第2話 迷宮都市の日常
受付の女性が広げた地図には、知らない文字がびっしり並んでいた。
文字の隙間を、細い線が縦横に走っている。灰色に塗られた四角は建物だろうか。青い曲線は川か水路。門の形をした印には、黒い墨で輪が描かれていた。
「ここが現在地。少し南へ行くと中央市場です。西側には宿泊区、東側には工房が集まっています」
女性の指先が、地図の上をゆっくり動く。
俺はその動きを目で追いながら、なんとか頭の中に覚え込もうとした。
「この大きな印は、さっき見た門ですか?」
「はい。迷宮への主要な出入口です。門前は荷車も多いので、初めて歩く方は広場側の道を使ってくださいね」
「分かりました。あの、それで……迷宮はどこまで続いてるんですか」
「地下の階層へ続いています。確認されているだけでも、ずっと深いところまで。詳しい記録は探索窓口で閲覧できますが、まずはここまでにしておきましょうか」
地図を開いていた彼女が、俺の顔を見上げる。
「お疲れのようですから」
そう言われて初めて、俺が地図の端を強く握りしめていることに気づいた。
「……すみません」
「謝らなくて大丈夫です。初めての土地なら、何から聞けばいいか迷いますよね」
初めての土地。
俺には、その言い方がありがたかった。
日本から突然ここに来た、なんて話をしても、彼女は笑わずに聞いてくれた。信じたわけではないだろう。でも、少なくとも今の俺を追い返そうとはしていない。
「先ほどお話に出たニホンという国について、旅行者の記録を調べることはできます。ただ、手元の国名一覧には見当たりませんでした」
「……そうですか」
「ほかの国や地域も含めて調査をお願いすることはできますが、依頼の受付には内容の確認と費用が必要です。すぐに答えが出るものでもありません」
俺は膝の上で両手を握った。
やっぱり、知らないのか。
けれど、ここで「きっと帰れますよ」と言われたとしても、それはそれで困ったかもしれない。根拠のない安心より、分からないと教えてもらえるほうがましだった。
「調べ方があるなら、いつか頼みたいです」
「ええ。まずは、今日の寝る場所と食事を考えましょう」
彼女は地図の横に、小さな木札を三枚置いた。
それぞれ、寝台、湯気の上がる皿、手に道具を持った人の絵が描かれている。
「宿、食事、仕事。順番としてはこの三つです」
「仕事をしないと、宿にも泊まれませんよね」
「残念ながら、お金は必要です。緊急の救護が必要なら担当窓口がありますけど、泊まるところを無料で用意できるわけではありません」
「はい」
分かっていたことなのに、喉の奥が重くなった。
「最初に確認します。レイさんは字を読めますか?」
「……ここの字は、読めないです」
女性は怪訝そうな顔をせず、手元の帳面に何かを書き加えた。
「では、仕事の掲示を一緒に確認しましょう。読めないことを隠して契約すると、危ないですから」
その一言で、壁の掲示板を思い出した。
さっきは色と形の違う紙が何十枚も貼られているのを見た。内容が読めれば、少しは何とかなると思っていた。
字が読めないままだと、仕事の条件さえ分からない。
俺は財布の中身を思い出した。紙幣も硬貨も持っている。それなのに、この街では何の役にも立たない。
そして今は、字すら読めない。
「……本当に何もないな、俺」
「ん?」
「いえ、何でもありません」
女性は俺を少し見つめたあと、地図を畳んだ。
「外の掲示板へ行きましょうか。ここで説明するより、実物を見たほうが早いと思います」
受付台から離れる前に、女性は隣の職員に声をかけた。彼は一度うなずいて、こちらの窓口に並びかけた人を案内している。
忙しい中で手を止めさせていることが、申し訳なかった。
けれど、今はその親切に甘えるしかない。
掲示板は思った以上に大きかった。
木枠の中で紙が何段にも分かれていて、端には赤、黄、青の色布が留められている。古い紙の上に新しい紙が重なり、端のほうは日焼けで薄茶色になっていた。
