第1話 見知らぬ空
最初に感じたのは、頬に食い込む石の冷たさだった。
次に、何か大きなものが地面を叩く音。ひづめのような硬い音が、すぐ近くで何度も響いている。
「おい、そこの兄ちゃん! 寝るならよそで寝てくれ!」
怒鳴り声に肩を跳ねさせ、俺は目を開けた。
知らない石畳が、鼻先にあった。
濃淡の違う灰色の石が隙間なく敷かれ、溝には細かな砂が詰まっている。石の一つに小さな欠けがあって、そこから伸びたひび割れを、なぜか最初の数秒は眺めていた。
起き上がろうとした瞬間、視界の端を巨大な車輪が通り過ぎた。
「うわっ!」
反射的に手をつき、後ずさる。
車輪は俺の靴先をかすめる距離で止まった。その向こうでは、荷を積んだ木製の荷車を、牛に似た、しかし額に太い角が三本ある獣が引いていた。
馬車……いや、牛車か?
そんなことより、なんだ、あの角は。
「怪我はないか?」
荷台の横にいた男が、呆れた顔で見下ろしてきた。日に焼けた太い腕と、胸当てのついた革の服。腰には短い刃物まで下がっている。
「だ、大丈夫です。すみません」
「道の真ん中に転がってたら、そりゃ轢かれるぞ。具合が悪いなら端へ寄れ」
男はそれだけ言うと、荷車の前へ回った。
獣が鼻を鳴らし、重たい車輪が軋みながら動き出す。荷台の樽が揺れ、金具同士の触れ合う乾いた音が遠ざかっていった。
俺は四つん這いになったまま、しばらく動けなかった。
今のは、夢か?
言葉は分かった。少なくとも、男が何を言っているのかは分かった。
でも、男の口から聞こえた音は、俺の知っている日本語とはどこか違っていた。意味だけが、会話をしているときのように自然に頭へ入ってくる。
気味が悪い。
立ち上がって周囲を見回したところで、やっと本当に息が止まりそうになった。
道路の両側に、石と木で造られた建物が並んでいた。三階建てくらいの家もあれば、屋根の低い店もある。窓には色のついた布が掛けられ、石壁から突き出た看板が風に揺れている。
その下を、人が歩いていた。
いや、人だけじゃない。
買い物袋を抱えた女性の頭から、尖った耳が伸びている。向こうで果物を並べている少年には、茶色い獣耳と長い尻尾があった。荷車を誘導する若い男の髪の間には、小ぶりな角まで見える。
誰も彼らを振り返らない。
獣耳の少年は店主に叱られ、尖った耳の女性は野菜の値段を尋ね、角のある男は荷車の車軸を気にしている。
おかしなことばかりなのに、通りの人たちは、これが当たり前だという顔をしていた。
「……どこだよ、ここ」
喉がからからだった。
視線を上げる。
屋根と屋根の間に、見知らぬ空が広がっていた。
いつも見上げていた空より青い、なんて言い切る自信はない。空を見比べる趣味なんてなかったから。ただ、今見えている青には、電線も信号機も高層ビルも割り込んでこない。
白い雲が、古びた鐘楼の上をゆっくり流れていった。
その鐘楼のてっぺんに、鳥が三羽とまっている。
鳥の羽が風で揺れるところまで、妙にはっきり見えた。
俺は目をつぶり、もう一度開いた。
何も変わらなかった。
名前は高瀬玲。二十二歳。社会人になって、まだ一年も経っていない。
そのことは覚えている。
今朝、いつものように服を着たことも覚えている。朝食をきちんと食べたかどうかは曖昧だけど、少なくとも、妙な角の獣を引く荷車に乗った記憶はない。
では、直前に何があった?
思い出そうとすると、頭の奥がざらついた。
駅へ向かっていたような気がする。誰かとすれ違ったような気もする。足元がふっと頼りなくなり、視界が白く……。
そこで記憶は途切れていた。
車に撥ねられた? 気を失って外国へ運ばれた?
