↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界迷宮で仲間と恋をする  作者: 天音シオン
第1巻『異世界に降り立った青年』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/4

第1話 見知らぬ空

 最初に感じたのは、頬に食い込む石の冷たさだった。


 次に、何か大きなものが地面を叩く音。ひづめのような硬い音が、すぐ近くで何度も響いている。


「おい、そこの兄ちゃん! 寝るならよそで寝てくれ!」


 怒鳴り声に肩を跳ねさせ、俺は目を開けた。


 知らない石畳が、鼻先にあった。


 濃淡の違う灰色の石が隙間なく敷かれ、溝には細かな砂が詰まっている。石の一つに小さな欠けがあって、そこから伸びたひび割れを、なぜか最初の数秒は眺めていた。


 起き上がろうとした瞬間、視界の端を巨大な車輪が通り過ぎた。


「うわっ!」


 反射的に手をつき、後ずさる。


 車輪は俺の靴先をかすめる距離で止まった。その向こうでは、荷を積んだ木製の荷車を、牛に似た、しかし額に太い角が三本ある獣が引いていた。


 馬車……いや、牛車か?


 そんなことより、なんだ、あの角は。


「怪我はないか?」


 荷台の横にいた男が、呆れた顔で見下ろしてきた。日に焼けた太い腕と、胸当てのついた革の服。腰には短い刃物まで下がっている。


「だ、大丈夫です。すみません」


「道の真ん中に転がってたら、そりゃ轢かれるぞ。具合が悪いなら端へ寄れ」


 男はそれだけ言うと、荷車の前へ回った。


 獣が鼻を鳴らし、重たい車輪が軋みながら動き出す。荷台の樽が揺れ、金具同士の触れ合う乾いた音が遠ざかっていった。


 俺は四つん這いになったまま、しばらく動けなかった。


 今のは、夢か?


 言葉は分かった。少なくとも、男が何を言っているのかは分かった。


 でも、男の口から聞こえた音は、俺の知っている日本語とはどこか違っていた。意味だけが、会話をしているときのように自然に頭へ入ってくる。


 気味が悪い。


 立ち上がって周囲を見回したところで、やっと本当に息が止まりそうになった。


 道路の両側に、石と木で造られた建物が並んでいた。三階建てくらいの家もあれば、屋根の低い店もある。窓には色のついた布が掛けられ、石壁から突き出た看板が風に揺れている。


 その下を、人が歩いていた。


 いや、人だけじゃない。


 買い物袋を抱えた女性の頭から、尖った耳が伸びている。向こうで果物を並べている少年には、茶色い獣耳と長い尻尾があった。荷車を誘導する若い男の髪の間には、小ぶりな角まで見える。


 誰も彼らを振り返らない。


 獣耳の少年は店主に叱られ、尖った耳の女性は野菜の値段を尋ね、角のある男は荷車の車軸を気にしている。


 おかしなことばかりなのに、通りの人たちは、これが当たり前だという顔をしていた。


「……どこだよ、ここ」


 喉がからからだった。


 視線を上げる。


 屋根と屋根の間に、見知らぬ空が広がっていた。


 いつも見上げていた空より青い、なんて言い切る自信はない。空を見比べる趣味なんてなかったから。ただ、今見えている青には、電線も信号機も高層ビルも割り込んでこない。


 白い雲が、古びた鐘楼の上をゆっくり流れていった。


 その鐘楼のてっぺんに、鳥が三羽とまっている。


 鳥の羽が風で揺れるところまで、妙にはっきり見えた。


 俺は目をつぶり、もう一度開いた。


 何も変わらなかった。


 名前は高瀬玲(たかせれい)。二十二歳。社会人になって、まだ一年も経っていない。


 そのことは覚えている。


 今朝、いつものように服を着たことも覚えている。朝食をきちんと食べたかどうかは曖昧だけど、少なくとも、妙な角の獣を引く荷車に乗った記憶はない。


 では、直前に何があった?


 思い出そうとすると、頭の奥がざらついた。


 駅へ向かっていたような気がする。誰かとすれ違ったような気もする。足元がふっと頼りなくなり、視界が白く……。


 そこで記憶は途切れていた。


 車に撥ねられた? 気を失って外国へ運ばれた?


