memorys,85
わたしが言ったことに対して何も返事をしない。それはただ返事に戸惑っているのか、それともあんなことがあって今更だと飽きられたのかは定かではない。けれど、どんな反応をされても今度は逃げたくなかった。
「正直に言います。わたし白藤さんに気持ちが揺らいでいました……本当は昨日、気持ちを伝えようと思ってたんです」
神木さんが居なくなってからたくさん支えてくれた白藤さんを今でも感謝している。初恋の人だったという記憶が蘇り、彼を特別に見るようになったのも事実だ。だから、答えを出そうとした。
「でも、神木さんに会って物凄い罪悪感が襲いました」
神木さんにあんなことを言われたから気持ちが変わったんじゃない。きっと、別れた日からずっと胸のどこかにそれはあった。神木さんが好きだという感情が確かに心奥底に存在し続けていた。けれど、それに気付かないフリをして自分の感情に蓋をしてしまっていたのだ。
だが、所詮はそんなものは誤魔化しに過ぎない。神木さんとの再会で蓋など簡単に開け放たれてしまった。
「わたしはどんなに頑張っても神木さんが忘れられない。けど、本心を言ってしまったら白藤さんを傷付けてしまいそうで怖かったんです」
こんな状況に陥ってしまったのは誰のせいでもない。わたし自身の弱さが招いた結果だ。
そもそも、気持ちを隠したまま白藤さんと付き合ってもいつかは傷付けていただろう。
彼もまた神木さんのように勘が鋭い。わたしの迷いなんて呆気なくばれてしまう。
逃げていたら、結局はふたりを悲しませてしまうんだと彼女のおかげで気付かされた。
「もう逃げたくありません。どんなにずるい人間だって言われても、もう揺るぎません……わたしはどう思われても神木さんがっ……」
今度こそ正直に、素直なまま言えると思っていたのに、神木さんの手がそれを遮る。口に手のひらが寄せられたことに驚いて、わたしは瞬きを繰り返しながら相手を見つめた。
「あなたって人はどうしてひとりで突っ走ってしまうんですか……」
さっきは笑顔だった彼が今度は困ったように項垂れる。
「神木さん?」
「その先の言葉は俺が言わないと意味がないんだ」
久しぶりに聞いた神木さん本来の言葉。それはおかしいぐらいに心を熱くさせる。
「もう何が起きても亜矢を守るって約束する、逃げたりしない……嘘の笑顔だってもうさせたりしない! これからはどんな困難も乗り越えるぐらいに強くなるからっ」
少しだけ神木さんの瞳が潤む。
「亜矢……愛してる」
その一言は大好きよりも感動的だった。泣かないようにひたすら耐えていたのに、もう神木さんがどんな表情をしているのか分からないぐらいに視界が歪んでしまった。溜まった涙は頬を伝うも、次々に溢れ出す。幾度も滴を袖で拭い取りながら、力強く頷いた。
「わたしもっ……」
「きっと俺たちの未来は生半可な覚悟では乗り越えられないぐらいに厳しいものになるかもしれない。それは変わらないし、きっと変えられない……それでも、こんな俺と歩んでくれますか?」
「……っはい」
優しい問いかけに、泣きながら精一杯返事を返す。すると、神木さんは安堵したような笑みを漏らした。そして、神木さんはその場に膝を付き、わたしの手を掬い上げる。何が始まったのか分からず、相手の行動を眺め見守った。
「振られるとばかり思っていたから、なんにも用意してなくて申し訳ないんだけど……今日言いたいんだ」
「なにを?」
そう聞き返すと、神木さんは人前であるにも関わらず、躊躇なくわたしの手の甲にキスを落とす。まるで、幼い頃よく読んでいた童話の王子さまのような行為に一瞬だけ現実を忘れてしまう。いつの間にか自分たちの周りは人だかりができ、誰かが祝福を表すように口笛を鳴らした。
その音をきっかけに我に返ってしまったわたしは、一気に羞恥心が押し寄せてくるの感じ、心の中で悲鳴に近い奇声を発する。あれだけ溢れていた涙が一瞬にして止まった。
「かっ……神木さん!?」
小声で制止を求めようと呼ぶも、まるで聞こえていないように真顔でこちらを見た。その瞳は、どう見てもからかっているという目的は一切感じることのない真剣な色をしている。そんな目で見つめられたら、拒絶すらできない。そして、彼がようやく口を開いた。
「俺はまだまだ未熟な男だけど、これから亜矢と生きるためにどんな努力もする。だから、俺の側にいてほしい」
後ろで噴水の水音が微かに聞こえてくる。だが、次の瞬間にその音も綺麗に消え去った。
「亜矢、俺と結婚しよう」
音が消え去った世界で唯一聞こえる彼の声は鮮明で、体全身に響いた。
「え?」
一瞬冗談かと思った。
聞き間違えただろうかと、彼の瞳を凝視する。迷いはない。
「もちろん今すぐという話じゃない。俺たちの間にある問題を一つ一つ解決して、家族に俺たちのことを認めてもらえたら……時間は掛かるかもしれないけど、一緒に乗り越えていこう」
問題は山積みで、どんなことが待ち受けているかは想像もできない。
だけど、わたしは神木さんと未来を歩いて生きたい。
そう思えるからこそ、返事は自然と口から零れていた。
「はい」
すると、周りで見守っていた人たちが大きな拍手と共に歓声が飛び交う。神木さんはやっと辺りの状況に気が付いた様子で、照れ臭そうにわたしを見て笑った。
そっと繋がれた手の温もりでさえも幸せと感じる今を噛み締めながら、わたしははっきり告げる。
そして、心の中では何度も何度もお礼を言った。
もう会うことのない、わたしの恩人に……