「こちらは危険度が比較的低い依頼。こちらは護衛と探索。赤い札は、経験のない方にはお勧めしません」
「色で分かれてるんですね」
「はい。でも、色だけで判断しないでください。場所や期限、依頼人の条件もありますから」
彼女は黄色い紙を一枚指した。
「これ、何の依頼だと思いますか?」
俺は紙をじっと見た。
文字の形は相変わらず意味不明だ。分かるのは、下のほうに籠の絵が描かれていることくらい。
「……荷物を運ぶ仕事、とか?」
「正解です。工房への素材運搬ですね。ただし、これは迷宮の第三階層から荷を持ち帰る仕事なので、経験者向けです」
「えっ」
「絵が似ていても、運ぶ場所が違えば危険も変わります」
女性は別の紙を指で叩いた。
「こちらなら、地上の倉庫整理です。重い物を持てることが条件。今日の午後だけでも応募できます」
「それなら、俺にもできそうです」
力仕事をした経験は多くない。会社で運ぶといえば、せいぜい段ボール箱やコピー用紙くらいだ。
でも、剣を持って怪物と戦えと言われるより、ずっと現実的だった。
「ただし、現場監督の指示を守ること。荷を壊した場合の扱いもありますから、仕事内容を聞いてから決めてください」
「はい。それ、応募できますか」
「できますよ。その前に、ギルドについて少しだけ説明させてください。地上の仕事でも、ここを通す意味がありますから」
女性は掲示板の横へ移動した。
そこには、半分ほど磨り減った木の看板が掛けられている。図案は盾と紙、それから細長い何か――羽根ペンだろうか。
「公的冒険者ギルドは、冒険者を集めるだけの場所ではありません。依頼の確認、探索の記録、負傷者への対応、報酬の支払い。そういう仕事もしています」
「全部、ここが決めるんですか?」
「いいえ。街には商人の組合も、職人の組合もあります。王国や市の決まりもあります。ギルドが何でも自由に決められるわけではありません」
少し考えてから、俺は聞いた。
「じゃあ、ここに登録したら、仕事を紹介してもらえるんですね」
「受けられる仕事の種類は増えます。ただし、登録すれば必ず依頼がもらえるわけではありません。人数制限もありますし、依頼人が経験を求める場合もあります」
当たり前の話だった。
仕事がない日もある。失敗すれば信用を失う。危険な仕事ほど、無条件に誰でも参加できるわけじゃない。
漫画みたいに、適当な紙を一枚剥がせばそれで冒険が始まるわけではなかった。
「冒険者には、ランクがあります。最初はFから。実績と能力の確認を重ねて上がっていく仕組みです」
「Fって、一番下ですか?」
「はい。上にはいくつもの段階があります。上位の冒険者ほど危険な場所で活動していますが、強い人でも何でもできるわけではありません。専門の仕事は、専門の人にお願いすることになります」
赤い札の近くで、大柄な男が仲間と口論していた。
「だから医療係を雇えって言ってるだろ!」
「分かってる。今は手配できないんだよ!」
その声音に、俺は思わず顔を向けた。
受付の女性は一瞬そちらを見て、声を落とす。
「迷宮に入る人は、頑丈な防具を着ていても怪我をします。帰ってこない方もいます。レイさんには、そこを軽く考えてほしくありません」
黒い門から出てきた、腕を吊った男の姿が浮かんだ。
「……軽く考えられないです」
「それなら、よかった」
女性はようやく少し笑った。
だけど俺の胸には、もう一つ気になることが残っていた。
日本へ戻る方法。
それを探そうとすれば、いずれ迷宮のことも調べる必要があるかもしれない。何の確証もない考えなのに、あの奥へ続く門だけが、どうしても頭に引っかかっていた。
窓口へ戻る途中、会館の奥から、何かを引きずるような音がした。
顔を上げると、革の前掛けを着けた二人の男が、木箱を積んだ台車を押している。
箱の隙間から淡い青白い光がこぼれていた。
「それ、何が入ってるんですか?」
「ああ、魔石ですね。奥の集積所へ運ぶところです」
「魔石……さっき、名前だけ聞きました」
