一番下ですか?」


「はい。上にはいくつもの段階があります。上位の冒険者ほど危険な場所で活動していますが、強い人でも何でもできるわけではありません。専門の仕事は、専門の人にお願いすることになります」


 赤い札の近くで、大柄な男が仲間と口論していた。


「だから医療係を雇えって言ってるだろ!」


「分かってる。今は手配できないんだよ!」


 その声音に、俺は思わず顔を向けた。


 受付の女性は一瞬そちらを見て、声を落とす。


「迷宮に入る人は、頑丈な防具を着ていても怪我をします。帰ってこない方もいます。レイさんには、そこを軽く考えてほしくありません」


 黒い門から出てきた、腕を吊った男の姿が浮かんだ。


「……軽く考えられないです」


「それなら、よかった」


 女性はようやく少し笑った。


 だけど俺の胸には、もう一つ気になることが残っていた。


 日本へ戻る方法。


 それを探そうとすれば、いずれ迷宮のことも調べる必要があるかもしれない。何の確証もない考えなのに、あの奥へ続く門だけが、どうしても頭に引っかかっていた。


 窓口へ戻る途中、会館の奥から、何かを引きずるような音がした。


 顔を上げると、革の前掛け(まえかけ)を着けた二人の男が、木箱を積んだ台車を押している。


 箱の隙間から淡い青白い光がこぼれていた。


「それ、何が入ってるんですか?」


「ああ、魔石ですね。奥の集積所(しゅうせきじょ)へ運ぶところです」


「魔石(ませき)……さっき、名前だけ聞きました」


 危ない。ここへ来てから、まだ一日も経っていない。


 受付の女性は特に気にした様子もなく、台車が通り過ぎるのを待ってから話を続けた。


「迷宮の魔獣から得られる石です。種類や状態によって用途は違いますけれど、灯具(とうぐ)や工房の設備に使われます。街では大事な資源ですよ」


 そう言えば、この建物の天井から下がっている灯りには、火が見えなかった。


 小さな金具の中央で、白い光が揺れずに輝いている。


「電気みたいなものですか?」


「デンキ……?」


「あ、すみません。明かりをつけたり、何かを動かしたりする力ってことです」


「そうですね。似た用途もあります。ただ、魔石なら何でも動かせるわけではありません。扱う道具に合ったものを選ばないと」


 俺は頭上の灯具(とうぐ)を見上げた。


 新しい技術に触れたときの興奮が、一瞬だけ湧いた。


 魔法の石があって、獣耳の人がいて、地下へ巨大な迷宮が伸びている。子供のころなら、間違いなく目を輝かせていただろう。


 なのに今は、電灯に似たものがあると分かったところで、充電器を差し込める場所があるか気になるだけだった。


「魔石って、普通の人でも買えるんですか?」


「店で買えます。ただし値段は品物次第ですし、危険な加工は許可のある工房で行います」


「じゃあ、迷宮で魔石を拾ってくれば、それを売って暮らせる……?」


「魔石を得られれば、ですね。探索費用や道具の修理費も必要です。持ち帰った量が多くても、必ず利益が出るとは限りません」


 彼女が指した先では、一人の冒険者が受付員と話していた。


 机の上には、拳(こぶし)ほどの石が三つ並んでいる。


「ほら、亀裂(きれつ)が入ってるだろ。これじゃ前に言った値はつかないよ」


「でも討伐したのは俺だぞ」


「倒したことと、石の状態は別の話だ」


 冒険者は何か言い返そうとして、やめた。頭をかきながら、石を袋へ戻す。


 それを見ているうちに、自分がどれほど都合のいい想像をしていたか分かった。


 敵を倒したらお金が手に入る。


 ゲームなら、それで終わりだ。


 でもここでは、石を見て値段をつける人がいて、運ぶ人がいて、買う人がいる。武器が欠ければ修理代がかかるし、怪我をすれば治療しなければならない。


 街の人たちにとっては、迷宮も仕事場の一つなんだ。


「……ちゃんと勉強しないと駄目ですね」


