memorys,88
話を終え、白藤さんが冷めた紅茶の入ったカップをトレイに乗せていく。
「さて、そろそろ俺は戻るよ」
「うん」
気持ちもだいぶ落ち着き、わたしは笑顔で頷いた。
「お前はそれでいい。余計なこと考えすぎなんだ……何も気にせず、お前の思った通りの道を行け」
「分かった」
そして、白藤さんが部屋から出ると、そこには神木さんが立っていた。きっと、わたしと白藤さんが話していることを涼華さんから聞いたのだろう。少し心配そうな顔でわたしを見遣る。
「なんだよ、そんなに心配なら入ってくれば良かっただろ」
なんて、軽く皮肉を交えながら笑顔で言う白藤さんに神木さんは少し驚いた顔をした。
「全くお前と亜矢は本当に余計なことばっかり考えて行動に移さないのが悪いとこだって気付けよ」
どこかからかうような口調で言うと、白藤さんは神木さんの背中を思いっきり叩く。かなりの力が籠っていたのか、わたしの耳にもはっきり聞こえるぐらいの音が鳴り響いた。声には出さなかったものの、背中に走る痛みに耐えるように背中を擦る神木さんにわたしは慌てて駆け寄る。
「大丈夫!?」
「大丈夫です」
苦笑いを浮かべる神木さんを見た白藤さんは満足げに笑った。きっと、お互い気まずさが残らないようにわざとこんなことをしたのだろう。それを察したのか、神木さんの表情から不安の色が薄れいくのが分かった。
「そうですね。これからは何があってもお嬢様を……亜矢を守っていきます」
「言っておくけど、俺は亜矢を諦めた訳じゃないからな。また亜矢が傷付くことがあれば今度はお前から奪ってみせる」
「絶対に彼女を傷付けたりしませんのでご安心ください」
「だったら、さっさと屋敷に戻ってこい」
「ええ、分かりました」
ふたりの間にあったわだかまりが嘘のように消え去り、今はなんだか楽しそうに会話している。ずっと、自分の決断でふたりがわたしから離れていってしまう結末ばかりを思い浮かべていた。
「屋敷に帰ってきたら正々堂々お前と戦ってやるよ」
そう言うと、白藤さんはわたしに向けて優しく微笑んだ。
「亜矢もこいつを選んだこと後悔させてやるから覚悟しておけよ」
「うん……分かった。ありがとう、あお兄」
わたしが笑顔で返すと、少しだけほっとしたようにして直ぐ背中を向けた。
「彼には敵いませんね。まだまだ油断できません」
「でも、もう大丈夫だよ」
わたしがきっぱり言い切る姿に、神木さんは目を瞬く。
「だって、お互いの乗り越えなきゃいくべきものが少しだけ分かったから……こんどこそ何があっても戦っていける」
「そうだね」
神木さんは笑顔を向け、そっと伸ばした手をわたしの頬に寄せた。確認するような、懐かしむような手付きで頬を優しく撫でる。
「今度は何があっても逃げ出したりしない。ふたりで必ず乗り越えていこう……そして、幸せを掴もう」
そう言わたと同時に、プロポーズされたことを思い出す。あの時は嬉しさでいっぱいだったが、今思い浮かべると段々照れ臭さが込み上げてきた。彼は冗談やその場の勢いでそんな大それたことを口走る性格ではない。だから、あのプロポーズが本気だと分かっているからこそ、妙な恥じらいを感じてしまうのだ。
「ごめんね」
急に身体中を駆け巡る感情から逃れるように神木さんから視線を外したと同時にそう言われ、わたしは少し焦ってまた顔を戻す。
「このまま一緒に日本に帰ってあげられなくて……また寂しい思いをさせれかもしれないけど、もう少しだけ辛抱してほしい」
「心配しないで、もう寂しいなんて思ったりしないよ!」
頬に触れている神木さんの手に自分の手を重ねる。
「もう不安はないから……笑顔で神木さんが帰ってくるのを待ってる」
「ありがとう、亜矢」
明日にはまた離ればなれになってしまうが、もうあの時とは違って、ふたりの心は繋がっているのだと再確認した。
次の日の朝。
お父さんと涼華さんが出発する時間がやってきた。
「旦那様、出発の準備が完了いたしました」
荷物を車に積み終えた神木さんがホームで待っていたお父さんに声を掛ける。
「ああ、ありがとう」
そう返事を返したお父さんは笑顔で頷く。だけど、やはりどこか寂しそうに映る。
「神木くん、お疲れ様」
お父さんの肩を宥めるように叩きながら、涼華さんがにこやかに神木さんに告げた。
「いろいろ無理をさせてごめんなさいね。後はわたしに任せて」
「え?」
涼華さんの言葉の意図が分からず、神木さんもそれを見ていたわたしも首を傾げた。
「仕事もそんなに残ってないか、後はふたりでなんとかなるわ。だから、あなたはみんなと一緒に日本へ戻ってちょうだい」
いきなりの展開に、わたしだけでなく、陽太さんや暉くんも仰天顔だ。
「嬉しい申し出ではありますが、本当によろしいのですか?」
戸惑い気味に神木さんが言うと、涼華さんは笑顔で“もちろんよ”と答えてから、わたしに顔を向けてウインクをした。これは、早くわたしと神木さんが一緒にいられるように、涼華さんが用意したサプライズだと直感的に察する。
「神木くん、みんなを頼んだわよ。白藤くんもね」
そう明るく告げ、涼華さんとお父さんは車へと向かった。
「ありがとう、お母さん」
行動はいつも予想外のことばかりで驚かせられるけど、本当に頼もしい母親がわたしに居ることがとても誇らしく思えた。