危ない。ここへ来てから、まだ一日も経っていない。
受付の女性は特に気にした様子もなく、台車が通り過ぎるのを待ってから話を続けた。
「迷宮の魔獣から得られる石です。種類や状態によって用途は違いますけれど、灯具や工房の設備に使われます。街では大事な資源ですよ」
そう言えば、この建物の天井から下がっている灯りには、火が見えなかった。
小さな金具の中央で、白い光が揺れずに輝いている。
「電気みたいなものですか?」
「デンキ……?」
「あ、すみません。明かりをつけたり、何かを動かしたりする力ってことです」
「そうですね。似た用途もあります。ただ、魔石なら何でも動かせるわけではありません。扱う道具に合ったものを選ばないと」
俺は頭上の灯具を見上げた。
新しい技術に触れたときの興奮が、一瞬だけ湧いた。
魔法の石があって、獣耳の人がいて、地下へ巨大な迷宮が伸びている。子供のころなら、間違いなく目を輝かせていただろう。
なのに今は、電灯に似たものがあると分かったところで、充電器を差し込める場所があるか気になるだけだった。
「魔石って、普通の人でも買えるんですか?」
「店で買えます。ただし値段は品物次第ですし、危険な加工は許可のある工房で行います」
「じゃあ、迷宮で魔石を拾ってくれば、それを売って暮らせる……?」
「魔石を得られれば、ですね。探索費用や道具の修理費も必要です。持ち帰った量が多くても、必ず利益が出るとは限りません」
彼女が指した先では、一人の冒険者が受付員と話していた。
机の上には、拳ほどの石が三つ並んでいる。
「ほら、亀裂が入ってるだろ。これじゃ前に言った値はつかないよ」
「でも討伐したのは俺だぞ」
「倒したことと、石の状態は別の話だ」
冒険者は何か言い返そうとして、やめた。頭をかきながら、石を袋へ戻す。
それを見ているうちに、自分がどれほど都合のいい想像をしていたか分かった。
敵を倒したらお金が手に入る。
ゲームなら、それで終わりだ。
でもここでは、石を見て値段をつける人がいて、運ぶ人がいて、買う人がいる。武器が欠ければ修理代がかかるし、怪我をすれば治療しなければならない。
街の人たちにとっては、迷宮も仕事場の一つなんだ。
「……ちゃんと勉強しないと駄目ですね」
「そう思ってくださるなら、私は安心です」
彼女は窓口の引き出しから薄い札を出した。
「地上の倉庫作業なら、この仮の受付票で現場へ案内できます。冒険者登録とは別の手続きです。今日のお仕事について、名前と作業範囲だけ記録しますね」
「身分証がなくても大丈夫なんですか?」
「長期の契約や高額な依頼には、身元確認が必要です。今回は監督者がいる短時間の作業ですから。ただし、何かあったときに連絡できるよう、記録は残します」
手元に出された紙には、読めない文字と空欄が並んでいた。
「レイさん、お名前のところはこちらです。ご自分の文字で書いても構いません。こちらの記録は私が添えます」
俺は渡された筆を持った。
紙の繊維が粗く、滑らかなボールペンに慣れた指ではうまく線が引けない。
ゆっくりと「高瀬玲」と書く。
漢字が三つ、紙の上に並んだ。
なんだか、ひどく心細かった。
日本では見慣れた自分の名前が、ここでは誰にも読めない文字になる。
受付の女性が、隣にこの街の文字を書き添えた。
「今夜の宿を探すなら、仕事が終わってから西の宿泊区に向かうのがいいと思います。食事つきの高い宿もありますが、共同の寝室なら安いところがあります」
「安いって、どれくらいですか?」
「一晩、小銅貨六枚くらいからでしょうか。空きがあれば、ですが」
「……さっき見た肉入りのパンが、四枚でした」
「そうですね。あのお店なら、そのくらいでしょう」
食べ物の値段と宿代が、初めてつながった。
昼飯一つと、寝床一つ。
それだけで小銅貨十枚。
今日の仕事をしないと、空腹のまま道端で寝ることになるかもしれない。