「そう思ってくださるなら、私は安心です」


 彼女は窓口の引き出しから薄い札を出した。


「地上の倉庫作業なら、この仮の受付票で現場へ案内できます。冒険者登録とは別の手続きです。今日のお仕事について、名前と作業範囲だけ記録しますね」


「身分証がなくても大丈夫なんですか?」


「長期の契約や高額な依頼には、身元確認が必要です。今回は監督者がいる短時間の作業ですから。ただし、何かあったときに連絡できるよう、記録は残します」


 手元に出された紙には、読めない文字と空欄が並んでいた。


「レイさん、お名前のところはこちらです。ご自分の文字で書いても構いません。こちらの記録は私が添えます」


 俺は渡された筆を持った。


 紙の繊維(せんい)が粗(あら)く、滑らかなボールペンに慣れた指ではうまく線が引けない。


 ゆっくりと「高瀬玲」と書く。


 漢字が三つ、紙の上に並んだ。


 なんだか、ひどく心細かった。


 日本では見慣れた自分の名前が、ここでは誰にも読めない文字になる。


 受付の女性が、隣にこの街の文字を書き添えた。


「今夜の宿を探すなら、仕事が終わってから西の宿泊区に向かうのがいいと思います。食事つきの高い宿もありますが、共同の寝室なら安いところがあります」


「安いって、どれくらいですか?」


「一晩、小銅貨六枚くらいからでしょうか。空きがあれば、ですが」


「……さっき見た肉入りのパンが、四枚でした」


「そうですね。あのお店なら、そのくらいでしょう」


 食べ物の値段と宿代が、初めてつながった。


 昼飯一つと、寝床一つ。


 それだけで小銅貨十枚。


 今日の仕事をしないと、空腹のまま道端で寝ることになるかもしれない。


「倉庫の仕事、ぜひお願いします」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


 女性は少しだけ笑い、受付票を折り畳んで渡してくれた。


「現場は東の工房区の入口です。倉庫の扉に、荷車の絵が描かれた札があります。道に迷ったら、これを見せてください」


「ありがとうございます。……あの、もう一つだけ」


「何でしょう」


「冒険者になるには、どうすればいいんですか」


 彼女は意外そうな顔をした。


「迷宮に興味が出ましたか?」


「興味もあります。でも、それだけじゃなくて」


 うまく言葉にできず、俺は一度口を閉じた。


 帰り道を探したい。そのために、この世界を知らなくちゃいけない。


 けれど、迷宮へ行けば帰れるなんて、誰も言っていない。


「……自分がここで何をできるのか、知りたいんです」


 女性はしばらく俺を見ていた。


「でしたら、登録の相談と、適性の確認からですね。明日の朝、こちらの窓口へ来てください。登録に必要な説明と、検査の順番をご案内します」


「明日ですね。分かりました」


「今日のうちに、無理に武器を買わないでくださいね。装備はご自身の適性と予算を確かめてからで十分です」


 俺は苦笑した。


「買うお金がないので、それは大丈夫です」


 彼女も小さく笑った。


 そのやり取りが、この街へ来てから初めて、少し普通の会話に思えた。


    ◇ ◇ ◇


 工房区へ向かう道は、広場より少し狭かった。


 石畳の上を荷車が行き来し、そのたびに道端の人が体を寄せる。建物の軒先(のきさき)には革紐や金具が吊られ、開け放たれた扉の奥から金属を打つ音が響いていた。


 どこかでは木を削っているらしく、乾いた木くずの匂いがする。少し先では鍛冶場(かじば)から熱気が流れてきて、汗ばんだ額にまとわりついた。


 看板の文字は読めない。


 だから俺は、仕事の受付票を片手に、荷車の絵を探しながら歩いた。


 同じ絵が二つ続いたときは焦った。


 一軒目は修理屋だった。大きな車輪が立てかけられ、その下で年配の男が釘を打っていた。