 どれも今の状況を説明してくれない。


 まして、目の前で楽しそうに尻尾を振っている子供の説明には、まるでならなかった。


「落ち着け。とりあえず、落ち着こう」


 声に出してみると、ひどく情けない響きだった。


 いったん道の端に寄る。自分の服を確かめると、薄いシャツに仕事用のズボン、歩き慣れた靴。さっき石畳に擦ったせいで、片膝が白く汚れていた。


 ポケットを探る。


 財布。鍵。交通系のカード。スマートフォン。


 いつものものが、いつもの場所に入っている。


 スマートフォンの画面がついた瞬間、胸が跳ねた。


 時刻の表示、通知の履歴、見慣れた壁紙。


 ここがどこでも、これさえあれば。


 そう思って画面の上端を見た俺は、指を止めた。


 圏外。


 アンテナが一本も立っていない。


 地図アプリを開く。読み込み中を示す表示がくるくる回り、やがて通信できないという案内に変わった。


 電話も、メッセージも送れない。


 連絡先には家族の名前があるのに、どれを押してもつながらない。


「……嘘だろ」


 何度か機内モードを切り替えた。端末を再起動しようとして、手を止める。


 充電の残りが、急に惜しくなった。


 電気を使える場所があるとも限らない。


 そんなことを考えた自分に、ぞっとした。


 まるで、しばらくここにいるつもりみたいじゃないか。


 違う。帰るんだ。帰らなきゃいけない。


 母さんなら、連絡がつかなければ夕方には心配する。父さんも仕事から戻れば何か言うだろう。妹は最初こそからかうかもしれないけど、たぶん、一緒に探してくれる。


 最後に交わした言葉を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。


 今すぐ家に電話したい。


 その願いだけが、喉の奥につかえていた。


 俺は端末をポケットへしまった。


 通りでは、さっきと変わらず人が行き来している。誰かが俺の失踪を知っている様子はない。


 当然だ。ここにいる人たちには、俺が誰なのかさえ分からない。


 じっと立っていると、今度は空腹を感じた。


 鼻先を、焼いた肉の匂いが通り過ぎる。


 振り向けば、軒下に鉄板を置いた店があった。小さな丸いパンを割り、肉と刻んだ葉物を挟んでいる。鉄板の上で脂が弾け、香辛料らしい甘辛い香りが風に乗った。


 店の前には、作業服の男が二人並んでいた。


「今日は肉が多いな」


「昨日の仕入れがよかったんだよ。文句があるなら減らしてやろうか」


「冗談だって」


 店主が笑い、焼けたパンを紙で包む。


 客が丸い金属片を渡した。


 俺の腹が、場違いなほど大きな音を立てた。


 店主がこちらを見た気がして、思わず目を逸らす。


 財布を開く。中には日本(にほん)の紙幣と硬貨、それから役に立つ気がしないカードが何枚か。


 そうだ。食べ物は買えるかもしれない。


 駄目でも、聞くだけなら。


 俺は店の列が切れるのを待ってから、恐る恐る近づいた。


「あの、すみません。これ、一ついくらですか?」


「小銅貨四枚だよ。焼きたてだ」


 店主は四本の指を立てた。


 小銅貨。


 聞いたことのない単位だった。


 財布から百円玉を取り出し、掌に載せる。


「これで払えますか?」


 店主の目が細くなった。


「何だい、それ」


「お金……のつもりなんですけど」


「見たことないね。飾りの札でもついてるのかい」


 百円玉を指でつまみ、両面を眺めたあと、店主は首を横に振った。


「うちじゃ受け取れないよ。悪いね」


「ですよね。すみません」


 俺は慌てて硬貨を受け取った。


 少し恥ずかしかった。店主は怒っていないのに、後ろに並び始めた客の視線が痛い。


 道へ戻ると、さっきまで心地よかった肉の匂いが急にきつく感じられた。


 財布には、いつもなら昼飯を数回食べられるだけのお金がある。


 でも、今の俺にはパン一個も買えない。


 ここが本当に知らない国なら、両替所を探せば済むのかもしれない。


 ただ、百円玉を見て「何だい、それ」と言った店主の表情が、頭から離れなかった。