どれも今の状況を説明してくれない。
まして、目の前で楽しそうに尻尾を振っている子供の説明には、まるでならなかった。
「落ち着け。とりあえず、落ち着こう」
声に出してみると、ひどく情けない響きだった。
いったん道の端に寄る。自分の服を確かめると、薄いシャツに仕事用のズボン、歩き慣れた靴。さっき石畳に擦ったせいで、片膝が白く汚れていた。
ポケットを探る。
財布。鍵。交通系のカード。スマートフォン。
いつものものが、いつもの場所に入っている。
スマートフォンの画面がついた瞬間、胸が跳ねた。
時刻の表示、通知の履歴、見慣れた壁紙。
ここがどこでも、これさえあれば。
そう思って画面の上端を見た俺は、指を止めた。
圏外。
アンテナが一本も立っていない。
地図アプリを開く。読み込み中を示す表示がくるくる回り、やがて通信できないという案内に変わった。
電話も、メッセージも送れない。
連絡先には家族の名前があるのに、どれを押してもつながらない。
「……嘘だろ」
何度か機内モードを切り替えた。端末を再起動しようとして、手を止める。
充電の残りが、急に惜しくなった。
電気を使える場所があるとも限らない。
そんなことを考えた自分に、ぞっとした。
まるで、しばらくここにいるつもりみたいじゃないか。
違う。帰るんだ。帰らなきゃいけない。
母さんなら、連絡がつかなければ夕方には心配する。父さんも仕事から戻れば何か言うだろう。妹は最初こそからかうかもしれないけど、たぶん、一緒に探してくれる。
最後に交わした言葉を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。
今すぐ家に電話したい。
その願いだけが、喉の奥につかえていた。
俺は端末をポケットへしまった。
通りでは、さっきと変わらず人が行き来している。誰かが俺の失踪を知っている様子はない。
当然だ。ここにいる人たちには、俺が誰なのかさえ分からない。
じっと立っていると、今度は空腹を感じた。
鼻先を、焼いた肉の匂いが通り過ぎる。
振り向けば、軒下に鉄板を置いた店があった。小さな丸いパンを割り、肉と刻んだ葉物を挟んでいる。鉄板の上で脂が弾け、香辛料らしい甘辛い香りが風に乗った。
店の前には、作業服の男が二人並んでいた。
「今日は肉が多いな」
「昨日の仕入れがよかったんだよ。文句があるなら減らしてやろうか」
「冗談だって」
店主が笑い、焼けたパンを紙で包む。
客が丸い金属片を渡した。
俺の腹が、場違いなほど大きな音を立てた。
店主がこちらを見た気がして、思わず目を逸らす。
財布を開く。中には日本の紙幣と硬貨、それから役に立つ気がしないカードが何枚か。
そうだ。食べ物は買えるかもしれない。
駄目でも、聞くだけなら。
俺は店の列が切れるのを待ってから、恐る恐る近づいた。
「あの、すみません。これ、一ついくらですか?」
「小銅貨四枚だよ。焼きたてだ」
店主は四本の指を立てた。
小銅貨。
聞いたことのない単位だった。
財布から百円玉を取り出し、掌に載せる。
「これで払えますか?」
店主の目が細くなった。
「何だい、それ」
「お金……のつもりなんですけど」
「見たことないね。飾りの札でもついてるのかい」
百円玉を指でつまみ、両面を眺めたあと、店主は首を横に振った。
「うちじゃ受け取れないよ。悪いね」
「ですよね。すみません」
俺は慌てて硬貨を受け取った。
少し恥ずかしかった。店主は怒っていないのに、後ろに並び始めた客の視線が痛い。
道へ戻ると、さっきまで心地よかった肉の匂いが急にきつく感じられた。
財布には、いつもなら昼飯を数回食べられるだけのお金がある。
でも、今の俺にはパン一個も買えない。
ここが本当に知らない国なら、両替所を探せば済むのかもしれない。
ただ、百円玉を見て「何だい、それ」と言った店主の表情が、頭から離れなかった。
異国のお金を見た人の反応ではなかった気がする。
もっと、知らない素材を見せられたときの顔だった。