「倉庫の仕事、ぜひお願いします」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
女性は少しだけ笑い、受付票を折り畳んで渡してくれた。
「現場は東の工房区の入口です。倉庫の扉に、荷車の絵が描かれた札があります。道に迷ったら、これを見せてください」
「ありがとうございます。……あの、もう一つだけ」
「何でしょう」
「冒険者になるには、どうすればいいんですか」
彼女は意外そうな顔をした。
「迷宮に興味が出ましたか?」
「興味もあります。でも、それだけじゃなくて」
うまく言葉にできず、俺は一度口を閉じた。
帰り道を探したい。そのために、この世界を知らなくちゃいけない。
けれど、迷宮へ行けば帰れるなんて、誰も言っていない。
「……自分がここで何をできるのか、知りたいんです」
女性はしばらく俺を見ていた。
「でしたら、登録の相談と、適性の確認からですね。明日の朝、こちらの窓口へ来てください。登録に必要な説明と、検査の順番をご案内します」
「明日ですね。分かりました」
「今日のうちに、無理に武器を買わないでくださいね。装備はご自身の適性と予算を確かめてからで十分です」
俺は苦笑した。
「買うお金がないので、それは大丈夫です」
彼女も小さく笑った。
そのやり取りが、この街へ来てから初めて、少し普通の会話に思えた。
◇ ◇ ◇
工房区へ向かう道は、広場より少し狭かった。
石畳の上を荷車が行き来し、そのたびに道端の人が体を寄せる。建物の軒先には革紐や金具が吊られ、開け放たれた扉の奥から金属を打つ音が響いていた。
どこかでは木を削っているらしく、乾いた木くずの匂いがする。少し先では鍛冶場から熱気が流れてきて、汗ばんだ額にまとわりついた。
看板の文字は読めない。
だから俺は、仕事の受付票を片手に、荷車の絵を探しながら歩いた。
同じ絵が二つ続いたときは焦った。
一軒目は修理屋だった。大きな車輪が立てかけられ、その下で年配の男が釘を打っていた。
「ここ、荷物の仕分けをする倉庫ですか?」
「違うよ。もう一つ先。青い扉の建物だ」
「助かります!」
「兄ちゃん、受付票を逆さに持ってるぞ」
男が笑った。
俺は耳まで熱くなって、紙を持ち直す。
仕事にたどり着く前からこれだ。
青い扉の倉庫は、思ったより奥行きがあった。
入口では、厚い腕の男が木箱の山に指示を飛ばしている。短く刈った髪は汗で濡れ、片腕には古い傷痕が見えた。
「そっちの木箱を先に! 金具は金具でまとめろ! おい、通路に縄を置くな!」
俺が入口で立ち止まっていると、その男に見つかった。
「用か?」
「ギルドから紹介されました。午後の倉庫整理の仕事で……」
受付票を差し出す。
男は目を細めて文字を読み、俺の顔を見た。
「レイ、だな。俺が今日の監督だ。荷運びはできるか?」
「重さによると思いますけど、やります」
「素直でよろしい。無理なもんは無理って言え。落として仲間に怪我させるよりずっといい」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「はい」
「まずは荷物を見ろ。赤い印は壊れ物。黒い印は金具。布の束は奥の棚。分からなければ勝手に運ぶな。あと、道を塞ぐな。これが一番大事だ」
男は棒の先で、倉庫の床に描かれた白い線を示した。
「この線の内側には荷車が通る。誰かが叫んだら、荷を置いて避けろ。品物より体が先だ」
俺はうなずいた。
彼の説明は速かったが、何をしてはいけないのかは、はっきり分かった。
言葉が分かるのは本当にありがたい。もし会話まで通じなかったら、こんな仕事一つできなかっただろう。
監督は俺を、同じくらいの歳に見える青年のところへ連れていった。
「今日はこいつと組め。一人で持てない箱は二人で運ぶ。返事は?」
「はい!」
「よし。じゃあ始めろ」
青年は肩に布を巻いていて、右手の指に分厚い胼胝ができていた。
「新人か。俺についてこいよ」
「よろしくお願いします」
「そんな固くならなくていい。ちゃんと手伝ってくれれば助かるから」