 異国のお金を見た人の反応ではなかった気がする。


 もっと、知らない素材を見せられたときの顔だった。


 通りをしばらく歩くと、石の水盤が置かれた小さな広場に出た。


 中央の噴水から、細い水が絶えず落ちている。端には柄杓らしい道具が吊られ、買い物帰りの女性がそれを使って水を飲んでいた。


 俺は少し迷ってから、近くにいた老人に声をかけた。


「すみません。この水、飲んでも大丈夫ですか?」


「飲めるよ。西の水路から引いてる水だ。ただし、その柄杓は飲む人用だ。手は洗うなよ」


「ありがとうございます」


 老人はうなずいて、持っていた籠を抱え直した。


 俺は柄杓を取り、そっと水を口に含んだ。


 冷たい。


 喉の奥を通る感触があまりに普通で、思わずもう一口飲んだ。


 水の味がする。


 当たり前のことに、少しだけ泣きそうになった。


 柄杓を戻し、水盤の縁に寄りかかる。


 ここに来てから、どれだけ時間が経ったんだろう。腕時計を見ても、この街の時間とは合っていないはずだ。


 辺りは昼過ぎらしい。人が荷を運び、子供が駆けていく。店は忙しそうで、笑い声も怒鳴り声も絶えない。


 俺がどうしてここにいるのか、その答えだけがない。


「兄ちゃん、顔色が悪いぞ」


 さっきの老人が、まだ近くにいた。


 籠の中には細長い根菜と、葉を結んだ束が入っている。老人は俺の靴から頭までを眺めた。


「着てるものも変わってる。旅の人か?」


「……たぶん。いや、そうなのかもしれません」


「なんだ、はっきりしないな」


「道に迷ってしまって。ここがどこなのか、教えてもらえますか」


 老人はしばらく俺を見てから、噴水の向こうを指した。


「アルノヴァだよ。迷宮へ入る者なら、一度は名前を聞く街さ」


「アルノヴァ……」


 口の中で繰り返しても、何の記憶にも引っかからなかった。


「国は? ここって、どこの国ですか」


「リュシエル王国。それ以外の何に見える」


「いえ……すみません」


 初めて聞く国名だった。


 老人の籠から、丸い根菜が一つ転がり落ちた。


 俺は慌てて拾い上げ、差し出す。泥が乾いた表面は、見たことのない紫がかった色だった。


「これ、落ちましたよ」


「ああ、すまんね」


 老人は受け取ると、俺の服に目を留めた。


 妙な格好をしている他人に、それでも道を教えようとしてくれている。


 その当たり前の親切が、今はひどくありがたかった。


 老人は眉を上げた。


「本当に大丈夫か? 頭を打ったんじゃないだろうな」


「打ったかもしれません。さっき、石畳で倒れてて」


「それなら診てもらった方がいい。金がないなら、まず公的ギルドへ行って相談しな。あそこなら街の案内もしてる」


「公的ギルド?」


「冒険者ギルドだよ。迷宮に潜る人間の登録も、依頼の取り次ぎもやってる。街の真ん中にあるから見つかる」


 聞き慣れない言葉が続く。


 冒険者。ギルド。迷宮。


 ゲームや小説で何度も見た単語なのに、現実の人間が生活の説明として口にすると、ひどく落ち着かない。


 老人は俺の反応を待っていたが、やがて困ったように笑った。


「鐘楼が見えるだろ。あれを左へ回って、大きい通りをまっすぐ。旗の下がった石の建物だ」


「ありがとうございます。助かりました」


「気をつけな。昼の荷車は遠慮がないからな」


 老人は籠を揺らしながら、路地へ入っていった。


 俺はその背中が見えなくなるまで頭を下げていた。


 さっき道の真ん中で荷車に轢かれかけたことは、何も言わないでおいた。


 教えられたとおりに歩き始める。


 鐘楼の脇では、木箱を積み上げた店員が同僚と口喧嘩をしていた。その隣には、革をなめす匂いの強い工房がある。軒先には手袋や腰帯が吊られ、壁に立てかけられた盾には深い傷がついていた。


 大通りへ出ると、人の服装が変わった。


 厚い布の上着を着た商人に混じって、鎖のついた防具を着た男たちが歩いている。背に長い弓を担いだ女性。長い柄の武器を肩に載せた若者。刃の欠けた剣を抱え、職人に何かを頼んでいる大柄な男。