「ここ、荷物の仕分けをする倉庫ですか?」


「違うよ。もう一つ先。青い扉の建物だ」


「助かります!」


「兄ちゃん、受付票を逆さに持ってるぞ」


 男が笑った。


 俺は耳まで熱くなって、紙を持ち直す。


 仕事にたどり着く前からこれだ。


 青い扉の倉庫は、思ったより奥行きがあった。


 入口では、厚い腕の男が木箱の山に指示を飛ばしている。短く刈った髪は汗で濡れ、片腕には古い傷痕(きずあと)が見えた。


「そっちの木箱を先に! 金具は金具でまとめろ! おい、通路に縄を置くな!」


 俺が入口で立ち止まっていると、その男に見つかった。


「用か?」


「ギルドから紹介されました。午後の倉庫整理の仕事で……」


 受付票を差し出す。


 男は目を細めて文字を読み、俺の顔を見た。


「レイ、だな。俺が今日の監督だ。荷運びはできるか?」


「重さによると思いますけど、やります」


「素直でよろしい。無理なもんは無理って言え。落として仲間に怪我させるよりずっといい」


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。


「はい」


「まずは荷物を見ろ。赤い印は壊れ物。黒い印は金具。布の束は奥の棚。分からなければ勝手に運ぶな。あと、道を塞ぐな。これが一番大事だ」


 男は棒の先で、倉庫の床に描かれた白い線を示した。


「この線の内側には荷車が通る。誰かが叫んだら、荷を置いて避けろ。品物より体が先だ」


 俺はうなずいた。


 彼の説明は速かったが、何をしてはいけないのかは、はっきり分かった。


 言葉が分かるのは本当にありがたい。もし会話まで通じなかったら、こんな仕事一つできなかっただろう。


 監督は俺を、同じくらいの歳に見える青年のところへ連れていった。


「今日はこいつと組め。一人で持てない箱は二人で運ぶ。返事は?」


「はい!」


「よし。じゃあ始めろ」


 青年は肩に布を巻いていて、右手の指に分厚い胼胝(たこ)ができていた。


「新人か。俺についてこいよ」


「よろしくお願いします」


「そんな固くならなくていい。ちゃんと手伝ってくれれば助かるから」


 彼は軽く笑うと、小さな箱を二つ持ち上げた。


 俺も真似して一つ持つ。


 思ったより重い。


 中身が金属なのだろう。箱の底が掌に食い込み、腕の筋肉がじわじわ痛んできた。


「無理そうなら言えよ」


「……大丈夫。これくらいなら」


 そう答えた瞬間、箱の中身が片側へずれた。


「うわっ」


 膝が揺れる。


 青年がすぐに手を添えてくれた。


「ほらな。抱える位置が悪い。腹の前に寄せて持つんだよ」


「すみません」


「謝る前に直せ。こっちが先に困る」


 叱られたのに、嫌な感じはしなかった。


 俺は教えられたとおり箱を持ち直し、ゆっくり歩いた。


 箱を棚へ置く。戻る。次の箱を持つ。


 それだけの作業を繰り返すうち、汗が背中を伝い始めた。


 重い箱ほど慎重になり、軽い箱を持つときはつい急ぎそうになる。でも、軽い箱にも割れ物が入っていることがある。


 青年が一つ一つ教えてくれるおかげで、俺は大きな失敗をせずに済んだ。


 休憩が入るころには、両腕が鉛みたいに重くなっていた。


 倉庫の裏には、小さな井戸と木の長椅子があった。


 青年は柄杓(ひしゃく)で水を汲(く)み、俺に渡してくれた。


「ほら。ちゃんと飲んどけ。倒れたら運ぶのは俺たちだ」


「ありがとうございます」


 水を飲むと、喉の奥に残っていた乾きがようやく収まった。


 青年は自分の分を飲み終え、長椅子に腰を下ろした。俺も少し離れて座る。


「お前、どこから来たんだ?」


「……遠いところからです」


「そりゃ見りゃ分かる。変わった服着てるし」


 笑われて、俺もつられて笑った。


 嘘をつくつもりはなかった。けれど、正直に話したところで信じてもらえる気がしない。