通りをしばらく歩くと、石の水盤が置かれた小さな広場に出た。
中央の噴水から、細い水が絶えず落ちている。端には柄杓らしい道具が吊られ、買い物帰りの女性がそれを使って水を飲んでいた。
俺は少し迷ってから、近くにいた老人に声をかけた。
「すみません。この水、飲んでも大丈夫ですか?」
「飲めるよ。西の水路から引いてる水だ。ただし、その柄杓は飲む人用だ。手は洗うなよ」
「ありがとうございます」
老人はうなずいて、持っていた籠を抱え直した。
俺は柄杓を取り、そっと水を口に含んだ。
冷たい。
喉の奥を通る感触があまりに普通で、思わずもう一口飲んだ。
水の味がする。
当たり前のことに、少しだけ泣きそうになった。
柄杓を戻し、水盤の縁に寄りかかる。
ここに来てから、どれだけ時間が経ったんだろう。腕時計を見ても、この街の時間とは合っていないはずだ。
辺りは昼過ぎらしい。人が荷を運び、子供が駆けていく。店は忙しそうで、笑い声も怒鳴り声も絶えない。
俺がどうしてここにいるのか、その答えだけがない。
「兄ちゃん、顔色が悪いぞ」
さっきの老人が、まだ近くにいた。
籠の中には細長い根菜と、葉を結んだ束が入っている。老人は俺の靴から頭までを眺めた。
「着てるものも変わってる。旅の人か?」
「……たぶん。いや、そうなのかもしれません」
「なんだ、はっきりしないな」
「道に迷ってしまって。ここがどこなのか、教えてもらえますか」
老人はしばらく俺を見てから、噴水の向こうを指した。
「アルノヴァだよ。迷宮へ入る者なら、一度は名前を聞く街さ」
「アルノヴァ……」
口の中で繰り返しても、何の記憶にも引っかからなかった。
「国は? ここって、どこの国ですか」
「リュシエル王国。それ以外の何に見える」
「いえ……すみません」
初めて聞く国名だった。
老人の籠から、丸い根菜が一つ転がり落ちた。
俺は慌てて拾い上げ、差し出す。泥が乾いた表面は、見たことのない紫がかった色だった。
「これ、落ちましたよ」
「ああ、すまんね」
老人は受け取ると、俺の服に目を留めた。
妙な格好をしている他人に、それでも道を教えようとしてくれている。
その当たり前の親切が、今はひどくありがたかった。
老人は眉を上げた。
「本当に大丈夫か? 頭を打ったんじゃないだろうな」
「打ったかもしれません。さっき、石畳で倒れてて」
「それなら診てもらった方がいい。金がないなら、まず公的ギルドへ行って相談しな。あそこなら街の案内もしてる」
「公的ギルド?」
「冒険者ギルドだよ。迷宮に潜る人間の登録も、依頼の取り次ぎもやってる。街の真ん中にあるから見つかる」
聞き慣れない言葉が続く。
冒険者。ギルド。迷宮。
ゲームや小説で何度も見た単語なのに、現実の人間が生活の説明として口にすると、ひどく落ち着かない。
老人は俺の反応を待っていたが、やがて困ったように笑った。
「鐘楼が見えるだろ。あれを左へ回って、大きい通りをまっすぐ。旗の下がった石の建物だ」
「ありがとうございます。助かりました」
「気をつけな。昼の荷車は遠慮がないからな」
老人は籠を揺らしながら、路地へ入っていった。
俺はその背中が見えなくなるまで頭を下げていた。
さっき道の真ん中で荷車に轢かれかけたことは、何も言わないでおいた。
教えられたとおりに歩き始める。
鐘楼の脇では、木箱を積み上げた店員が同僚と口喧嘩をしていた。その隣には、革をなめす匂いの強い工房がある。軒先には手袋や腰帯が吊られ、壁に立てかけられた盾には深い傷がついていた。
大通りへ出ると、人の服装が変わった。
厚い布の上着を着た商人に混じって、鎖のついた防具を着た男たちが歩いている。背に長い弓を担いだ女性。長い柄の武器を肩に載せた若者。刃の欠けた剣を抱え、職人に何かを頼んでいる大柄な男。
飾り物ではないらしい。
道の石には細かな傷が多く、荷車の積み荷には鉱石らしい塊が混じっていた。
建物の壁に、見たことのない文字が並んでいる。
