## 第6話 逃げ道の価値
トーマを正式に戦力として数えた最初の検証は、かなり危ない橋だった。
「確認するけど」
中ボス部屋の手前、湿った壁にもたれながらトーマが言う。
「今回は倒さないんだよな?」
「倒せる形なら倒す」
「それ、確認になってない」
ミツキが苦笑した。
「大丈夫。今のナギの顔、まだ“取りに行く顔”じゃなくて“覗きに行く顔”だから」
「そんな違い分かるのか」
「分かるようになってきた」
ありがたいような、ありがたくないような話だ。
俺たちは部屋へ入る前に役割をはっきりさせた。
ミツキは中央の石床を維持する。格子には乗らない。
トーマは右側の古い水門へ近い位置で待機し、俺の合図でロープを引く。
俺は左壁沿いから誘音石と重り袋を投げて、ブルードモールの向きだけを見る。
勝つための手順じゃない。
逃げ道を見るための手順だ。
「ナギ」
ミツキが盾を構えながら小さく呼ぶ。
「もし危なくなったら、今日はちゃんと逃げるよね」
「逃げる」
「即答だ」
「勝てないなら帰る。勝ちたいならなおさら」
ミツキは満足したように頷いた。
部屋へ踏み込む。
《濁爪のブルードモール》は前回と同じく、中央の濁った流路から出てきた。泥を散らし、前脚を広げ、最初にミツキを向く。
「ここまでは前と同じ」
俺は左壁を走らず、静かに沿う。ミツキは石床で盾を打つ。
トーマは動かない。
ブルードモールの頭が揺れる。石床の重い一歩、盾の衝撃、浅瀬の細かな揺れ。どこまで取っているかを見ながら、俺は誘音石を右奥の細い流路へ投げた。
ちん、ちん。
耳がそちらへ向く。
だが、突進までは変わらない。
「トーマ、水門」
「了解」
ロープが引かれ、右側の古い水門が軋みながら少しだけ上がる。ごご、と流れが変わる音。
その瞬間、ブルードモールの前脚が止まった。
「……止まった!」
ミツキの声が跳ねる。
中ボスは一瞬だけ俺たちを忘れたように、右側へ鼻先を向けた。水の流れが変わった流路、開いた隙間、その先の細い暗がりを確かめるように、低く唸る。
そこで俺は重り袋を右奥の格子へ投げた。がん、と重い音。
ブルードモールが走る。
ただし、俺たちへではない。
右奥の流路へだ。
「当たりだ」
思わず口の端が上がる。
追跡より先に、逃げ道の更新へ反応した。
ミツキがすぐさま一撃を入れるが、深追いしない。俺がそう言う前に、彼女は石床へ戻っている。ありがたい。
「次! 閉めてみる!」
トーマが再びロープを引く。水門が半分だけ下がる。流れが鈍る。
ブルードモールは流路の入口で止まり、頭を左右へ振った。そのまま中へは入らない。代わりに一度振り返り、今度は中央の浅瀬を強く蹴ってくる。
「戻る!」
俺たちは即座に下がる。
突進は浅瀬寄り。石床ではなく、水気の多いラインを選んでいた。
「右が閉じたから?」
ミツキが下がりながら叫ぶ。
「たぶん。少なくとも開いたままのときとは違う」
距離を取りながら、今度は左の水門を少しだけ動かす。こちらは中央寄り。音は同じでも、ブルードモールの反応が微妙に鈍い。
「左右差もあるな」
「ホームに近いのが右なんじゃないか?」
トーマの推測は妥当だった。
ブルードモールは右奥の流路を、他の場所より強く見る。巣穴か、退避路か、あるいはそれに近いルート設定がある。
それを見せるのに、今日の検証は十分だった。
だが、退こうとしたところで、少し欲が出た。
「ナギ?」
「最後に一個だけ」
「その言い方、危ないやつ」
分かっている。
それでも必要だった。
俺は壁際から一歩出て、マーカーボルトをブルードモールの肩口へ打った。弱いダメージと青い印。
中ボスがこっちを向く。
そこで俺は格子へは乗らず、石床から右奥流路の入口へ重り袋を転がした。
がん、ちゃぽん。
ブルードモールの鼻先が、俺と重り袋の間で揺れる。
そのあと、俺ではなく流路へ走った。
やっぱりだ。