彼は軽く笑うと、小さな箱を二つ持ち上げた。
俺も真似して一つ持つ。
思ったより重い。
中身が金属なのだろう。箱の底が掌に食い込み、腕の筋肉がじわじわ痛んできた。
「無理そうなら言えよ」
「……大丈夫。これくらいなら」
そう答えた瞬間、箱の中身が片側へずれた。
「うわっ」
膝が揺れる。
青年がすぐに手を添えてくれた。
「ほらな。抱える位置が悪い。腹の前に寄せて持つんだよ」
「すみません」
「謝る前に直せ。こっちが先に困る」
叱られたのに、嫌な感じはしなかった。
俺は教えられたとおり箱を持ち直し、ゆっくり歩いた。
箱を棚へ置く。戻る。次の箱を持つ。
それだけの作業を繰り返すうち、汗が背中を伝い始めた。
重い箱ほど慎重になり、軽い箱を持つときはつい急ぎそうになる。でも、軽い箱にも割れ物が入っていることがある。
青年が一つ一つ教えてくれるおかげで、俺は大きな失敗をせずに済んだ。
休憩が入るころには、両腕が鉛みたいに重くなっていた。
倉庫の裏には、小さな井戸と木の長椅子があった。
青年は柄杓で水を汲み、俺に渡してくれた。
「ほら。ちゃんと飲んどけ。倒れたら運ぶのは俺たちだ」
「ありがとうございます」
水を飲むと、喉の奥に残っていた乾きがようやく収まった。
青年は自分の分を飲み終え、長椅子に腰を下ろした。俺も少し離れて座る。
「お前、どこから来たんだ?」
「……遠いところからです」
「そりゃ見りゃ分かる。変わった服着てるし」
笑われて、俺もつられて笑った。
嘘をつくつもりはなかった。けれど、正直に話したところで信じてもらえる気がしない。
「この街に来たばかりで。何も分からなくて」
「ふうん。だったら最初はこういう仕事で金を貯めることだな。迷宮の門前で安い剣を売ってる奴もいるけど、あれを買っただけで冒険者になった気になるなよ」
「やっぱり危ないんですか、迷宮って」
「危ないさ。俺の兄貴も潜ってる。普段は威張ってるくせに、帰ってきた日は靴を脱ぐのもしんどそうだ」
「怪我もする?」
「する。治療してもらっても、翌日からいつもどおり働けるとは限らん。剣が折れりゃ買い直しだし、食い物だって持って入るんだから」
彼は俺の手を見た。
「お前の手、柔らかいな」
「仕事では、あんまり重い物を持たなかったので」
「だったら、最初からそう言え。指の皮が破れたら、しばらく困るぞ」
俺は手のひらを返した。
指の付け根が赤くなっている。たった数時間の仕事でこれだった。
迷宮に入る人たちは、どんな手をしているんだろう。
そう考えたとき、倉庫の中から怒鳴り声が聞こえた。
「おい! その箱、動かすな!」
監督の声だった。
俺たちは顔を見合わせ、すぐに立ち上がった。
倉庫へ戻ると、作業員の一人が大きな木箱に手をかけたまま固まっていた。
箱は積み荷の一番下にあり、その上に別の箱が二つ載っている。よく見ると、底の板が割れかけていた。
監督が眉間に皺を寄せている。
「底が抜けるぞ。いったん上を下ろしてから運べ。無理に引っ張るな」
「でも、この便の荷物は急ぎで……」
「だからって怪我人を増やす気か。手を離せ」
作業員は渋々、箱から離れた。
その直後、上の箱がわずかに傾いた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
俺は反射的に前へ出かけた。
傾いた箱を押さえれば、なんとかなると思った。
「レイ、止まれ!」
青年に襟元をつかまれ、足が止まる。
次の瞬間、箱の側面から木片が跳ねた。
乾いた音を立て、板が一本床へ落ちる。もし俺が飛び込んでいたら、頭か肩を打っていたかもしれない。
監督はすぐに人を離し、長い棒で積み荷を支えた。別の二人が上の箱を慎重に下ろしていく。
誰も怪我をしなかった。
俺は息をついて、自分の足が震えていることに気づいた。
「……ごめん」
青年が、まだ俺の服をつかんでいた。
「謝るなって。お前、一人で押さえられると思ったのか?」