形は読めない。丸く曲がった線と短い棒を組み合わせたような字だ。なのに、通りの人たちの会話は相変わらず理解できる。
話せるのに、読めない。
不便だし、気味が悪い。
看板の意味くらい聞こうと立ち止まりかけたとき、前から来た女の子が、俺の脇を勢いよく走り抜けた。
「ごめんなさーい!」
頭の上の茶色い耳が、走るたびにぴょこぴょこ動いた。
女の子は両手に布包みを抱え、後ろから追ってきた大人に「走るな!」と叱られている。
俺は思わず見送った。
作り物の耳じゃない。尻尾まで、曲がり角で自然に揺れた。
こんな光景を見ているのに、不思議と誰も悲鳴を上げない。
俺だけが、ここから浮いている。
「まさか、本当に……」
異世界。
その言葉が頭をよぎった。
口にしたら最後、認めてしまう気がして、続きを飲み込んだ。
現実逃避かもしれない。見えているものを全部幻覚だと言い張れば、まだ楽になれるのかもしれない。
でも、腹は減るし、膝は擦りむけている。
石畳の硬さも、喉を通った水の冷たさも、これまで知っている現実と何も変わらなかった。
俺は深呼吸をして、歩く速度を少し上げた。
通りの向こうに、街の中心らしい広場が見えてきた。
広場の奥には、見上げるほど大きな石造りの門があった。
城門とは違う。門の向こうに街道も、城も見えない。
黒っぽい岩を幾重にも積み重ねたような構造で、開いた口の奥へ道がゆるく下っていた。門の前には柵が置かれ、武装した人たちが順番を待っている。
入口の脇で、小さな灯りが何かに反応して青く揺れた。
入っていく男の荷物には、折りたたんだ布やロープが括りつけられていた。別の集団が出てくると、肩に担いだ袋から石の欠片のようなものが透けて見えた。
その一人は腕を布で吊っている。
仲間らしい女性が傷ついた腕を気遣い、男は苦笑いしながら何か答えていた。
俺は足を止めた。
そこにだけ、街の賑わいとは違う重さがあった。
入る人の顔は硬い。出てきた人の顔には、安堵と疲れが混じっている。
何かを取りに行く場所なのだろう。
そして、無事に帰れるとは限らない場所。
「あれが迷宮か」
独り言が口からこぼれた。
近くにいた武装した女性が、ちらりとこちらを見た。
「初めて見るの?」
「あ、はい。そうです」
「なら、あんまり入口を塞がないでね。荷物が通るから」
「すみません」
慌てて脇に寄る。
さっきから謝ってばかりだ。
女性は少し笑ったが、すぐに仲間のほうへ向き直った。
俺にはその笑顔がありがたかった。何も知らない自分を見て、怒鳴る人ばかりではないと分かったから。
そのとき、門の内側から低い音が響いた。
地面の深いところを、何か重いものがこすったような音。
入口にいた人たちは少し顔を上げたものの、誰も騒がなかった。
俺だけが、体を固くした。
今のは何だ。
聞こうとしたが、女性はもう仲間と歩き出している。
門の黒い奥を見つめていると、急に足元が頼りなくなった。
ここは、ゲームの画面じゃない。
俺が何もしなければ、勝手に案内が現れることもない。
知らない街で、金も使えず、帰り道も分からない。
その先にあるという迷宮が何であれ、今の俺には近づく理由がなかった。
公的ギルドの建物は、迷宮門から少し離れた場所にあった。
広場を囲む建物の中でも目立って大きい。明るい灰色の石壁と、重い木の扉。入口の上に紋章らしい飾りがあり、その下で何色もの旗が風に鳴っている。
出入りする人の数も多かった。
鎧姿の三人組が、笑いながら階段を下りてきた。すぐ後ろには、担架を持った二人が静かに通る。別の若者は分厚い紙束を抱え、何かの順番を確認していた。
ここなら、誰かが説明してくれるかもしれない。
そう思ったのに、いざ扉を前にすると、足が止まった。
俺には身分を証明できるものがない。
免許証は持っている。会社の社員証も財布に入っている。
でも、ここで見せても、日本の硬貨と同じ反応をされるだけだろう。
そもそも、帰る方法を聞いて何と言えばいい?