攻撃対象の評価より、退路の評価が勝つ瞬間がある。
「戻る! 十分だ!」
俺が叫ぶと、三人で入口側へ引いた。
ブルードモールは少しだけ追って、それから部屋の中央で止まる。右奥流路を一度見て、ゆっくり戻っていった。
最短距離ではない。
中央の浅瀬を避けるように、右側の細い水筋をなぞる。
完全に帰り道を選んでいる。
部屋の外まで逃げ切ってから、トーマが息を吐いた。
「……なるほどな。戦闘中にも、“帰る先”があるわけか」
「うん」
「普通、ボスって“暴れる”ものだと思ってた」
ミツキが壁へ盾を預ける。
「でもこいつ、暴れる前に進路を考えてる」
「だからタンクが外れる」
俺はメモへ一気に書き込んだ。
《濁爪のブルードモール》
・格子振動に強反応
・浅瀬移動は追尾持続が長い
・水門操作に反応
・右奥流路を退路候補として高評価
・一部条件下では攻撃対象評価より退路評価が優先
ここまで来れば、攻略の形が見え始める。
ミツキが俺の手元を覗き込んだ。
「つまり?」
「正面から受けるんじゃなくて、右へ行きたがる瞬間を作る」
「で、そこを叩く」
「そう」
「罠っぽくなってきたな」
トーマが楽しそうに言う。
「好きだぞ、そういうの」
「俺も」
ただし、まだ一つだけ気になることがある。
最初の突進の逸れ方だ。
退路更新で説明できる場面もあるが、前回野良と入ったときの“最初の一撃”には、まだ別の要素が残っている。
格子、浅瀬、退路。
ここまでは見えた。
だが、もう一つ。
あの中ボスが、完全な盲目ではないなら。
視覚の残りかすのようなものが、別条件で混ざっている。
「今日は終わり?」
ミツキが聞く。
「いや」
俺は首を振った。
「あと一回だけ、形にして試す」
「倒すやつ?」
「半分だけ」
ミツキとトーマが顔を見合わせた。
「半分だけ倒すって何だよ」
「仮説が合ってるところまで進める」
「やっぱり言ってること変だな」
トーマは笑ったが、断りはしなかった。
いい。
次は、勝ち筋に近い失敗を取りに行ける。
その前に、俺たちは少しだけ休憩を取った。
排水路の入口脇にある古いベンチへ腰掛け、トーマが買ってきた安い水袋を回す。ゲーム内の水分補給に実際の意味が大きくあるわけじゃないが、こういう一拍は頭を整える。
「半分だけ倒す、ね」
トーマがまだ面白そうに繰り返した。
「普通、“どこまでやれたら成功”って考え方するか?」
「する」
俺は即答した。
「最後まで行くかどうかは、その手前が再現できるかにかかってる」
「再現」
「たとえば今回なら、右奥へ流して横を向かせるところまでが再現できれば、それだけで大きい。逆に、そこが運なら、最後まで行けても次は使えない」
ミツキがベンチの端で頷く。
「何か、だんだん分かってきたかも。ナギって、勝つことより“次も同じように勝てること”のほうが大事なんだ」
「そのほうが強いから」
「配信者っぽくないなあ」
「配信してないし」
「それもそう」
笑いがこぼれる。
こういう短い緩みも必要だった。検証だけで張り詰め続けると、見えるものまで硬くなる。
休憩のあと、俺は立ち上がった。
「行こう」
「うん」
「次は、失敗しても形だけは取る」
それが、この段階で一番大事な目標だった。
部屋を出たあと、俺たちは右奥流路の話を何度も繰り返した。
「行けるかどうかより、“行けると思ってるかどうか”のほうが大事なんだな」
トーマが言う。
「そうだと思う」
「それって、ちょっと人間っぽい」
「敵AIだって、判断の材料は持ってる」
ミツキが腕を組んだ。
「じゃあ次は、その“行けると思わせる”を作ればいいんだ」
「うん」
「私、こういうの好きかも。力押しじゃなくて、相手の考え方をずらして勝つ感じ」
その感覚は、たぶんこの作品の核に近い。
強い攻撃を通すより前に、相手が強い攻撃を通せない盤面を作る。
そこまで持っていければ、低火力でも勝ち筋になる。
