プロローグ
教室の窓から見える空は、曇り空。
今の俺の気持ちみたいに、どんよりとしている。
「◾️◾️ー◾️◾️◾️!」
生徒に囲まれた中心で、俺ともう一人が対峙している。
周りに何人の生徒がいようと構わず、俺を嘲笑うように言い放ってくる。
何を言っているのかは聞き取れないが、罵倒しているのだけは確かだ。
「◾️◾️って◾️ー◾️◾️ーだ!」
あぁ……気持ちが悪い。
周りでいくつもの視線が、俺に突き刺さる。
やめてくれ……胸が苦しい……。
ピロリロリロ、ピロリロリロ……
遠くで、いつものスマホのアラーム音が鳴っている。
どろりとした水底から引き上げられるように次第に意識が浮上し、重い目を開けると、そこにあるのはいつもの見慣れた自室の天井だった。
それを確認して、ようやく少しだけ張り詰めていた気持ちが落ち着く。
「……久しぶりに見たな、最悪の夢」
部屋の外に聞こえないよう小さくつぶやきながら起き上がると、パジャマが汗でびっしょりと濡れていて、ひやりとした寒さを感じた。
鏡を見なくても、今の自分の顔がどれだけ暗く沈んでいるか、容易に想像がつく。
(このまま部屋を出たら、あいつに心配されるな)
俺は左耳のピアスを指でなぞりながら、深く呼吸を整える。
ざわつく心を落ち着かせるための、いつものルーティン
指先に伝わるシルバーの冷たい感触が心地よい。
(うじうじ引きずっても仕方ない。起きて支度しよう)
制服に着替え、簡単に寝ぐせを直してからリビングのドアを開ける。
すると、そこには金色を帯びた亜麻色の髪をした少女が、キッチンに立って朝食の準備をしてくれていた。
「身長がもう少し欲しいです」と本人は気にしていたが、制服の上にエプロンを着けている小柄な後ろ姿は、いつ見ても様になっている。
料理の邪魔にならないよう、長い髪をポニーテールにまとめているのも個人的にポイントが高い。
そう内心で感心しながら、俺は夢見の悪さを悟られないよう、テンションを無理やり一段階上げて声をかけた。
「おはよう、瀬那」
「あっ、おはようございます、朔也くん」
瀬那はパタパタと手を止め、こちらを振り返ってふわりと柔らかく笑いかけてくる。その笑顔を見ただけで、胸の奥にこびりついていた黒い靄が少しだけ晴れた気がした。
俺はいつものように「顔洗ってくるから、ちょい待ちを」と軽く手を挙げ、キッチンを横切ろうとした。その時だった。
俺の袖口を、小さな手が優しく掴んだ。
「大丈夫ですか? なんだか……顔色、悪いですよ?」
上目遣いの琥珀色の瞳が、ひどく心配そうに俺を見つめてくる。
どうやら、俺の薄っぺらいポーカーフェイスは完全に失敗だったらしい。
胸の奥に、まだほんの少しだけ残っている悪夢の感覚。
それを、この才女にはあっさりと見抜かれてしまったようだ。
ここで適当に否定しても、彼女が引き下がらないのは目に見えている。
そう観念した俺は、少しだけ言葉をぼかしながら白状した。
「……夢見が悪くてさ。ちょっと気分が落ちてただけだ」
「……お体のしんどさはどうですか?」
「大丈夫。それはないよ」
「……本当に?」
じっと射抜くような、真っ直ぐな視線。この琥珀色の瞳からは絶対に逃げられないと、俺の直感が激しく告げている。
沈黙が、じわじわと俺の退路を塞いでいく。
やがて彼女は、花が綻ぶような、けれどどこか『絶対に逃がさない』という強い意思を感じさせる笑みを浮かべた。
「……(ニコッ)」
その無言の圧力に、俺はあっさりと白旗を上げた。
学年一の美人が本気を出した笑顔の圧力。
――控えめに言って、怖い。
「……すみません、少しだけ、引きずってます」
「正直でよろしいです」
瀬那は満足げにコクリと頷くと、トン、と一歩距離を詰めてきた。
そして、戸惑う俺の背中にそっと細い腕を回し、優しく包み込むように抱きしめてきた。鼻先をくすぐる柔軟剤の淡い香りと、制服越しに伝わってくる彼女の温かい体温が、俺の中に残っていた悪夢の残滓を跡形もなく溶かしていく。
「まったく……」
呆れたような、けれど酷く慈しむような甘い溜息が耳元で跳ねた。
「朔也くんが弱みを見せたくないのはわかりますけど。でも……私の前くらいは、どうか無理しないでください」
少しだけ拗ねたような口調。けれど、俺の背中をトントンと撫でるその手のひらは、どこまでも甘く優しかった。
「……ごめん」
「ごめん、じゃないでしょ?」
「……ありがとう、瀬那」
◇
身支度を終えた俺は、瀬那が作ってくれた朝食を並べ、テレビの音をBGMに二人で食卓を囲む。起き抜けは少しごたついたが、今はいつもの平穏な時間だ。
食パンに目玉焼き、少量のサラダと牛乳。よくある朝食だ。
「うん、今日もおいしいね」
「ふふ、よかったです」
パンをかじりながらテレビの音を聞いていると、夏休み特集が始まったようだ。
「もう少しで夏休みですね」
「無事に期末テストも終わったしな。高校に入学してからの約四か月、色々あったせいか、もう夏休みって感じがするよ」
「そうですね。私としては、高校生になってすぐ、誰かと二人暮らしをするなんて思いませんでした」
「それは俺もだよ」
苦笑しながら、少し前のことを思い出す。この同居生活も、もう二か月くらいになるのか。早いものだ。
◇◇◇◇◇
― 二か月前 ―
「何しているんだ。そんな荷物もって、こんなところで」
「……気にしないでください」
夜。
コンビニの帰りに公園の前を通りかかった俺は、最近知り合った少女に声をかけていた。




