4 心を映す音色
「⸺よし、そこまで」
ベートーヴェンのピアノソナタ八番、悲愴第二楽章。
六月に参加するコンクールの課題曲だ。
最後の一音を弾き終えて数拍、大地先生が手を叩く。
「響司くん、だいぶ形になってきたね。先週より良い音だ」
「ありがとうございます」
ピアノから顔を上げる。
「先週の響司くんの音は、悲愴というよりは絶望って感じだったからね。手を介するから、音楽というのはその日の気分がダイレクトに音色に現れてしまう」
「……すみません」
先週のレッスンは、葉月に恋愛相談されたあとだった。
失恋したなんて誰にも言わなかったのに、大地先生に見透かされたみたいでいたたまれない。
「責めているわけじゃない。響司くんはまだ十五歳なんだから、未完成なのは当然だ。空模様と同じで、今日嵐だったと思ったら翌日には晴れている。晴れたと思ったら夕方には土砂降りになる。葉月もよく百面相しているからね」
「葉月がそれを聞いたら怒りますよ」
「いやいや、日曜は大変だったんだから。朝はめかし込んで元気に出ていったのに、帰ってきたとたん、夕ごはんも食べずに部屋に閉じこもってね。聞いても答えてくれないし。お父さんは悲しい」
おどけた感じで泣き真似をする大地先生。
年頃の娘を持つお父さんは大変なんだな。
「ま、雑談は置いておいて、今日の響司くんの音色はすごくあたたかくて優しい。なにかいいことがあったのかな」
「これといって特別なことはなにも」
「そうか、自分では気づいていないのか。若いっていいね」
訳知り顔でうなずく大地先生。
それからはいつもどおり、ミスした箇所を指摘され、次のレッスンまでに苦手部分の重点的な練習をしておくことになった。
ノックの音が聞こえて、長身の男性が入ってきた。
「失礼します。初田です。今週もお願いします。ミツキ、先生と響司くんにごあいさつして」
初田さんに軽く背中を押されて、小さな女の子が頭をさげる。
「せんせー、きょーじくん、こんばんは!」
時計を見るとちょうど今日のレッスン終了の時間だった。
この子は次の時間を取っている生徒だ。
「こんばんは、初田さん、ミツキちゃん。それじゃあ僕はこれで失礼します。先生、ありがとうございました」
帰ろうと思ったら、ミツキちゃんに手を引かれる。
「ねーねー、きょーじくんもきいて、ミツキね、いっぱいれんしゅうして、いちページひけるようになったの!」
目をきらきらさせておねがいされる。
僕はひざをついて目線を合わせ、ミツキちゃんに答える。
「そっか。がんばったんだね、ミツキちゃん」
「急いでないなら、響司くんも聞いてくれないかな。ミツキも、お兄ちゃんに聞いてもらうんだって、楽しみにしていたから」
「はい」
こんなにかわいい後輩にお願いされたら、帰るなんて言えない。
元気いっぱいの第九をきいて、懐かしい気持ちになる。
音色は心をあらわす。そのとおりだ。
ミツキちゃんは夢いっぱいで、世の中すべてかがやいてみえているんだろうな。
ピアノを習い始めのはミツキちゃんと同じ年の頃。
葉月と僕、どっちが先にピアニストになるかでケンカしたな。
でも、葉月は中学校にあがる前にピアノをやめてしまった。
理由を聞いたら、「私にはむいてないと思う」なんて、あたりさわりないことしか言わなかったけれど、本当のところどうなのかわからない。
最初の頃の気持ちがずっと続くなんて保証はない。
心が天気のように移り変わるなら。
僕もいつかは、葉月を好きだという気持ちを忘れられるだろうか。