「この街に来たばかりで。何も分からなくて」


「ふうん。だったら最初はこういう仕事で金を貯めることだな。迷宮の門前で安い剣を売ってる奴もいるけど、あれを買っただけで冒険者になった気になるなよ」


「やっぱり危ないんですか、迷宮って」


「危ないさ。俺の兄貴も潜ってる。普段は威張ってるくせに、帰ってきた日は靴を脱ぐのもしんどそうだ」


「怪我もする?」


「する。治療してもらっても、翌日からいつもどおり働けるとは限らん。剣が折れりゃ買い直しだし、食い物だって持って入るんだから」


 彼は俺の手を見た。


「お前の手、柔らかいな」


「仕事では、あんまり重い物を持たなかったので」


「だったら、最初からそう言え。指の皮が破れたら、しばらく困るぞ」


 俺は手のひらを返した。


 指の付け根が赤くなっている。たった数時間の仕事でこれだった。


 迷宮に入る人たちは、どんな手をしているんだろう。


 そう考えたとき、倉庫の中から怒鳴り声が聞こえた。


「おい! その箱、動かすな!」


 監督の声だった。


 俺たちは顔を見合わせ、すぐに立ち上がった。


 倉庫へ戻ると、作業員の一人が大きな木箱に手をかけたまま固まっていた。


 箱は積み荷の一番下にあり、その上に別の箱が二つ載っている。よく見ると、底の板が割れかけていた。


 監督が眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せている。


「底が抜けるぞ。いったん上を下ろしてから運べ。無理に引っ張るな」


「でも、この便の荷物は急ぎで……」


「だからって怪我人を増やす気か。手を離せ」


 作業員は渋々(しぶしぶ)、箱から離れた。


 その直後、上の箱がわずかに傾いた。


「危ない!」


 誰かが叫ぶ。


 俺は反射的に前へ出かけた。


 傾いた箱を押さえれば、なんとかなると思った。


「レイ、止まれ!」


 青年に襟元(えりもと)をつかまれ、足が止まる。


 次の瞬間、箱の側面から木片が跳ねた。


 乾いた音を立て、板が一本床へ落ちる。もし俺が飛び込んでいたら、頭か肩を打っていたかもしれない。


 監督はすぐに人を離し、長い棒で積み荷を支えた。別の二人が上の箱を慎重に下ろしていく。


 誰も怪我をしなかった。


 俺は息をついて、自分の足が震えていることに気づいた。


「……ごめん」


 青年が、まだ俺の服をつかんでいた。


「謝るなって。お前、一人で押さえられると思ったのか?」


「いや……何かしなきゃって」


「そういうときは、まず人を呼べよ。あの大きさだぞ」


 返す言葉がなかった。


 俺はたった今、自分より大きな箱の下へ飛び込もうとしていた。


 落ち着いて見れば危険だと分かるのに、目の前で何かが倒れそうになると、それしか考えられなくなる。


 監督がこちらへ歩いてきた。


「レイ。今のは止めてもらって正解だ。箱を一つ失うより、働く人間を一人失うほうが困る」


「……はい」


「助けようとしたのは分かる。でも、何ができるか考えろ。自分が潰れたら、助けにならん」


 監督はそれだけ言って、壊れた箱の処理へ戻った。


 青年が、ようやく俺の襟元(えりもと)から手を離した。


「ほらな。最初に言ったろ。できないことは、できないって言えって」


 俺は笑おうとして、うまくいかなかった。


「……本当に、ありがとう」


「礼なら仕事が終わってからにしてくれ。まだ箱が残ってる」


 青年は肩をすくめ、別の荷物を指した。


 俺も頷(うなず)き、次の箱へ向かった。


 今度は、持ち上げる前に必ず底を見ることにした。


    ◇ ◇ ◇


 作業が終わったときには、空の端がうっすら赤くなっていた。


 倉庫の中は昼間より静かだった。荷車の往来が減り、棚に並んだ木箱が長い影を落としている。