安全地帯へ戻ってから、俺たちは石段の端で簡単な作戦図を描き直した。
中央石床。
右奥流路。
水門の位置。
ブルードモールが右へ向いたタイミング。
戻るときに選んだ水筋。
ミツキは図の真ん中に小さく丸を描きながら言う。
「今まで私、敵の真正面に立つことしか考えてなかったけど」
「うん」
「このボス相手だと、真正面より“どっちへ行かせるかの基準点”になるほうが仕事っぽい」
その理解はかなり大きい。
タンク役が、ただ殴られる係ではなく、敵の判断基準の一つになる。
そう考えられるようになると、立ち位置の意味が一気に変わる。
「正面で固定じゃなくて、右へ流すための前」
「そう」
「ちょっと面白いな」
ミツキは悔しさと嬉しさが混ざったような顔で笑った。
トーマも図をのぞき込みながら続ける。
「俺の役割も分かりやすい。殴るんじゃなくて、退路に“まだ行けそう”って錯覚を足す」
「その言い方、かなり近い」
「褒められると調子乗るぞ」
「乗っていい。次もその調子で」
三人の役割が、ようやく“低火力の寄せ集め”じゃなく、一つの手順として見え始めていた。
俺は最後にメモへ太字のつもりで一行だけ書いた。
《重要》
・ブルードモールは退路評価を戦闘中にも更新する
この一文があるだけで、戦い方はかなり変わる。
ただ受けるんじゃない。ただ削るんじゃない。
帰り道を読ませて、その途中で殴る。
初心者ダンジョンの中ボスにしては、ずいぶん面倒くさい。
でも、だからこそ攻略しがいがあった。
休憩を挟んでから、俺は一度だけ右奥流路の方向を見た。
まだ戦っていないのに、もう“帰り道”として印象に残っている。
それ自体が面白かった。敵の強い攻撃より、敵がどこへ戻りたがるかのほうが、こちらの頭に強く残っているのだ。
「ナギ」
「うん」
「次、もし本当に右へ行かせられるなら」
ミツキが石段の縁に座ったまま言う。
「私、あそこでちゃんと一発だけ入れて戻る」
「それで十分」
「十分、か」
彼女はその言葉を少し噛みしめるように繰り返した。
今までの彼女なら、“もっと受ける”“もっと削る”を求めていたかもしれない。
でも今回は違う。一発だけで十分。その認識を役割として受け入れられるなら、次の作戦はかなり安定する。
トーマも笑って肩を回す。
「じゃあ俺も、派手な武器作るより細い板と重り袋のほうが仕事だな」
「かなり」
「生産職冥利に尽きるかは微妙だけど、面白いからいいや」
三人とも、やることがだいぶはっきりしてきた。
勝てるかどうかはまだ別だが、“何をすれば勝ちに近づくか”はかなり見えている。
そこまで来ているなら、次の失敗はたぶんもっと価値が高い。
ミツキは図の右端に、自分の踏み込み線と戻り線を小さく書き足した。
「ここで入って、ここで戻る」
「いいと思う」
「退路を読む敵なら、こっちも帰り方まで含めて前に立たないとね」
その理解があるなら十分だった。
次は、ただ受けるんじゃなく、敵の帰り道へ合わせて前を作れる。
ミツキはそこで、右奥流路の図へ小さく印をつけた。
「ここ、私の一歩目」
「うん」
「で、ここが戻る線」
重装の彼女が、自分で“戻り線”まで意識し始めているのは大きい。
盾役が攻撃より先に帰り方を考えるのは、普通の感覚だと変に見えるかもしれない。
でも相手が退路を読むなら、こちらもそうしたほうがいい。
俺はその線を見ながら、小さく頷いた。
次はかなり面白くなる気がしていた。
俺もその横へ、小さく補足を書いた。
《次に見ること》
・右奥流路へ入る瞬間の頭の向き
・水門開閉と戻り線の変化
・一撃後に退路評価が残るかどうか
こうして見る項目を絞れる時点で、もう単なる手探りではない。
半分くらいは、こちらのゲームになり始めていた。
敵の強みへ付き合うんじゃなく、敵の帰り道ごと使う。
そこまで行ければ、低火力でも十分に戦術になる。