「日本から来ました。気がついたらここにいました」
口の中で試してみた。
怪しい。
どう考えても怪しい。
自分でも信じたくない話なのに、他人が信じてくれるわけがない。
だからといって、適当に嘘をつけば余計に面倒になる。
俺は扉の木目に視線を落とし、ひとつ息を吐いた。
逃げても、状況はよくならない。
帰りたいなら、まずここがどこなのかを知らなきゃいけない。
腹を決めて、扉を押した。
中は思っていたより明るかった。
天井が高く、梁には小さな灯具が吊られている。壁際には椅子と机がいくつも置かれ、その奥で人々が地図を広げたり、傷んだ装備を点検したりしていた。
右手には大きな掲示板。色の違う紙が何十枚も貼られている。
文字はやっぱり読めない。
左手には横長の受付台があり、何人もの職員が来訪者の話を聞いていた。
奥のほうでは誰かが言い争っている。
「この報告じゃ、どの道で遭遇したか分からないだろ!」
「だから、三つ目の分岐だって言ってる!」
「三つ目にも道が二本あるんだよ!」
机を叩く音がした。
別の場所からは、若い女性の声がする。
「負傷者がいるなら先に医療窓口へ。提出は後でも構いません」
職員たちは忙しそうだった。
それでも人々はきちんと列を作り、必要なことを一つずつ伝えている。
少しだけ、見覚えのある景色だった。
市役所や銀行の窓口と、やっていることは似ているのかもしれない。
そう思うと、さっきまでの緊張が少しゆるんだ。
俺は一番短い列の後ろへ並んだ。
前にいたのは、背中に大きな木箱を背負った小柄な男だった。
男は箱を下ろし、受付の女性に紙を渡している。
「補修用の留め具、これで全部だ。数は十二。足りない分は明日の便になる」
「確認します。運搬記録には帰着時刻もお願いします」
「へいへい。分かってるよ」
男は笑い、肩を回してから列を離れた。
俺の番になった。
受付の女性は、俺と同じくらいか少し年上に見えた。淡い色の髪を後ろでまとめ、机の上には何冊もの帳面を積み上げている。
彼女は俺の服を一度だけ見たあと、いつもどおりの声で言った。
「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」
質問された瞬間、用意していたはずの言葉が飛んだ。
「ええと……」
「探索の登録でしょうか。それとも依頼のご相談ですか?」
「その、両方とも、よく分からなくて」
「はい?」
「すみません。ちょっと、事情があって……この街に来たばかりなんです」
女性は首をかしげたが、急かさなかった。
「それでしたら、街の案内をご希望ですか?」
「はい。それと、できれば帰り方も調べたくて」
「帰り方?」
「自分のいた場所に、戻りたいんです」
言い終えてから、胸の奥がつまった。
自分でも驚くくらい、切実な声になっていた。
女性は筆を置いた。
「出身地をお聞きしてもよろしいですか?」
「日本です」
「ニホン……」
彼女は小さく繰り返した。
「すみません。もう一度、お願いします」
「日本。えっと、国の名前です」
受付の女性は手元の紙を少しめくり、困ったように眉を寄せた。
「申し訳ありません。私の知っている地名ではないようです。王国の外でしょうか」
「そう……だと思います」
口にした途端、自分の言葉がますます不確かに聞こえた。
王国の外、という程度の距離じゃない。
そんな気がしてならない。
「他にお分かりになる地域名や、近くの大きな街はありますか?」
「東京……という街なら。そこから、電車で……」
説明しかけて、やめた。
電車という言葉を聞いた女性は、一瞬だけ目を瞬かせた。
たぶん、通じていない。
それでも彼女は笑わなかった。
「少し整理してお聞きしてもよろしいでしょうか。お怪我はありませんか? お一人ですか?」
「はい。一人です。怪我は……膝を擦ったくらいで」
「お食事や、今夜のお泊まり先は?」
その質問で、俺は黙った。
ここへ来てから、帰ることばかり考えていた。
夕飯はどうする。夜になったらどこで寝る。
分かっていたはずの問題が、急に目の前に並んだ。
「……ありません。お金も、ここのものは持っていなくて」
女性は驚いた顔をしたあと、机の上から小さな紙を一枚引き寄せた。
「分かりました。まず、お名前をお願いします」
「高瀬、玲です」
「タカセ……?」
彼女の筆が止まった。
この世界でも、名前の順番は違うのだろうか。