「いや……何かしなきゃって」
「そういうときは、まず人を呼べよ。あの大きさだぞ」
返す言葉がなかった。
俺はたった今、自分より大きな箱の下へ飛び込もうとしていた。
落ち着いて見れば危険だと分かるのに、目の前で何かが倒れそうになると、それしか考えられなくなる。
監督がこちらへ歩いてきた。
「レイ。今のは止めてもらって正解だ。箱を一つ失うより、働く人間を一人失うほうが困る」
「……はい」
「助けようとしたのは分かる。でも、何ができるか考えろ。自分が潰れたら、助けにならん」
監督はそれだけ言って、壊れた箱の処理へ戻った。
青年が、ようやく俺の襟元から手を離した。
「ほらな。最初に言ったろ。できないことは、できないって言えって」
俺は笑おうとして、うまくいかなかった。
「……本当に、ありがとう」
「礼なら仕事が終わってからにしてくれ。まだ箱が残ってる」
青年は肩をすくめ、別の荷物を指した。
俺も頷き、次の箱へ向かった。
今度は、持ち上げる前に必ず底を見ることにした。
◇ ◇ ◇
作業が終わったときには、空の端がうっすら赤くなっていた。
倉庫の中は昼間より静かだった。荷車の往来が減り、棚に並んだ木箱が長い影を落としている。
俺は壁にもたれたくなるのを我慢しながら、監督の前に立った。
「お疲れ。今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
「明日以降も人手は要るが、来れば必ず仕事があるとは限らん。必要なときはギルドの札に出すから、それを確かめてくれ」
「はい」
監督は木の盆から、小さな銅色の硬貨を数え始めた。
一枚、二枚、三枚。
金属同士が触れ合い、乾いた音がする。
「今日の分。小銅貨十四枚だ。数えろ」
俺は手のひらへ落とされた硬貨を、一枚ずつ数えた。
十四枚。
何の変哲もない、薄い銅色の丸い物体だった。
でも、百円玉を差し出して断られたときとは違う。
この街で使えるお金が、今は俺の手の中にある。
「合ってます」
「そうか。じゃあ、こっちに受け取りの印を頼む」
監督は帳面を開き、欄を指した。
「字は読めないんだっけ。今書いたのは、お前の名前と今日の支払いだ。銅貨十四枚。確かめるなら隣の奴に聞いてもいいぞ」
俺が青年を見ると、彼は帳面を覗き込んだ。
「間違ってないよ。十四枚。受け取ったなら印をつけとけ」
俺は筆を借り、言われた場所へ名前を書いた。
異世界で初めて働いて、初めて給料をもらった。
そう思うと少し嬉しかったけれど、同時に妙に寂しくもなった。
日本にいたときは、仕事が終われば家へ帰れた。疲れた日にはコンビニで何か買って、風呂に入って、眠ればよかった。
今は、帰る家さえない。
硬貨を握りしめたまま立っていると、青年が背中を軽く叩いた。
「何だ、その顔。初日が終わったんだ。もう少し喜べよ」
「……そうだな」
「手、ひどくなってないか?」
見せると、彼は顔をしかめた。
「明日は布でも巻け。皮がむける前にな」
「覚えておく。今日は助かったよ」
「ああ。宿が見つかるといいな」
名前も聞いていない相手だった。
なのに、今日の俺には、彼のその一言がありがたかった。
倉庫を出ると、工房から夕方の匂いがした。
火を落とした炉の焦げた匂い。夕食の支度で煮込まれている野菜の匂い。仕事を終えた人たちの汗と、道の端に溜まった土の匂い。
みんな、それぞれの家へ帰っていく。
荷車を片づける人。店先で子供を呼ぶ人。すれ違いざまに明日の仕事を約束する人。
そんな当たり前の光景を見て、少しだけ立ち止まった。
俺も、帰る場所がほしかった。
◇ ◇ ◇
西の宿泊区へ着いたころには、鐘楼が夕方の時を告げていた。
朝――いや、ここへ来たときには、鐘の音がただの見知らぬ街の音に聞こえた。
今は、それを聞くと何となく区切りが分かる。
市場の露店は次々に布を畳み、職人らしい人たちが買い物袋を手に歩いていた。飲食店の前では、仕事帰りの客が立ったまま熱い汁をすすっている。
