memorys,80
あの日、泣いてばかりだった自分が憎らしいと感じるのは、もう引き返せることのない道を振り返って後悔しているからだろう。きっと神木さんは気が付いているはずだ。わたしと白藤さんの間に何かあったことぐらい彼なら気付かないわけがない。それでも尚、わたしを責めることもせずに自分が悪かったという神木さんに何を言えるだろうか。
あなたを想う気持ちは今も変わっていない。
なんて、簡単には言えない。
感謝して、お互い新しい生活に戻ろう。
なんて、前向きにもなれない。
完全にわたしは行き場を失った。そして、そんなわたしがかろうじて言えたのは、彼に対する謝罪のみだった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい」
神木さんはそっと告げる。
「亜矢は何一つ悪くない」
その言葉を否定するように、わたしは左右に強く首を振った。
「離れてしまったのは俺だから……笑顔で別れを言わせてしまったのは俺が頼りなかったからだ。だから、亜矢が自分を責めるのは間違ってる」
優しくわたしを包んでいた懐かしい温もりがゆっくりと離れていく。
「亜矢が笑顔でいられるなら、俺はなんでも受け入れる。家族に戻りたいと言うなら、また君に執事として尽くす……どんな形であっても君を支え続けるのに変わりはないよ」
そう優しく笑顔で言った神木さんに、わたしは何も返すことができなかった。
「そろそろ戻りましょうか……あまり長く離れると奥様と旦那様が心配してしまいますから」
執事言葉に戻ってしまった彼に手を引かれ、わたしは無言で歩き出す。
「あらあら、どこに行ってたかと思ったらバルコニーへ出てたの?」
神木さんの言っていた通り、居ないわたしを捜していたのか涼華さんが部屋へ戻った瞬間駆け寄ってきた。わたしは何事もなかたっかのように笑顔を作り、涼華さんを見て頷く。しかし、誤魔化しの笑顔だと悟られてしまったのだろうか。一瞬だけ、いつもニコニコしている涼華さんの表情が真顔になる。だが、本当に一瞬のことで、すぐさまいつも通りの笑顔を取り戻していた。
「ずっと寒いところにいたせいかしら? なんだか亜矢ちゃん顔色が悪いわよ?」
「どうかしたんですか?」
離れたところで見ていた陽太さんが不思議そうに近寄ってきて、わたしと神木さんを交互に見つめる。
「な、なんでもないよ」
「久しぶりに神木さんと再会したから話し込んで体が冷えたみたいなの」
「そうだったんですか」
わたしが答える前に涼華さんが簡単に説明してしまう。それに納得したというように相槌する陽太さんではあったが、どこか困ったように眉を下げていた。それが気になりはしたのだが、今は一刻も早くひとりになりたい気分だった。お父さんが白藤さんに何やら指示を出している後姿を見るだけでも心が軋むような鈍い痛みを発する。
「あの……わたし」
「神木さん、主人にわたしも一緒に亜矢ちゃんの部屋で休むと伝えてくれるかしら」
「は、はい……かしこまりました」
わたしの気持ちを察してくれたかのように、涼華さんは素早く部屋から連れ出してくれた。こんな時、やっぱり女の勘というものが働くのだろう。それは有り難くもあり、心強くもあった。
「お母さん、ありがとう」
「何言ってるの。母親が娘を心配するのは当たり前のことよ」
お母さんという存在がいるだけで、こんなにも安心できる。
「ありがとう」
もう一度だけお礼を言うと、涼華さんは優しく微笑んでくれた。
それから部屋へとやって来ても、涼華さんはわたしには何も聞くことなく他愛ない会話を交わす。仕事先でのお父さんのことや昔の陽太さんたちの思出話。それを聞いているうちに、少しずつ気持ちも落ち着き始めた。
「だいぶ顔色が良くなってきたわね」
「お母さんのおかげだよ」
「明日は気晴らしにみんなで観光へ行きましょうか。また親子でショッピングでもしましょう」
「うんっ」
「なら、もう休みましょうか」
ベッドへ横になったわたしの隣に涼華さんも入り込むと、お互い照れ臭さから目が合う度に笑い合う。それを繰り返していくうちに、いつの間にか静寂が訪れる。
そして、夢を見た。
白藤さんと手を繋ぎながら、どこかを散歩している。すると、どこからか神木さんの呼ぶ声が聞こえた。一生懸命探すのに、姿が見えない。不安に駆られたわたしは白藤さんから手を離してしまった。すると、辺りは一気に暗闇に飲み込まれ、白藤さんの姿までもが消えてしまう。神木さんの声も聞こえなくなり、最後にわたしひとりだけが闇の中に取り残されたしまった。
そこで目を覚ますと、隣でまだ眠っている涼華さんが映り込む。それを見つめていると、頬に冷たいものが伝っていくのに気がつく。そこで自分が泣いていることにはじめて気がついた。
怖い。
わたしがどんな選択をしても、ふたりが結局離れていってしまうのではないか。
今見た夢がわたしの未来のような気がして怖くて堪らなくなった。
自分の中にある不安をなんとか拭いさりたくて、寝ている涼華さんのてをそっと握りしめる。だけど、また同じ夢を見てしまいそうでなかなか目を瞑ることが出来なかった。