 俺は壁にもたれたくなるのを我慢しながら、監督の前に立った。


「お疲れ。今日はここまでだ」


「ありがとうございました」


「明日以降も人手は要るが、来れば必ず仕事があるとは限らん。必要なときはギルドの札に出すから、それを確かめてくれ」


「はい」


 監督は木の盆(ぼん)から、小さな銅色の硬貨を数え始めた。


 一枚、二枚、三枚。


 金属同士が触れ合い、乾いた音がする。


「今日の分。小銅貨十四枚だ。数えろ」


 俺は手のひらへ落とされた硬貨を、一枚ずつ数えた。


 十四枚。


 何の変哲もない、薄い銅色の丸い物体だった。


 でも、百円玉を差し出して断られたときとは違う。


 この街で使えるお金が、今は俺の手の中にある。


「合ってます」


「そうか。じゃあ、こっちに受け取りの印を頼む」


 監督は帳面を開き、欄を指した。


「字は読めないんだっけ。今書いたのは、お前の名前と今日の支払いだ。銅貨十四枚。確かめるなら隣の奴に聞いてもいいぞ」


 俺が青年を見ると、彼は帳面を覗き込んだ。


「間違ってないよ。十四枚。受け取ったなら印をつけとけ」


 俺は筆を借り、言われた場所へ名前を書いた。


 異世界で初めて働いて、初めて給料をもらった。


 そう思うと少し嬉しかったけれど、同時に妙に寂しくもなった。


 日本にいたときは、仕事が終われば家へ帰れた。疲れた日にはコンビニで何か買って、風呂に入って、眠ればよかった。


 今は、帰る家さえない。


 硬貨を握りしめたまま立っていると、青年が背中を軽く叩いた。


「何だ、その顔。初日が終わったんだ。もう少し喜べよ」


「……そうだな」


「手、ひどくなってないか?」


 見せると、彼は顔をしかめた。


「明日は布でも巻け。皮がむける前にな」


「覚えておく。今日は助かったよ」


「ああ。宿が見つかるといいな」


 名前も聞いていない相手だった。


 なのに、今日の俺には、彼のその一言がありがたかった。


 倉庫を出ると、工房から夕方の匂いがした。


 火を落とした炉の焦げた匂い。夕食の支度で煮込まれている野菜の匂い。仕事を終えた人たちの汗と、道の端に溜(た)まった土の匂い。


 みんな、それぞれの家へ帰っていく。


 荷車を片づける人。店先で子供を呼ぶ人。すれ違いざまに明日の仕事を約束する人。


 そんな当たり前の光景を見て、少しだけ立ち止まった。


 俺も、帰る場所がほしかった。


    ◇ ◇ ◇


 西の宿泊区へ着いたころには、鐘楼(しょうろう)が夕方の時を告げていた。


 朝――いや、ここへ来たときには、鐘の音がただの見知らぬ街の音に聞こえた。


 今は、それを聞くと何となく区切りが分かる。


 市場の露店は次々に布を畳(たた)み、職人らしい人たちが買い物袋を手に歩いていた。飲食店の前では、仕事帰りの客が立ったまま熱い汁をすすっている。


 宿の看板を探すのは一苦労だった。


 受付の女性が教えてくれたのは、二階の窓に寝台の絵がある建物だということだけ。似た看板を三つも見つけて、俺は順番に値段を聞いて回った。


 一軒目は個室で、高すぎた。


 二軒目は満室。


 三軒目でようやく、共同寝室に空きがあると言われた。


 入口には、使い込まれた木の長椅子が置いてあった。床の隅(すみ)には箒(ほうき)が立てかけられ、奥からは野菜を煮る匂いが漂っている。


 帳場(ちょうば)にいた年配の女性が、俺の手元の小銅貨を見て言った。


「共同部屋なら一晩六枚。寝具はある。荷物の管理は自分でね」


「六枚でお願いします」


「朝食は別料金だよ。今夜は食事をつけるかい?」


「いくらですか?」


「豆の煮込み(にこみ)と黒パンで四枚」


 俺は手の中の硬貨を数えた。


 十四枚あったものが、宿代で八枚になる。食事を頼めば、残りは四枚。


 明日も働けるかは分からない。


 それでも、今の空腹を我慢するのは無理だった。