 飾り物ではないらしい。


 道の石には細かな傷が多く、荷車の積み荷には鉱石らしい塊が混じっていた。


 建物の壁に、見たことのない文字が並んでいる。


 形は読めない。丸く曲がった線と短い棒を組み合わせたような字だ。なのに、通りの人たちの会話は相変わらず理解できる。


 話せるのに、読めない。


 不便だし、気味が悪い。


 看板の意味くらい聞こうと立ち止まりかけたとき、前から来た女の子が、俺の脇を勢いよく走り抜けた。


「ごめんなさーい!」


 頭の上の茶色い耳が、走るたびにぴょこぴょこ動いた。


 女の子は両手に布包みを抱え、後ろから追ってきた大人に「走るな!」と叱られている。


 俺は思わず見送った。


 作り物の耳じゃない。尻尾まで、曲がり角で自然に揺れた。


 こんな光景を見ているのに、不思議と誰も悲鳴を上げない。


 俺だけが、ここから浮いている。


「まさか、本当に……」


 異世界。


 その言葉が頭をよぎった。


 口にしたら最後、認めてしまう気がして、続きを飲み込んだ。


 現実逃避かもしれない。見えているものを全部幻覚だと言い張れば、まだ楽になれるのかもしれない。


 でも、腹は減るし、膝は擦りむけている。


 石畳の硬さも、喉を通った水の冷たさも、これまで知っている現実と何も変わらなかった。


 俺は深呼吸をして、歩く速度を少し上げた。


 通りの向こうに、街の中心らしい広場が見えてきた。


 広場の奥には、見上げるほど大きな石造りの門があった。


 城門とは違う。門の向こうに街道も、城も見えない。


 黒っぽい岩を幾重にも積み重ねたような構造で、開いた口の奥へ道がゆるく下っていた。門の前には柵が置かれ、武装した人たちが順番を待っている。


 入口の脇で、小さな灯りが何かに反応して青く揺れた。


 入っていく男の荷物には、折りたたんだ布やロープが括りつけられていた。別の集団が出てくると、肩に担いだ袋から石の欠片のようなものが透けて見えた。


 その一人は腕を布で吊っている。


 仲間らしい女性が傷ついた腕を気遣い、男は苦笑いしながら何か答えていた。


 俺は足を止めた。


 そこにだけ、街の賑わいとは違う重さがあった。


 入る人の顔は硬い。出てきた人の顔には、安堵と疲れが混じっている。


 何かを取りに行く場所なのだろう。


 そして、無事に帰れるとは限らない場所。


「あれが迷宮か」


 独り言が口からこぼれた。


 近くにいた武装した女性が、ちらりとこちらを見た。


「初めて見るの?」


「あ、はい。そうです」


「なら、あんまり入口を塞がないでね。荷物が通るから」


「すみません」


 慌てて脇に寄る。


 さっきから謝ってばかりだ。


 女性は少し笑ったが、すぐに仲間のほうへ向き直った。


 俺にはその笑顔がありがたかった。何も知らない自分を見て、怒鳴る人ばかりではないと分かったから。


 そのとき、門の内側から低い音が響いた。


 地面の深いところを、何か重いものがこすったような音。


 入口にいた人たちは少し顔を上げたものの、誰も騒がなかった。


 俺だけが、体を固くした。


 今のは何だ。


 聞こうとしたが、女性はもう仲間と歩き出している。


 門の黒い奥を見つめていると、急に足元が頼りなくなった。


 ここは、ゲームの画面じゃない。


 俺が何もしなければ、勝手に案内が現れることもない。


 知らない街で、金も使えず、帰り道も分からない。


 その先にあるという迷宮が何であれ、今の俺には近づく理由がなかった。


 公的ギルドの建物は、迷宮門から少し離れた場所にあった。


 広場を囲む建物の中でも目立って大きい。明るい灰色の石壁と、重い木の扉。入口の上に紋章らしい飾りがあり、その下で何色もの旗が風に鳴っている。


 出入りする人の数も多かった。


 鎧姿の三人組が、笑いながら階段を下りてきた。すぐ後ろには、担架を持った二人が静かに通る。別の若者は分厚い紙束を抱え、何かの順番を確認していた。


 ここなら、誰かが説明してくれるかもしれない。


 そう思ったのに、いざ扉を前にすると、足が止まった。


 俺には身分を証明できるものがない。


 免許証は持っている。会社の社員証も財布に入っている。


 でも、ここで見せても、日本(にほん)の硬貨と同じ反応をされるだけだろう。


 そもそも、帰る方法を聞いて何と言えばいい?


