21 嫉妬《ジャーナリヴォスト》をはねのけて ☆挿絵あり
地区予選が終わってから、音楽教室で大地先生と話した。
「響司くん。審査員から悲愴が好評だったから、地区本選は予定通り課題曲のトロイメライにするかい? これなら二年前に教えたからまだ記憶も新しいだろう。自由曲にするのも手だが」
過去に習った楽曲の楽譜を、一枚一枚めくっていく。
本選まで一ヶ月しかないから、中学までに習った曲から選ぶことになる。
真っ先に浮かんだ曲の名前をあげる。
「カノンがいいです」
大地先生は楽譜を眺めて意味有りげに笑う。
「ああ。予選を聴きに来ていた子、華音さんだっけ。いやー、若いね」
「う、なんですかその目は。ええと、五年前に弾いたのと、今弾くのでは違うから……」
無理のない選択肢のはずなのに、なぜかそれっぽい言い訳を並べてしまう。
そんな僕を見て、大地先生は更に楽しそうになった。
「たしかに響司くんはあの頃に比べて体格も格段に良くなったから、違う解釈で弾くのも手だ。譜面を正確になぞるのではなく、今の君なりの解釈で」
この楽譜には、小学生の頃の僕が書き込んだメモが端々に入っている。
なんだかすごく懐かしい。
「どの程度覚えているか確認したいから、弾いてみてくれるかな」
「はい」
ピアノの蓋を開けて、椅子を調節する。
楽譜を置いて、カノンを奏でる。
自然と、この曲を習った頃のこと、これまでのことを思い出す。
中学までの僕は、ピアノを弾くためだけに生活していた。
部活には入らずに、まっすぐ家に帰ってピアノを弾く日々。
夏休みも、冬休みも。
もっとうまくなりたくてひたすらピアノを弾いていた。
クラスメイトたちが好きな漫画やゲーム、アニメの話をする中で、僕の話題はピアノのことしかなかった。
みんなが当たり前に持っているささやかな時間を、切り離して生きてきた。
──でも、今は。
これまで僕がしたことのなかった経験にあふれている。
沢と友だちになってからは、たわいないを話す日が増えた。
華音とお昼を食べる時間は穏やかで、レオの遊び相手をした日も楽しかった。
華音と手が触れあっただけで、落ち着かなくなる。
逃げたくなるくらい恥ずかしいのに、もっと触れていたいとも思う。
みんなで放課後に勉強会をするのも、とても新鮮で。
冗談をいいあいながら机に向かうなんて、中学までの僕じゃ考えられない。
昔の僕と、今の僕は違う。
大地先生が言った、「心は変わっていくもの」というのは、こういうことなんだろうか。
弾き終えると、大地先生は小さく拍手をした。
「教えたのは五年も前なのに、きちんと覚えているんだね。それに、あの頃よりも音に深い彩りがある」
「そう、ですか? 自分ではまだまだだと思ったんですが」
ミスタッチをしたと思うし、フォルテの部分を強くしすぎた気もする。
「前よりも格段に良くなった。が、さらに完成度を上げるために練習は厳しくいくぞ」
「はい」
翌日。
音楽の佐伯先生に頼んで、昼休みと放課後に音楽室を使わせてもらえることになった。
電子ピアノとグランドピアノでは音の響きが違うから、できるかぎり本番に近い形で練習したい。
「予選通過おめでとう、当馬くん。さすが、神童と言われているだけはあるわね。わたしも会場まで行ったけれど、一般部門であそこまで堂々としていられるなんて」
「……ありがとうございます」
佐伯先生はピアノの蓋を開けて、しわのある手で愛おしそうに鍵盤にふれる。
佐伯先生の目は、ここではないどこか遠くを見ている。
「わたしも若い頃は当馬くんみたいに、コンクールに打ち込んだものだわ」
そこでいったん言葉を切って、僕の方を見る。
「どこまでがんばっても金はとれなくて。しょせんわたしは凡才。同じコンクールに天才が、“あの子”がいるせいで無理なんだと、諦めてしまったのよ。情けない話だけど」
「そんなことは……」
佐伯先生の言葉は、どこか皮肉めいて聞こえる。
僕もコンクールに参加するようになって十年。
最初の数年はよく見た顔が、いつの間にか来なくなったのも一度や二度じゃない。
葉月も途中でピアノを辞めた。
「これから先も神と呼ばれるか、平凡に終わるかはあなた次第よ。羨望とか、妬みとか、見えない重圧が常にかかる。それに打ち勝たないといけないの」
コンクールに出るたびに、言われてきたことだ。
『もてはやされるのは、今だけ』
『音大や留学なんてお金がかかるんだから、諦めるなら今のうちよ』と。
僕のことを心配しているようでいて、諦めろと暗に言っている人がたくさんいた。
でもそんな呪いみたいな言葉を吐く人がいる一方で、光をくれる人もいる。
父さん、母さん、大地先生。
そして、華音。
僕の夢を聞いて、真っ直ぐな瞳で「キョウジならできるよ」と言ってくれた。
だから、僕は舞台に立てる。
「僕は、神童と呼ばれたくてピアノを弾いているんじゃない」
僕が知らないところで、誰かが貼りつけた肩書きに興味はない。
まぶたを閉じれば、応援してくれた人たちの顔が浮かぶ。
「聴いて欲しい人がいるから、弾いているんです」
佐伯先生は大きく目を見開いて、すこしの沈黙のあと口を開いた。
「そうね。……そんな当たり前のことを忘れていたから、評価に固執したから、だからわたしは、あの子に負けたんだわ」
長いため息を吐いて、佐伯先生は晴れやかな顔で笑った。
「がんばってね。あなたなら、全国大会だって乗り越えられるわ」