「玲、で大丈夫です。レイって呼んでください」
「レイさんですね」
女性はそう言って、紙に何かを書いた。
見知らぬ文字が、さらさらと並んでいく。
自分の名前が、読めない字で記されていくのを見るのは、妙な気分だった。
「レイさん。ここは公的冒険者ギルドのアルノヴァ窓口です。身元の確認が必要になる手続きもありますが、いきなり登録をお願いするわけではありません。まずは今のお困りごとを聞かせてください」
女性の口調は丁寧だった。
あまりに普通で、少し救われた。
「ありがとうございます」
「ただ……出身地を探すことについては、すぐにお約束できません。知らない国の名前を伺ったからといって、必ず行き方が分かるわけではありませんので」
「はい。そこは、分かってます」
本当は、分かっていなかった。
どこかで、ここに来れば帰る方法を教えてもらえると期待していた。
街で一番大きそうな建物に入りさえすれば、何か分かるんじゃないかと。
でも、受付の女性は魔法使いでも、全知の案内人でもない。
知らないものは、知らないのだ。
それを責める権利は俺にはなかった。
女性は俺の顔を見て、少し考えるように筆先を持ち上げた。
「生活のご相談でしたら、受けられる依頼や仕事についてご案内できます。ただ、迷宮の仕事は危険を伴います。今日ここへ来た方に、すぐ潜ってくださいとは言えません」
「迷宮……」
あの黒い門が脳裏に浮かんだ。
腕を吊った男。疲れた顔で帰ってきた人たち。門の奥から響いた、低い音。
「そこで働けば、お金が手に入るんですか」
「仕事や成果に応じて、報酬を受け取れます。迷宮で採れる魔石や素材は、街の暮らしにも欠かせないものですから」
「魔石……」
新しい言葉を一つ覚えた。
けれど、それで何かができるようになったわけじゃない。
今の俺は剣も握ったことがないし、荷車の車輪一つ避けられなかった。
そんな人間が、迷宮で何をするというのだろう。
女性は壁の時計のようなものに目をやり、俺のほうへ身を乗り出した。
「お時間はありますか。まず、この街のことと、ギルドでできることから順番にお話しします。分からないところは、その都度聞いてください」
俺は返事をしようとして、すぐには声が出なかった。
知らない街で、知らない文字に囲まれて、帰る方法もない。
それでも、少なくとも今は、質問を聞いてくれる人が目の前にいる。
「……お願いします」
やっと、それだけ言えた。
女性はうなずき、机の下から折り畳んだ大きな紙を取り出した。
開くと、何本もの線と、小さな印が描かれている。
地図らしかった。
「ここがアルノヴァの中央広場です。レイさんがいらっしゃるのは、こちら。迷宮の入口は、少し北側にあります」
彼女の指が、紙の上をゆっくり滑っていく。
読めない文字の間に、街の形だけが浮かび上がった。
俺は身を乗り出した。
知りたいことが山ほどあった。
何が食べられるのか。どこで眠れるのか。どうやって金を稼ぐのか。
この街を出たら、どこへ行けるのか。
そして、日本へ帰れる道は本当にあるのか。
そのどれにも、まだ答えはない。
けれど、せめて今夜を越えるためのことなら、ここで知ることができるかもしれない。
俺はポケットの上から、スマートフォンの角を指で押さえた。
薄い板一枚が、急に遠い国から持ってきたもののように思えた。
画面の向こうにいるはずの家族へ、今は一言も届けられない。
帰りたい。
胸の中でそうつぶやいてから、俺は地図へ目を戻した。
「最初から教えてもらってもいいですか。この街で暮らすには、何が必要なのか」
女性は少しだけ表情をやわらげた。
「もちろんです、レイさん」
遠くで、鐘の音がした。
昼の賑わいを包むように、ゆっくり三度鳴る。
俺の知らない街では、俺の知らない一日が、当たり前のように進んでいた。
その日、俺は初めて、地図にない場所で自分の名前を伝えた。
そして、家へ帰るために何をすればいいのか、何一つ知らないまま、誰かの説明に耳を傾け始めた。
(第1話 了)
ここまで読んでくれてありがとうございました!
まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!
☆☆☆☆☆→★★★★★
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