memorys,77
自分のすぐ隣に神木さんが立っている光景を懐かしいというよりも、なんだか夢の中にでもいるような不思議な感覚に陥ってしまう。前までは必ず側にいた筈の存在だった。しかし、それもひどく過去のように感じる。神木さんはわたしには視線を向けず、雪の舞う空を見つめながらぽつりぽつりと話し始めた。
「あの日……わたくしの身勝手な考えで別れを決めて、何も言わずにあなたから離れてしまい申し訳ありませんでした。ずっと、そのことを謝りたっかたんです」
神木さんは後悔を滲ませた表情で、わたしに頭を下げる。
「あの時はお嬢様を傷つける結末ばかりが頭の中を過ってしまい、少しでも早く離れた方がいいと決断したことであんな別れ方になってしまいました」
「今なら……」
わたしが発した声に、神木さんはゆっくりと頭を上げ、こちらに目を向けた。
「今なら、神木さんがわたしにしたこと理解できる」
記者がわたしを狙ったことで、執事との恋なんて週刊誌に書かれてしまったら、わたしや家族が自分のせいで苦しむかもしれない。自分が執事をやめなきゃいけなくなるとか、そんな理由からわたしを突き放したわけではないと初めから分かっていた。
けど、分かっていたからこそ、わたしは自分が許せなかった。
「あの時、神木さんに別れたくなんかないって素直に言えなかったことすごく後悔した。そして、さよならも言えないまま離れ離れになったことが本当にショックだった」
「お嬢様」
「……あれはわたしを守るために必死だったから、神木さんなりに考え抜いた精一杯の優しさだったって分かってたよ。だからこそ、何もできなかったわたし自身が一番バカだったって気が付いた。神木さんだけに苦しい決断をさせたのはわたしのせいなの」
「そんなことはっ」
「神木さん、たくさん悩ませてごめんなさい。けど、もう苦しまないでほしいの。神木さんは何も悪くなんてなんだから……わたしのことなんてもう気にしなくて大丈夫だよ」
相手の不安を取り除いてあげたくて、少しでも安心して前へ進めるように背中を押してあげたくて、満面の笑みを向ける。
「また初めからやりなおして、家族に戻ろう……うちにはやっぱり神木さんが居てくれなきゃ、みんな困っちゃうし! それに大切な家族が欠けたままじゃやっぱり家らしくないもん」
何も言い返さず黙ったままでいる神木さんを気にしつつも、話を切り上げるように足を一歩引いて相手から距離を離す。
「そろそろ戻りましょう! ふたりして居なかったらみんな心配しだしそうだから」
そしてくるりと回り、神木さんに背を向けた瞬間だった。不意に冷たい何かがわたしの手に触れる。それが神木さんの手だと気付いた時にはぎゅっと握り締められていた。少しだけ力が加わり、体がほんの僅かに引っ張られる。
「待ってください」
(え?)
「今でも……後悔しています」
さっきまで躊躇いを含んでいた瞳は、もう揺るがないと言いたげなほど真剣な眼差しへと変化していた。
「この3か月、あなたを想わない日はありませんでした」
「神木さん……何を……」
握られた手から逃れようと手を引っ張るも、さらに強く握り返される。あまりにも急な展開に、わたしは出かかった言葉を飲み込んでしまった。
何を言ってるの?
どうして、わたしを引き止めてるの?
次に何を言われるのか考えると怖くて、思いっきり振り払おうと腕に力を込めた時、神木さんの手首を誰かが掴む。
「その手を放して頂けませんか?」
それは、他の誰でもない。白藤さんだった。
神木さんは若干驚愕した瞳で白藤さんを見遣っていたが、何も告げることなくそっとわたしから手を離す。それを見たと同時に、白藤さんは素早くわたしを神木さんから引き離した。
「神木さん、その先の言葉は彼女に言うべきではないと思いますけど……その資格はとっくに捨てたのではないでしょうか?」
鋭い目付きで睨む白藤さんに対し、何かを言いそうになりながらも口を噤んでしまった神木さんをただただ交互に見るしかできない。まさかこんなことになるとは思っておらず、どう対応したらいいのかなんて全く頭に浮かんでこなかった。私が混乱の最中にいると、白藤さんが執事言葉をとって、先ほどよりもやや強めの口調でいい放つ。
「あんたが3か月こいつを想ってきたっていうなら、俺はあんたが消えた3か月こいつを支えてきたつもりだ。その時間がどれだけでかいか、あんたなら理解できるだろ」
言い終えた途端にわたしの肩に手をまわし、強引に引き寄せ歩き出した。
「白藤さんっ」
「ほら、こんなところに長々いたら風邪引くだろ。部屋に戻るぞ」
こんな風になるとは夢にも思ってみなかった。
後ろを振り返ると、俯いたまま立ち竦む神木さんの姿が映る。
再会は急だったけど、会った瞬間は戸惑ったけど、こんな筈じゃなかった。前までは確かに惹かれ合って好きだと伝えた相手なのだ。決して嫌いになったから離れたわけではない。少し気まずくとも時間が経過すれば全部のことがうまくいくとばかり考えていた。そして、白藤さんのことも神木さんに笑って話せる日がいずれ来るだろうなんて思っていた自分がいた。
なんて愚かで浅はかだったのだろう……
どうして自分はまたも庇ってもらって、何も言えず、何にも行動できないのだろうか。
あの時あんなに後悔したのに、ちっとも変っていないじゃないか。
バルコニーから部屋へと戻ってきたわたしの顔はとてもじゃないけど酷かった。笑顔を作れていないのが鏡を見なくても分かってしまうのだ。
それから後の時間、私の記憶はすっぽりと抜け落ちてしまった。