宿の看板を探すのは一苦労だった。
受付の女性が教えてくれたのは、二階の窓に寝台の絵がある建物だということだけ。似た看板を三つも見つけて、俺は順番に値段を聞いて回った。
一軒目は個室で、高すぎた。
二軒目は満室。
三軒目でようやく、共同寝室に空きがあると言われた。
入口には、使い込まれた木の長椅子が置いてあった。床の隅には箒が立てかけられ、奥からは野菜を煮る匂いが漂っている。
帳場にいた年配の女性が、俺の手元の小銅貨を見て言った。
「共同部屋なら一晩六枚。寝具はある。荷物の管理は自分でね」
「六枚でお願いします」
「朝食は別料金だよ。今夜は食事をつけるかい?」
「いくらですか?」
「豆の煮込みと黒パンで四枚」
俺は手の中の硬貨を数えた。
十四枚あったものが、宿代で八枚になる。食事を頼めば、残りは四枚。
明日も働けるかは分からない。
それでも、今の空腹を我慢するのは無理だった。
「食事もお願いします」
「分かった。そこの席で待ってな」
女性は十枚の硬貨を受け取り、奥の調理場に声をかけた。
俺は空いた長椅子に座り、残った四枚を数える。
一枚、二枚、三枚、四枚。
あまりに頼りない。
そのうち一枚を掌へ載せ、光にかざしてみた。
丸い模様の中に、知らない紋章が刻まれている。縁には小さな凹凸があり、何度も使われたのか、表面は少しすり減っていた。
この硬貨も、きっと何十人もの手を渡ってきたのだろう。
明日の朝には、俺の手からも離れていくかもしれない。
「お待ちどおさま」
目の前に、欠けた縁を直した木の器が置かれた。
湯気の向こうには、大ぶりの豆と柔らかそうな野菜が見える。黒パンは思ったより硬かったけれど、汁に浸すと食べやすくなった。
一口食べた途端、胃の奥に温かさが広がった。
塩味が少し強い。豆はほくほくしていて、知らない香草の匂いが鼻に抜ける。
うまい。
それだけで、少し泣きそうになった。
俺はさっきから、こんなことでばかり泣きそうになっている。
水を飲めたこと。人に道を教えてもらったこと。仕事を終えられたこと。
日本なら気にも留めなかったことが、一つずつ大きく感じられる。
向かいの席では、年配の夫婦らしい二人が明日の仕入れについて話していた。隣には、荷車を直す職人らしい男が座っている。
「今度の便は南からだってさ」
「街道がぬかるんでなきゃいいけどね」
誰も異世界について話していない。
世界がいくつあるとか、どうすれば別の世界へ行けるとか、そんなことを話す人は一人もいなかった。
俺はパンを小さくちぎって、残りの汁をすくった。
そもそも、本当に別の世界なのだろうか。
言葉が分かるのに、字が読めない。
獣耳を持つ人がいて、魔石が灯りになる。
知っている常識では説明できないことばかりだ。
けれど、説明できないからといって、答えが「異世界」で確定したわけでもない。
俺は今、自分がどこにいるのかを証明する方法すら持っていない。
食べ終えた皿を下げようとすると、帳場の女性が声をかけた。
「そこに置いときな。あんた、仕事帰りかい?」
「はい。今日、倉庫で働いてきました」
「じゃあ、明日は腕が痛いよ。熱い湯は節約してるから好きには使えないけど、手だけなら裏の桶で洗える」
「ありがとうございます」
「礼より、他の泊まり客を起こさないこと。朝早い人もいるんだから」
「気をつけます」
女性は階段の上を指した。
「二階の突き当たり。左に空いた寝台があるよ」
寝室には、木製の寝台が六つ並んでいた。
壁際の一つには旅の荷物が置かれ、別の寝台では大柄な男がもう鼾をかいている。
俺に割り当てられたのは窓のそばだった。
寝具は少し湿っていたけれど、触れると十分に柔らかい。窓からは、屋根の上を渡る風が入ってくる。
荷物といっても、俺には財布と鍵とスマートフォンくらいしかない。
服も着替えがない。歯ブラシもない。明日のことを考えれば必要なものだらけなのに、手元には小銅貨四枚しか残っていなかった。
寝台に座ると、足の裏がじんじん痛んだ。
