## 第1話 産廃ビルドの初日
サービス開始から二十五分。
初心者用の《灰耳ラビット》が、倒れたはずの《灰尾コヨーテ》の退路をなぞって逃げた。
その瞬間、俺はレベル上げをやめた。
始まりの街トランから徒歩三分の灰枝の森で、レベル三のプレイヤーたちが次々と《灰耳ラビット》を狩っていくなか、俺はまだ十二匹目の観察をしている。
倒すためじゃない。
あの逃げ方が、偶然か仕様かを確かめるためだ。
「……右耳が先。視線を切ってから一・三秒で跳躍。逃走方向は最短距離じゃなくて、開けたほう」
しゃがみ込んだまま小さくつぶやく。視界の端で、半透明のメモウィンドウが開いた。
《灰耳ラビット》
・正面視認距離:おおよそ九メートル
・真後ろからの接近:五メートルまで無反応
・茂み越しの視認:反応低下あり
・逃走開始までの間:一・三秒前後
・逃走先選択:最短ではなく開けた方向を優先
「……よし」
記録を閉じる。ラビットはこちらを見ていない。右耳だけをぴくぴく動かし、草を食んでいる。
俺は腰のポーチから小さな黒い石を取り出した。初期スキル《誘音石》。投げた先で短い金属音を一定間隔で鳴らすだけの、初心者向けの地味な補助具だ。
サービス開始前の掲示板で、これを見たプレイヤーたちは口をそろえて言っていた。
『弱い』
『火力ゼロ』
『序盤で取る意味ない』
『配信映えもしない産廃』
全部、その通りだと思う。
火力がない。
派手さもない。
序盤の狩り効率だけ見れば、産廃判定はだいたい正しい。
ただし、俺が欲しいのは序盤狩りの効率じゃない。
俺の初期構成は、短弩、マーカーボルト、誘音石、細線アンカー、粉塵散布、ショートステップ。
ダメージスキルらしいダメージスキルは、弱い通常射撃と、印を付けるだけのマーカーボルトくらいだ。
けれど、《Faultline Online》の売り文句が本当なら、火力より先に確かめるべきものがある。
敵AIの挙動だ。
このゲームは「環境反応型AI」を大きく宣伝していた。
視線、音、距離、地形、遮蔽物、足場、隊列、夜間光源、そして他個体との連携。そこまで見るなら、敵はただのサンドバッグじゃない。半分くらいは盤面だ。
なら、レベルを上げる前に盤面を読む。
誰より早く強くなるより、誰も見ていないルールを先に見つけたい。
それが俺の初日の方針だった。
誘音石をラビットの左斜め後ろへ軽く投げる。
ちん、と乾いた音。
ラビットの耳が立った。正面からではなく、耳だけが先に動く。首が回る。体はまだ逃げない。そこで俺は短弩を構え、マーカーボルトをラビットの胴に打ち込んだ。
小さなダメージ。
そして青い印。
ラビットはびくりと体を震わせ、俺ではなく音のした方向へ跳んだ。次に視線を切るように茂みの陰へ入り、そこでようやくこちらに気付いて進路を変える。
「やっぱり、初動は被弾方向より音優先」
もう一度メモに追記する。
この程度の情報が何になる、と普通は思うだろう。
俺も他のゲームならそう思う。
でも、敵が複数になった瞬間、どの情報を優先して行動を切り替えるかは、そのまま攻略の土台になる。
たとえば、向こうの茂みで低い唸り声がした。
《灰尾コヨーテ》が二体。
初心者向けフィールドではそこそこ危険な群れだ。単体なら対処できるが、視線が通ったまま二秒以上経つと近くの個体を呼ぶ。しかも走りながら斜めに広がって包む癖がある。
俺はあえて立ち上がり、片方にだけ姿を見せた。
一体の耳が立つ。首が向く。もう一体はまだ反応していない。
「一、二……」
呼ぶ。
その前に、ショートステップで横の倒木の陰へ滑る。視線が切れた瞬間、先頭のコヨーテは前足を止めた。呼び声は上がらない。
確認済みだ。
あいつらは視界に捕らえたまま二秒ちょっとで仲間を呼ぶ。逆に言えば、その前に切れば連携は起きない。
俺は倒木の影からもう一度だけ顔を出し、今度はコヨーテの前方へ誘音石を投げた。ちん、ちん、と二度鳴る。
コヨーテは俺ではなく、音の先へ跳んだ。
そこで短弩を一発。
続けて細線アンカーを木の根に引っかける。
先頭が足を取られて体勢を崩し、後ろの一体が避けようとして速度を落とす。その間に距離を取って、ラビット用に調べていた開けた地形へ誘導する。茂みが少ないから、視線の出入りをこちらで管理しやすい。
正面から殴り合えば、俺のビルドは弱い。
でも、見せるものと見せないものを調整できる状況なら、話は別だ。
「よし、来い」
コヨーテ一体目を射って、すぐ下がる。
もう一体はまだ呼んでいない。視線が切れた時間が長いからだ。
そのとき、森の奥から女の声が上がった。
「ちょ、うそっ、二体来たって! さっき一体だったよね!?」
見ると、塔のような大盾を持ったプレイヤーが、斜面の下から走ってきていた。銀色の短髪。装備は重め。たぶんガーディアン系だ。
