memorys,21
家に戻り、一息付く間もなく机に向かう。
「よし、やるか」
だんだんテストの時期も迫ってきた。陽太さんには成績は気にするなとは言われたけれど、これは自分の乗り越えるべき課題でもある。だから、手を抜くわけにはいかなかった。
ペンを握り、問題集を開いた途端にノック音が響く。
「はい?」
そっと開いたドアから顔を現したのは神木さんだった。
「やはり起きておいででしたか……」
わたしが最近夜中も勉強していたことを知っていたようで、微かに呆れたような顔を浮かべる。
「お嬢様、今日はあまり顔色も良くないようですから……一日ぐらいは休まれてはどうですか?」
「けど、全然勉強に追い付けてないんで今は頑張りたいんです! それにわたし全然元気ですからっ」
「ですが」
「わたしの事は気にしないで大丈夫ですよ。そんなに無理してる訳じゃないんで」
そう言って机に向き直ったわたしの横で、神木さんが溜め息を付いたのが聞こえた。
「お嬢様……申し訳ありません」
「え?」
謝罪の言葉が聞こえてきたかと思うと、強制的に椅子の向きを変えられてしまう。気付けば神木さんとまた向き合っていた。
「神木さん?」
何故だか、不機嫌そうな面持ちの相手にわたしは息を飲む。またも、神木さんには珍しい表情に動揺してしまったせいだ。
「あの、どうしたんですか?」
「すみませんが、無礼をします」
神木さんの体が密着するほど近付き、いきなりの展開にわたしは思わず瞼を閉じてしまう。力強く抱き締められたかと思うと、体が一気に浮き上がった。
「えっ!?」
目を開けると、間近に神木さんの顔が映る。
「あのっ……え?」
なぜ自分が今、抱き上げられているのか分からず、状況を理解するよりも先に相手が動く。わたしを持ち上げたまま歩き出したかと思えば、ベッドへと一気に落とされた。
「何が元気なんですか……わたくしが存じてないと思ったんですか? 最近のあなたの睡眠時間は二時間弱。それも毎日……そんな無茶をしているのに放っておけますか?」
わたしが起き上がれないように、手首を強く布団に押し付けられる。
「今日はこのまま寝てください……よろしいですね?」
「でも、あの……次のテストまでには結果を出したいんです。これは朝比奈の名前とか関係なくて、自分のためで……だから、神木さんの言うことも分かるけど聞けませんっ」
何を言われても譲らないわたしを見て、また深い溜め息を零した。そして、少しだけ考え込んだように黙り込む。目線は重なったままで、わたしは僅かな呼吸しか出来ずにいた。
それもそうだ。今、神木さんに押し倒されたような状態。こんな状況の中、冷静でいられる筈はない。
「では、こうしましょう」
ようやく神木さんの顔に笑顔が戻る。
「お嬢様レッスンも終わりましたし……その時間を次は勉強時間にしましょう。それなら睡眠時間は確保可能な筈です」
確かに、そうすれば本当はいいのだけれど、大学レベルに追い付くためにはまだまだ先は長い。現実的に考えれば、睡眠時間をつくることすらしたくないほど、わたしのレベルは低かった。
僅かな時間すら今は惜しい。
自分の提案に難しい顔をしたわたしに、また神木さんは言葉を足す。
「わたくしが家庭教師をするならばどうでしょうか? それなら、効率も上がると思います」
「教えてくれるんですか?」
「お嬢様が望むなら、わたくしはいくらでもお手伝い致します。ですから、睡眠時間は大事になさってください……あなたにもしもの事が起きたら、旦那様たちが悲しみます」
「神木さんも?」
「ええ……だから、こうして無礼と知りながら説得しているんです」
これが“執事”として仕方なく言っている事だったとしても、ひどく胸が高鳴り、心揺さぶられた。
「分かりました。神木さんの言う通りにします」
「それでは約束ですよ」
「はい」
しかし、いつになっても神木さんが体を退かそうとする気配がない。
「あの、もしかして寝るまでこのままですか?」
「大変失礼致しました」
そこでやっと抑えた手を離すも、やはりベッドの上に座り、そこから動こうとしなかった。明らかに寝るまで居るつもりだと察する。
「わたしって信用ないですか?」
「お嬢様は頑張りすぎる面がございますから。今日だけは見届けたいんです……あなたが眠るのを見たら戻りますので」
そうは言われても、これは違う意味で眠れません。そう心の中で呟く。
「神木さんが寝るの遅くなっちゃいますよ?」
「構いません。今日だけですから」
遠退いたと思えば、急に縮まる距離感に戸惑ってしまう。それが切なくもあり、嬉しくもなる。
(もう、訳が分かんない……)
わたしは堪えられずに、布団の中へ潜り込んだ。
「おやすみなさい!」
「おやすみなさいませ」
神木さんの存在を感じながら、無理矢理眠りへ付く。
「いい夢を……」
その囁きに、また胸が跳ねる。
(これも執事として……なのかな?)
僅かな疑問が頭に浮かぶも、いつの間にか思考が働かなくなっていった。だいぶ無理をしたせいか、こんな状況なのに睡魔が押し寄せる。
不意に、手の上に暖かな温もりが伝わってきた。
(神木さん?)
瞼が重くなって開けられない。
今、神木さんがどんな顔でわたしを見ているのか分からないまま、その夜は深い眠りへと落ちていった。