「日本(にほん)から来ました。気がついたらここにいました」


 口の中で試してみた。


 怪しい。


 どう考えても怪しい。


 自分でも信じたくない話なのに、他人が信じてくれるわけがない。


 だからといって、適当に嘘をつけば余計に面倒になる。


 俺は扉の木目に視線を落とし、ひとつ息を吐いた。


 逃げても、状況はよくならない。


 帰りたいなら、まずここがどこなのかを知らなきゃいけない。


 腹を決めて、扉を押した。


 中は思っていたより明るかった。


 天井が高く、梁には小さな灯具が吊られている。壁際には椅子と机がいくつも置かれ、その奥で人々が地図を広げたり、傷んだ装備を点検したりしていた。


 右手には大きな掲示板。色の違う紙が何十枚も貼られている。


 文字はやっぱり読めない。


 左手には横長の受付台があり、何人もの職員が来訪者の話を聞いていた。


 奥のほうでは誰かが言い争っている。


「この報告じゃ、どの道で遭遇したか分からないだろ!」


「だから、三つ目の分岐だって言ってる!」


「三つ目にも道が二本あるんだよ!」


 机を叩く音がした。


 別の場所からは、若い女性の声がする。


「負傷者がいるなら先に医療窓口へ。提出は後でも構いません」


 職員たちは忙しそうだった。


 それでも人々はきちんと列を作り、必要なことを一つずつ伝えている。


 少しだけ、見覚えのある景色だった。


 市役所や銀行の窓口と、やっていることは似ているのかもしれない。


 そう思うと、さっきまでの緊張が少しゆるんだ。


 俺は一番短い列の後ろへ並んだ。


 前にいたのは、背中に大きな木箱を背負った小柄な男だった。


 男は箱を下ろし、受付の女性に紙を渡している。


「補修用の留め具、これで全部だ。数は十二。足りない分は明日の便になる」


「確認します。運搬記録には帰着時刻もお願いします」


「へいへい。分かってるよ」


 男は笑い、肩を回してから列を離れた。


 俺の番になった。


 受付の女性は、俺と同じくらいか少し年上に見えた。淡い色の髪を後ろでまとめ、机の上には何冊もの帳面を積み上げている。


 彼女は俺の服を一度だけ見たあと、いつもどおりの声で言った。


「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」


 質問された瞬間、用意していたはずの言葉が飛んだ。


「ええと……」


「探索の登録でしょうか。それとも依頼のご相談ですか?」


「その、両方とも、よく分からなくて」


「はい?」


「すみません。ちょっと、事情があって……この街に来たばかりなんです」


 女性は首をかしげたが、急かさなかった。


「それでしたら、街の案内をご希望ですか?」


「はい。それと、できれば帰り方も調べたくて」


「帰り方?」


「自分のいた場所に、戻りたいんです」


 言い終えてから、胸の奥がつまった。


 自分でも驚くくらい、切実な声になっていた。


 女性は筆を置いた。


「出身地をお聞きしてもよろしいですか?」


「日本(にほん)です」


「ニホン……」


 彼女は小さく繰り返した。


「すみません。もう一度、お願いします」


「日本(にほん)。えっと、国の名前です」


 受付の女性は手元の紙を少しめくり、困ったように眉を寄せた。


「申し訳ありません。私の知っている地名ではないようです。王国の外でしょうか」


「そう……だと思います」


 口にした途端、自分の言葉がますます不確かに聞こえた。


 王国の外、という程度の距離じゃない。


 そんな気がしてならない。


「他にお分かりになる地域名や、近くの大きな街はありますか?」


「東京(とうきょう)……という街なら。そこから、電車で……」


 説明しかけて、やめた。


 電車という言葉を聞いた女性は、一瞬だけ目を瞬かせた。


 たぶん、通じていない。


 それでも彼女は笑わなかった。


「少し整理してお聞きしてもよろしいでしょうか。お怪我はありませんか? お一人ですか?」


「はい。一人です。怪我は……膝を擦ったくらいで」


「お食事や、今夜のお泊まり先は?」


 その質問で、俺は黙った。


 ここへ来てから、帰ることばかり考えていた。


 夕飯はどうする。夜になったらどこで寝る。


 分かっていたはずの問題が、急に目の前に並んだ。


「……ありません。お金も、ここのものは持っていなくて」


 女性は驚いた顔をしたあと、机の上から小さな紙を一枚引き寄せた。


「分かりました。まず、お名前をお願いします」


「高瀬(たかせ)、玲(れい)です」


「タカセ……?」


 彼女の筆が止まった。


 この世界でも、名前の順番は違うのだろうか。


「玲、で大丈夫です。レイって呼んでください」


「レイさんですね」


 女性はそう言って、紙に何かを書いた。


 見知らぬ文字が、さらさらと並んでいく。


 自分の名前が、読めない字で記されていくのを見るのは、妙な気分だった。


「レイさん。ここは公的冒険者ギルドのアルノヴァ窓口です。身元の確認が必要になる手続きもありますが、いきなり登録をお願いするわけではありません。まずは今のお困りごとを聞かせてください」


