memorys,37
少し消え気味で分かりづらいが、まだなんとか読める程度に形が残されている。
(“A”と“O”……? 白藤さんのイニシャルじゃないんだ)
何かが頭を掠めていく。
(……確か、あの箱にあったのも“O”が付いてて)
白藤さんの持つイニシャル入りのブレスレットが鍵となったかのように、記憶が徐々に蘇りだした。そして、記憶の中の男の子に向かって発した名が声とともに浮かび上がる。
「分かった! “あお兄”だっ!」
自分が作ったブレスレットのイニシャルの意味をようやく思い出し、思わず嬉しさに手を叩く。そんなわたしの視界に、驚いた表情の白藤さんが映った。
「あ、ごめんなさい。白藤さんの持ってるようなイニシャル入りのブレスレットとかをよく子供の頃に好きで作ってたんです」
まだ記憶は曖昧だが、あげた相手は男の子だった。そして、白藤さんのブレスレットと似ているような気がする。
「最近、昔ブレスレットをあげた男の子の名前がなかなか思い出せなかったんですけど……それのおかげでようやく思い出せました!」
なぜか白藤さんがこちらに体を向け、無言のまま近寄ってきた。
(あれ、なんか変なこと言ったかな?)
もしや、怒らせるようなことをしただろうかと不安が過る中、目の前まで来た白藤さんが口を開く。
「どっかで聞いた言葉だとは思ったけど……まさか、また会うとはな」
そう複雑そうながらも笑みを浮かべる相手を見た瞬間に、靄が掛かっていた記憶がまた少しだけ鮮明さを取り戻し、静かに蘇った。
あれは確か9年前。
わたしが8歳の時だった。
場所は家から近くの病院で、この日も病室へ向かうべくビーズケースを抱えながら走る。不意に、病院の敷地内にある庭のベンチに座る、ひとりの少年に目がいった。
理由は思い出せないが、どういう訳かその男の子が気になり、わたしは行く方向を変える。
「ここに座ってもいい?」
学校の制服なのか、ブレザーにネクタイを付け、真面目な顔で本を読む少年に笑顔で尋ねた。一瞬驚きながら辺りを見渡し、少し困った顔をしながら“どうぞ”と呟く。
きっと、他のベンチもたくさんあるのにと思ったのだろう。どこか迷惑そうにしていた。
だが、小学生のわたしに“察する”という考えはなく、躊躇いもなく隣に座る。そのまま持っていたビーズケースを広げ、色を吟味した。
「君……親は?」
不意に掛けられた声に笑顔のまま振り向く。
「いるよ。お父さん」
「どこに?」
「病室だよ。運動会で二人三脚したら転んじゃってね……骨折しちゃったから、お見舞いに来てるの。お父さん、運動音痴なくせに張り切るんだもん」
「そうなんだ……なら、お母さんは?」
「いないよ?」
「仕事行ってるの? なら、お母さんが来てから来ればいい。子供ひとりでうろうろするの危ないだろ?」
わたしを心配してるのか、それとも隣に座られて落ち着かないのか止まない質問。その意図などわたしには分かるわけもなく、ただ素直に受け取り答えた。
「お母さん、病気で死んじゃったから居ないもん」
そう答えた瞬間、気まずそうに少年は顔を背ける。
「……なら、家におばあちゃんとかおじいちゃんとかいるでしょ」
わたしはまたビーズに目を向け、返事する代わりに首を振った。
「なら、家にひとりなわけ?」
「大丈夫だよ。わたし、料理も作れるし……買い物もひとりで行けるよ? あと、隣に住んでるおばちゃんが遊びに来てくれるもん」
また男の子に目を向けてみると、何だか悲しげな表情をしてこちらを見つめている。
「……ねぇ、なんで笑ってんの?」
「え?」
質問の意味がよく分からず、首を傾げてみせた。
「普通お父さん入院してて家に一人ぼっちなんて辛くならない? 辛い時に笑うのは、もっと悲しくならない?」
黙り込んだわたしにマズイと思ったのか、“ごめん”と小さく言う。
「お兄ちゃん、名前教えて?」
「え? ああー、えっと……あおい」
質問に対しての返事でなかった事に戸惑いながら答える少年。名前を聞いたわたしは、なれた手付きでビーズを糸に通していく。
「出来た! はい、あげるね」
「え?」
いきなり手渡されたブレスレットに、きょとんとした顔を浮かべた。そんな少年に、満面の笑みを向けた。
「“あおい”だから“A・O兄”ね!」
「あ、ありがとう」
「それは笑顔になる魔法のお守りだよ。お母さんが言ってたんだ……笑顔で乗り切れば、大きな幸せになって返ってくるんだって。だから辛い時に笑ってなかったら、悲しいままだよ? だから、どうしても辛くなったらブレスレット見てね。お兄ちゃんのこと守ってくれるから!」
「いや、俺辛くないけど……」
苦笑いで答える相手に、また首を傾げる。
「そう? お兄ちゃん、ずっと悲しそうな顔してるよ?」
「そんなことっ」
「これで絶対に笑顔になるからね!」
ガッツポーズをしながら言うと、悲しそうな表情に少しだけ笑顔が宿る。
「変な奴……他人の心配なんて馬鹿だろ。けど、ありがとう」
その声は、最初の時よりも優しかった。
現実に返り、改めて目の前の人物を見遣る。
「白藤さんが“あお兄”?」
「いや、イニシャル見て思い出したなら気付けよ」
いつの間にか嫌味口調が戻った白藤さんの表情がいつもより柔らかく感じた。
「全然気付かなかった。だって小学生の頃だし」
「お前は小学生のまんまだな。行動と発言が変わっていなさ過ぎだ」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですか! 白藤さんの方は変わりすぎなんです!」
つい言い返すと、より穏やかな面持ちになる白藤さんに気付き、なんだか別人を見てるように感じてしまう。
「けど、良かった」
「え?」
「お前が変わってなくて……変わらないお前と再会出来て嬉しいよ」
波の音とともに響く声が、あの時の少年と重なって見えるほど優しさが籠められていた。