「食事もお願いします」


「分かった。そこの席で待ってな」


 女性は十枚の硬貨を受け取り、奥の調理場に声をかけた。


 俺は空いた長椅子に座り、残った四枚を数える。


 一枚、二枚、三枚、四枚。


 あまりに頼りない。


 そのうち一枚を掌(てのひら)へ載せ、光にかざしてみた。


 丸い模様の中に、知らない紋章が刻まれている。縁には小さな凹凸(おうとつ)があり、何度も使われたのか、表面は少しすり減っていた。


 この硬貨も、きっと何十人もの手を渡ってきたのだろう。


 明日の朝には、俺の手からも離れていくかもしれない。


「お待ちどおさま」


 目の前に、欠けた縁を直した木の器が置かれた。


 湯気(ゆげ)の向こうには、大ぶりの豆と柔らかそうな野菜が見える。黒パンは思ったより硬かったけれど、汁に浸すと食べやすくなった。


 一口食べた途端、胃の奥に温かさが広がった。


 塩味が少し強い。豆はほくほくしていて、知らない香草の匂いが鼻に抜ける。


 うまい。


 それだけで、少し泣きそうになった。


 俺はさっきから、こんなことでばかり泣きそうになっている。


 水を飲めたこと。人に道を教えてもらったこと。仕事を終えられたこと。


 日本なら気にも留めなかったことが、一つずつ大きく感じられる。


 向かいの席では、年配の夫婦らしい二人が明日の仕入れについて話していた。隣には、荷車を直す職人らしい男が座っている。


「今度の便は南からだってさ」


「街道がぬかるんでなきゃいいけどね」


 誰も異世界について話していない。


 世界がいくつあるとか、どうすれば別の世界へ行けるとか、そんなことを話す人は一人もいなかった。


 俺はパンを小さくちぎって、残りの汁をすくった。


 そもそも、本当に別の世界なのだろうか。


 言葉が分かるのに、字が読めない。


 獣耳を持つ人がいて、魔石が灯りになる。


 知っている常識では説明できないことばかりだ。


 けれど、説明できないからといって、答えが「異世界」で確定したわけでもない。


 俺は今、自分がどこにいるのかを証明する方法すら持っていない。


 食べ終えた皿を下げようとすると、帳場(ちょうば)の女性が声をかけた。


「そこに置いときな。あんた、仕事帰りかい?」


「はい。今日、倉庫で働いてきました」


「じゃあ、明日は腕が痛いよ。熱い湯は節約してるから好きには使えないけど、手だけなら裏の桶で洗える」


「ありがとうございます」


「礼より、他の泊まり客を起こさないこと。朝早い人もいるんだから」


「気をつけます」


 女性は階段の上を指した。


「二階の突き当たり。左に空いた寝台があるよ」


 寝室には、木製の寝台が六つ並んでいた。


 壁際の一つには旅の荷物が置かれ、別の寝台では大柄な男がもう鼾(いびき)をかいている。


 俺に割り当てられたのは窓のそばだった。


 寝具は少し湿(しめ)っていたけれど、触れると十分に柔らかい。窓からは、屋根の上を渡る風が入ってくる。


 荷物といっても、俺には財布と鍵とスマートフォンくらいしかない。


 服も着替えがない。歯ブラシもない。明日のことを考えれば必要なものだらけなのに、手元には小銅貨四枚しか残っていなかった。


 寝台に座ると、足の裏がじんじん痛んだ。


 靴を脱ぎ、少し赤くなった指の付け根を確かめる。どこかで引っかけたらしく、薄い皮がめくれていた。


 たった半日の仕事で、これか。


 明日、もし冒険者としての検査を受けられても、俺に何ができるだろう。


 剣の扱い方も知らない。魔法だって、見たことがあるのは灯具(とうぐ)の光くらいだ。自分には特別な力がある、なんて根拠は一つもない。


 俺はポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面をつけると、見慣れた壁紙が明るく浮かび上がる。