 女性の口調は丁寧だった。


 あまりに普通で、少し救われた。


「ありがとうございます」


「ただ……出身地を探すことについては、すぐにお約束できません。知らない国の名前を伺ったからといって、必ず行き方が分かるわけではありませんので」


「はい。そこは、分かってます」


 本当は、分かっていなかった。


 どこかで、ここに来れば帰る方法を教えてもらえると期待していた。


 街で一番大きそうな建物に入りさえすれば、何か分かるんじゃないかと。


 でも、受付の女性は魔法使いでも、全知の案内人でもない。


 知らないものは、知らないのだ。


 それを責める権利は俺にはなかった。


 女性は俺の顔を見て、少し考えるように筆先を持ち上げた。


「生活のご相談でしたら、受けられる依頼や仕事についてご案内できます。ただ、迷宮の仕事は危険を伴います。今日ここへ来た方に、すぐ潜ってくださいとは言えません」


「迷宮……」


 あの黒い門が脳裏に浮かんだ。


 腕を吊った男。疲れた顔で帰ってきた人たち。門の奥から響いた、低い音。


「そこで働けば、お金が手に入るんですか」


「仕事や成果に応じて、報酬を受け取れます。迷宮で採れる魔石や素材は、街の暮らしにも欠かせないものですから」


「魔石(ませき)……」


 新しい言葉を一つ覚えた。


 けれど、それで何かができるようになったわけじゃない。


 今の俺は剣も握ったことがないし、荷車の車輪一つ避けられなかった。


 そんな人間が、迷宮で何をするというのだろう。


 女性は壁の時計のようなものに目をやり、俺のほうへ身を乗り出した。


「お時間はありますか。まず、この街のことと、ギルドでできることから順番にお話しします。分からないところは、その都度聞いてください」


 俺は返事をしようとして、すぐには声が出なかった。


 知らない街で、知らない文字に囲まれて、帰る方法もない。


 それでも、少なくとも今は、質問を聞いてくれる人が目の前にいる。


「……お願いします」


 やっと、それだけ言えた。


 女性はうなずき、机の下から折り畳んだ大きな紙を取り出した。


 開くと、何本もの線と、小さな印が描かれている。


 地図らしかった。


「ここがアルノヴァの中央広場です。レイさんがいらっしゃるのは、こちら。迷宮の入口は、少し北側にあります」


 彼女の指が、紙の上をゆっくり滑っていく。


 読めない文字の間に、街の形だけが浮かび上がった。


 俺は身を乗り出した。


 知りたいことが山ほどあった。


 何が食べられるのか。どこで眠れるのか。どうやって金を稼ぐのか。


 この街を出たら、どこへ行けるのか。


 そして、日本(にほん)へ帰れる道は本当にあるのか。


 そのどれにも、まだ答えはない。


 けれど、せめて今夜を越えるためのことなら、ここで知ることができるかもしれない。


 俺はポケットの上から、スマートフォンの角を指で押さえた。


 薄い板一枚が、急に遠い国から持ってきたもののように思えた。


 画面の向こうにいるはずの家族へ、今は一言も届けられない。


 帰りたい。


 胸の中でそうつぶやいてから、俺は地図へ目を戻した。


「最初から教えてもらってもいいですか。この街で暮らすには、何が必要なのか」


 女性は少しだけ表情をやわらげた。


「もちろんです、レイさん」


 遠くで、鐘の音がした。


 昼の賑わいを包むように、ゆっくり三度鳴る。


 俺の知らない街では、俺の知らない一日が、当たり前のように進んでいた。


 その日、俺は初めて、地図にない場所で自分の名前を伝えた。


 そして、家へ帰るために何をすればいいのか、何一つ知らないまま、誰かの説明に耳を傾け始めた。


(第1話 了)


ここまで読んでくれてありがとうございました!


まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!

☆☆☆☆☆→★★★★★

評価して頂けると、ものすごく喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。