memorys,96
新学期が始まり、再び始まった授業の日々。しかし、今までと少し違った景色で新鮮味を感じるのは、きっと自分が新たな挑戦をしようとしている心境の変化からだろうか。本当に自分がモデルとしてステージに立てるのか、そもそもレッスンについていけるのか不安の方が多いけど、今は悩むよりもできるように努力していくしかない。受けるといった以上、立ち向かう以外の選択肢はわたしにはないと心に決めたのだ。
モデルをやると奏に伝えてから、レッスンはすぐ開始された。
しかし、最初に始まったのは歩き方のレッスンのようなモデルらしい内容ではない。ひたすらランニングしたり、担当コーチから指導を受けながらのストレッチや筋トレだった。はじめ、モデルらしい体型づくりのためにしているのかと思っていたのだが、実はそうではないらしい。モデルは体型維持が基本ともされているが、最も大事なのは体力と精神力だと奏は言う。それを養うために今のトレーニングは必須なのだと熱く語られ、初日からなんだか圧倒させられてしまった。
「やっぱり世界が違うなー」
奏は当たり前のように、それを毎日こなす。それは奏にとっては日常で、もう身体に染み付いている。凛とした顔付きで、真剣に向き合う姿は誰が見ても美しかった。
「何が違うって?」
背後から声が掛かり、わたしは慌てて振り向く。わたしの表情を見て、だいたい何を考えていたのか見当がついてしまったようで、奏はおかしそうに笑った。
「あんまり難しく考えたらダメだよ。亜矢には亜矢の良さがあるんだから、わたしや誰かの真似とかしようとしないで自然な姿でやればいいの……自分らしさを最大限に発揮するのがモデルなんだから」
「それが難しいんだよ」
「なにも新しい自分にならなくていいってこと……まあ、初めての経験だから無理もないけどね。でも、きっとステージに立てば世界は広がるよ。だから、先のことは気にしないで、今を楽しんで」
肩を軽く叩かれ、わたしは頷く。
今はトレーニングについていくのが精一杯だから楽しむという余裕は正直ない。けれど、少しずつ出来ないことが出来るようになれば、不安でいっぱいな心も軽くなっていくのだろう。
「そうだよね。今日も張り切ってやらなきゃ!」
「そうそう、笑顔笑顔! 亜矢にはその笑顔があるから自信持ちな」
「ありがとう、奏」
一緒にいいステージにしようと誓い合い、その日もがむしゃらにトレーニングをこなした。
それから何週間が経って、わたしは漸く本格的なモデルレッスンに入っていた。歩き方、ポーズの取り方、衣装を綺麗に見せる仕草。色々なレッスンで四苦八苦しながらも、どんどん本格的になる内容を楽しんでいる自分がいた。はじめは楽しむ余裕などなかったわたしだけれど、今では何か新しいことが増えるたびにヤル気が膨張していく感覚。今では体を動かすことが喜びのように思えるほどだった。
「へぇー、なかなか飲み込みが早いじゃん」
合間の休憩時間にひょっこり顔を出した譲流さんがにこやかに話しかける。
「そんなことないですよ! 先生に注意されっぱなしで」
「亜矢ちゃん、注意されるのは言っただけ君が延びるって分かってるからだよ。あの先生、見込みがない人には何も言わなくなるから」
譲流さんはこっそりコーチを指差し言う。
「そうなんですか?」
「あのコーチ厳しいから途中でリタイヤする子も少なくないんだよ」
確かに指導に熱が入ると鬼の形相になる場面もしばしばあった。何度か怖いと思ったこともあったが、コーチは決して間違ったことは言わない。それが解ってからはさほど恐怖心は感じなくなっていた。
「あれ? 兄貴、また来てたの?」
「ふたりの練習姿が見たくてって言いたいところだけど、今日は亜矢ちゃんに発表があってね」
「発表ですか?」
わたしが首を傾げると、譲流さんはとてもうきうきした様子で上着からスマホを取り出し、わたしの顔へと寄せる。そこには、華やかで美しい着物が映っていた。着物自体あまり縁がなく、浴衣ぐらいしか着てこなかったわたしには着物の凄さはよく分からない。けれど、一瞬で目を奪われるほどそれは綺麗な着物だった。
「すごいですね」
「君がこれを着るんだよ」
「え?」
「当日、これを着て君にランウェイを歩いてもらうから」
「ええっ!? こ、こんなすごい着物をわたしが着るんですか!?」
わたしの驚いた姿を見ていた奏が横からスマホを覗き見る。
「あ、これ……もしかして、兄貴がデザインしてたやつ?」
「え? 譲流さんが?」
見た目はチャラいし、海外では女装をしてまでファッションを学ぼうとする変わり者。しかし、そんな彼が手掛けた着物は繊細な刺繍と少し色っぽさを漂わせる色づかいが妙にマッチした芸術作品のよう。どこか、古風な中に近代さを感じさせるフランスの町並みを連想させた。
「そう、俺が海外をまわりながら考えたやつ。今仕上げしてもらってるから、もう少ししたら袖通ししてみようね」
「こんな素敵な着物、わたしが着てもいいんですか?」
「亜矢ちゃんに着てもらいたいんだ。君にきっとよく似合うよ」
恥ずかしげもなく直球な言葉を投げる譲流さんに照れながらも、わたしは笑顔を向ける。
「着物にがっかりされないように頑張ります!!」
「さすが亜矢!」
「やっぱり君に頼んで正解だったよ。本当に噴水のジンクスには感謝しなくちゃいけないね」
でまかせのジンクスによって導かれた出会い。本当に不思議だけれど、わたしは譲流さんと出会えて良かったと心底思った。