 日本で撮った、何でもない写真。


 駅前の道。曇り空。いつも通り過ぎていた建物。


 指で写真を拡大しても、当然、向こう側へ行けるわけじゃない。


 通信の表示は相変わらず圏外だった。


 俺は連絡先を開き、家族の名前が並ぶ画面を見つめた。


 電話をかけても通じないことは、もう分かっている。


 それでも、指が勝手に動きそうになった。


「……帰りたいな」


 声に出すと、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 帰りたい。何も知らないこの街じゃなくて、知っている家へ。


 布団の匂いも、窓の外の景色も、冷蔵庫の中身まで分かる場所に戻りたい。


 俺は画面を消した。


 残りの電池は、思っていたより少なくなっている。


 端末が使えなくなる日が来たら、何を頼りに日本を思い出せばいいんだろう。


 しばらくうつむいていたけれど、やがて小銅貨をもう一度取り出した。


 四枚。


 明日の朝食を買ったら、残りはわずかだ。


 俺は財布の空いた場所に硬貨をしまい、受付でもらった紙を広げた。


 細い線で描かれた道と、寝台の絵。女性が俺のために印をつけてくれた、簡単な案内図だった。


 読めない字の横に、鉛筆に似た道具で自分用の印を描いてみる。


 大きな四角がギルド。


 そこから右へ行けば工房区。左へ進めば宿泊区。


 今日覚えた道だけでいい。明日、迷わず歩けるようにしておこう。


 図を見ているうちに、昼間、受付の女性に言った自分の言葉を思い出した。


『自分がここで何をできるのか、知りたいんです』


 自分で口にしたくせに、妙な言葉だと思った。


 今まで俺は、こんなことを真剣に考えたことがあっただろうか。


 大学を卒業して就職して、仕事を覚えて、給料をもらって。特別な不満があったわけじゃない。ただ、毎日を過ごしていた。


 この街に来たから急に立派になれる、なんて思わない。


 今日だって、重い箱を落としかけた。倒れそうな荷物へ飛び込んで、余計な怪我をしかけた。


 できなかったことのほうが多い。


 それでも、言葉の通じる相手がいる。仕事を教えてくれる人がいる。覚えれば、明日はもう少しうまくできることがある。


 俺は紙を丁寧に畳み、枕元へ置いた。


 家へ帰る方法を探す。


 それだけは変えない。


 でも、そのためにも、ここで生きていかなければならない。


 窓の外で鐘が鳴った。


 昼間とは違う、ゆっくりした低い音だった。


 遠くに見える迷宮の門は、夜になっても灯りを絶やしていない。門前の通りを、小さな灯具(とうぐ)を掲げた人影が歩いている。


 あの奥には何があるのだろう。


 俺がここへ来た理由を知る手がかりは、あそこにあるのだろうか。


 答えはまだ、何も分からない。


 明日はギルドへ行く。


 登録の相談をして、適性というものを確かめてもらう。


 もし何もできないと言われたら、そのときは別の仕事を探せばいい。


 そう考えても、胸の奥の小さな期待までは消せなかった。


 布団を引き寄せ、目を閉じる。


 知らない人の鼾(いびき)と、通りの荷車の音が聞こえる。


 疲れのせいか、眠気は思ったより早くやってきた。


 眠る直前、俺はもう一度だけ思った。


 明日の朝、目を覚ましたら、いつもの部屋に戻っていないだろうか。


 そんな都合のいい願いを抱えたまま、俺は初めて、知らない街での最初の夜を越えようとしていた。


(第2話 了)


ここまで読んでくれてありがとうございました!


まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!

☆☆☆☆☆→★★★★★

評価して頂けると、ものすごく喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。