靴を脱ぎ、少し赤くなった指の付け根を確かめる。どこかで引っかけたらしく、薄い皮がめくれていた。
たった半日の仕事で、これか。
明日、もし冒険者としての検査を受けられても、俺に何ができるだろう。
剣の扱い方も知らない。魔法だって、見たことがあるのは灯具の光くらいだ。自分には特別な力がある、なんて根拠は一つもない。
俺はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をつけると、見慣れた壁紙が明るく浮かび上がる。
日本で撮った、何でもない写真。
駅前の道。曇り空。いつも通り過ぎていた建物。
指で写真を拡大しても、当然、向こう側へ行けるわけじゃない。
通信の表示は相変わらず圏外だった。
俺は連絡先を開き、家族の名前が並ぶ画面を見つめた。
電話をかけても通じないことは、もう分かっている。
それでも、指が勝手に動きそうになった。
「……帰りたいな」
声に出すと、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
帰りたい。何も知らないこの街じゃなくて、知っている家へ。
布団の匂いも、窓の外の景色も、冷蔵庫の中身まで分かる場所に戻りたい。
俺は画面を消した。
残りの電池は、思っていたより少なくなっている。
端末が使えなくなる日が来たら、何を頼りに日本を思い出せばいいんだろう。
しばらくうつむいていたけれど、やがて小銅貨をもう一度取り出した。
四枚。
明日の朝食を買ったら、残りはわずかだ。
俺は財布の空いた場所に硬貨をしまい、受付でもらった紙を広げた。
細い線で描かれた道と、寝台の絵。女性が俺のために印をつけてくれた、簡単な案内図だった。
読めない字の横に、鉛筆に似た道具で自分用の印を描いてみる。
大きな四角がギルド。
そこから右へ行けば工房区。左へ進めば宿泊区。
今日覚えた道だけでいい。明日、迷わず歩けるようにしておこう。
図を見ているうちに、昼間、受付の女性に言った自分の言葉を思い出した。
『自分がここで何をできるのか、知りたいんです』
自分で口にしたくせに、妙な言葉だと思った。
今まで俺は、こんなことを真剣に考えたことがあっただろうか。
大学を卒業して就職して、仕事を覚えて、給料をもらって。特別な不満があったわけじゃない。ただ、毎日を過ごしていた。
この街に来たから急に立派になれる、なんて思わない。
今日だって、重い箱を落としかけた。倒れそうな荷物へ飛び込んで、余計な怪我をしかけた。
できなかったことのほうが多い。
それでも、言葉の通じる相手がいる。仕事を教えてくれる人がいる。覚えれば、明日はもう少しうまくできることがある。
俺は紙を丁寧に畳み、枕元へ置いた。
家へ帰る方法を探す。
それだけは変えない。
でも、そのためにも、ここで生きていかなければならない。
窓の外で鐘が鳴った。
昼間とは違う、ゆっくりした低い音だった。
遠くに見える迷宮の門は、夜になっても灯りを絶やしていない。門前の通りを、小さな灯具を掲げた人影が歩いている。
あの奥には何があるのだろう。
俺がここへ来た理由を知る手がかりは、あそこにあるのだろうか。
答えはまだ、何も分からない。
明日はギルドへ行く。
登録の相談をして、適性というものを確かめてもらう。
もし何もできないと言われたら、そのときは別の仕事を探せばいい。
そう考えても、胸の奥の小さな期待までは消せなかった。
布団を引き寄せ、目を閉じる。
知らない人の鼾と、通りの荷車の音が聞こえる。
疲れのせいか、眠気は思ったより早くやってきた。
眠る直前、俺はもう一度だけ思った。
明日の朝、目を覚ましたら、いつもの部屋に戻っていないだろうか。
そんな都合のいい願いを抱えたまま、俺は初めて、知らない街での最初の夜を越えようとしていた。
(第2話 了)
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