memorys,15
「では、準備はよろしいでしょうか?」
神木さんの言葉に、わたしは俯きながら“はい”とだけ答える。目の前には、光沢ある赤いリボンが揺れていた。それを見つめながら、心の中で叫ぶ。
(準備よろしくないですっ!!)
右手は優しく包まれるように握られ、左脇の下辺りを軽く支えられる。吐息が聞こえそうな至近距離で、わたしはぎこちなく相手の左肩に手を乗せた。
「では、始めます……本でステップの基礎は見ましたか?」
「はい。少しだけ」
「まず、お嬢様は右、左、右と後ろに……」
よくテレビか何かで社交ダンスを踊っている様子を目にしたことがあったが、この距離感に慣れないわたしには“かなり”と言っていいほどの緊張を伴う。
神木さん相手にこれほど戸惑うのだから、全く知らない人と踊るなんて出来るのだろうかと更なる不安が押し寄せた。
(まずは落ち着こう)
テラスで見ていたステップの基礎を思い出しながら足元を目で追っていると、急に神木さんの足が止まる。
「お嬢様……失礼ながら、ダンスの基本はステップの正確性ではありません。相手の目を見て、呼吸を合わせる事にございます」
「けど……」
「まだ初日です。失敗は付き物ですから、大丈夫です……それに足元ばかり見てはダンスも楽しめませんよ」
上を向けないのは、それが理由ではない。しかし、これではレッスンをしてくれている神木さんに失礼だと、わたしは思い切って顔を上げた。
あと数センチで触れられる距離で交わる視線。急に神木さんに抱き締められた日を思い出してしまい、動揺から足元が縺れ、バランスを失った体は後ろへと傾いていった。
(倒れる!)
倒れる衝撃を覚悟し、目を瞑る。
しかし、一気に力強く体が宙に浮くように持ち上げられ、驚き目を見開く。そこには先程よりも近い距離に神木さんの顔があった。
「あっ」
わたしが僅かに声を漏らした瞬間に、神木さんの頬が一気に赤へと染まる。
「だ、大丈夫ですか?」
躊躇い気味に発した神木さんの言葉に、自分までも顔が火照っていった。
「はいっ……ごめんなさい」
「いえ」
体を離し、何故か気まずい雰囲気になってしまう。心臓が痛いくらいに音を刻み、また相手から目を逸らした。
(違う違う……これはただビックリしただけだから! 家族相手に動揺したら駄目でしょっ)
自分に言い聞かせるように心で繰り返す。
神木さんは“家族”。
動揺するほどの事ではない。
「ダンスの曲でも流しましょうか。曲に合わせた方が踊りやすいかもしれません」
神木さんもまた普段の執事スマイルに戻っている。わたしは呼吸を落ち着かせ、なんとか笑顔を取り戻した。
「はいっ」
「曲を覚えれば、自然に体も動きやすくなりますからね……まずは聞きましょう」
広いホールにある大きなオーディオを操作すると、壁にあるスピーカーから軽やかなテンポの曲が流れ出す。
「ある程度、定番曲を覚えておけば本番も大丈夫だと思います」
そう言いながら、次に掛ける曲を選ぶ神木さんを見て、わたしは“言うべき事”があるのを思い出した。
(そうだ、今なら)
「神木さん?」
「はい」
「言うのが遅くなってしまったんですけど……ありがとうございました」
なんの事を言われているのか気付いていないらしく、神木さんはきょとんと目を丸くした。
「“ただいま”の話を陽太さん達にしてくれたれたんですよね」
「あっ」
「みんながわたしを受け入れてくれるきっかけを作ってくれたのは神木さんなんでしょ?」
「申し訳ありません……勝手にお嬢様の事を話してしまいました」
「謝らないで下さい! 神木さんのおかげで陽太さんや暉くんと仲良くなれました。神木さんには感謝してるんです」
わたしは隠し持っていたアレを神木さんに差し出す。
「遅くなりました……よかったら、受け取ってください」
「もしかして、あの時言っていた?」
「はいっ」
差し出された神木さんの手のひらに、そっと乗せる。青色のグラデーションをした紐状のビーズの一番下には金色のイニシャル“M・K”がキラキラと光っていた。
「これはキーホルダーではないんですね」
キーホルダーの金具ではなく、何かに挟めるようなクリップが付いているのに気付き、神木さんは不思議そうに見つめた。
「神木さん、いつも手帳を持ち歩いてるみたいだったから……栞として使ってください」
「なるほど、栞でございましたか。本当にわたくしが頂いてもよろしいのですか?」
「もちろんです。神木さんのために作ったんですから、貰ってもらえると嬉しいです」
「お嬢様ありがとうございます。大切に致しますね」
神木さんが照れ臭そうにふんわりと柔らかく笑う。
その笑顔はいつもの“執事スマイル”とは全然違って、神木さん本来の素顔のように思えた。
「どう……いたしまして」
いつにも増して騒ぎ始める心臓に思わず手を当てる。
……あれ?
(なんで、こんなにっ)
呼吸が止まるように、胸が苦しい。
頭に熱が籠り、クラクラする。
どうして神木さんの笑顔を見ただけで、こんなにも心落ち着かなくなるんだろうか。
「では、もう一度……わたくしと踊って頂けますか?」
再び差し伸べられた手に、少しだけ躊躇しながらも自分の手を重ねる。
触れるだけで、目を合わせるだけで、身全体が緊張して僅かに震えた。けど、その緊張感が心地よくも感じてしまう。
「はい……喜んで」
部屋中に流れる音楽に身を委ね、わたし達は再びぎこちないステップを踏み始めたのだった。
次回、第2章になります!
兄弟との新たな進展
執事との関係は変わっていくのか?
どうぞ、良ければ続きも
よろしくお願いいたしますm(_ _)m