後ろにはコヨーテが二体。いや、三体目が横から回っている。
まずい。
あのまま坂を駆け上がると、開けた場所に出る前に左右から噛まれる。
「左に倒れろ!」
「は!?」
「いいから!」
反射的に怒鳴る。彼女は半歩だけ迷って、それでも盾を抱えたまま左へ転がった。直後に右から回っていた三体目が、空振りする。
俺は空いた進路へ誘音石を二つ続けて投げた。一つは坂の途中の岩に、もう一つは少し先の茂みへ。短い金属音がずれて鳴る。
先頭のコヨーテが岩へ振れた瞬間、マーカーボルトを鼻先へ打つ。
青い印。
そこへ細線アンカー。
岩と立木の間、コヨーテの胸の高さより低い位置へ張った線が、ちょうど突っ込んできた一体の前脚を払った。
転ぶ。
後続が詰まる。
「そのまま伏せてろ! 盾は立てるな!」
大盾は目立つ。視線を集めるし、森では引っかかる。
彼女が歯を食いしばって従うのを確認し、俺は斜面を横切るように移動した。正面ではなく、群れの脇だ。
コヨーテは倒れた一体に気を取られている。そこへショートステップで距離を詰め、倒木越しに一体だけ撃つ。
振り向く。追ってくる。
でも視線はすぐに茂みで切れる。
切れた直後、誘音石がまた鳴った。
ちん。
コヨーテの首が半分だけそちらへ向く。
その一瞬で、残り二体との連携がずれる。
「はは、やっぱり」
連携の鍵は距離じゃない。視線共有だ。
見えていない群れは連動しない。
俺は二体を開けた場所へ引き込みながら、一体ずつ削った。被弾ゼロとまではいかなかったが、低火力でも十分に間に合う。
最後の一体が倒れるころには、盾の女は坂の途中で口を開けたままこちらを見ていた。
「……今の、何?」
「コヨーテの視線管理」
「いや、そういう単語の意味じゃなくて」
彼女は立ち上がると、土のついた肩を払って俺の前まで来た。レベルは四。俺はまだ二だ。
普通なら恥ずかしい数字だが、別に困っていない。
「でも、助かったよ。ありがとう。ナギ」
彼女の頭上のネームプレートが軽く揺れる。
「気にするな」
「その、ナギ。あんた……さっきの、たまたまじゃないよね」
「たまたまで三体捌けるほど器用じゃない」
「だよね」
ミツキは俺の短弩と、ポーチから覗く誘音石、それから足元の細線アンカーを見た。
「変なビルドだなあって思ってたけど」
「みんな言う」
「だって火力低そうだし」
「低いよ。そこは本当に低い」
「なのに何で勝てるの」
いい質問だ。
俺は倒したコヨーテの死体が消えるのを見ながら言った。
「敵が何を見てるか分かれば、殴り合わなくて済むから」
ミツキは数秒黙って、それから変なものを見る顔で笑った。
「あんた、たぶんめちゃくちゃ面倒くさいタイプだ」
「よく言われる」
「でも、ちょっとだけ面白い」
「ちょっとだけ?」
「命の恩人じゃなかったら、初対面で距離を取るくらいには」
「正しい判断だ」
「認めるな」
そう言ってから、彼女は森の奥を親指で示した。
「この先の旧排水路、もう行った?」
「まだ」
「中ボスが変なんだよ。ヘイト無視して、後ろを食いに来る」
その言葉に、俺の意識がぴたりと止まった。
ヘイト無視。
そういう報告は、だいたい雑だ。
でも、雑な報告ほど面白いことがある。
「詳しく」
「いや、私も一回潜っただけだけど……」
ミツキが話し始めるのを聞きながら、俺はさっきのコヨーテたちの帰り方を思い返していた。
一体は、完全に視線が切れたあと、俺たちのいた場所ではなく、水気のある沢沿いを確認してから元の巡回に戻った。
あれも気になる。
攻撃優先だけじゃない。帰巣にもルールがある。
もし旧排水路の敵がそういう「戻り方」まで持っているなら、初心者ダンジョンとしてはかなり面白い。
サービス開始初日の空気は、まだ軽かった。
みんなレベル上げとレアドロップに夢中で、敵の挙動なんて大雑把にしか見ていない。
だからこそ、今のうちに拾えるものがある。
俺はミツキに向き直った。
「その中ボス、今日中に見に行こう」
ミツキは目を瞬かせてから、にやっと笑った。
「やっぱり面倒くさい。でも、そういうの嫌いじゃない」
そのあと、俺たちはすぐには街へ戻らず、灰枝の森の縁をゆっくり歩いた。
ミツキは三歩に一回くらいの頻度で、さっき俺が張った細線アンカーの位置や、誘音石を投げた角度を振り返る。
「ほんとに、あの二秒で呼ぶの分かってたんだ」
「だいたい二秒ちょい」
「だいたい、って言うけどさ。普通、そこ数える?」
「数えるだろ」
「数えないよ」
即答で返されて、俺も少しだけ笑った。
普通はそうだ。
敵が動いた、避けた、殴った、倒した。多くのプレイヤーにとって必要なのはそこまでで、その前に耳が何度動いたか、視線が切れるまで何歩かかったかなんて、勝ち負けに関係しないように見える。
でも俺にとっては、そこから先が本番だった。
「FLO、事前PVで“環境反応型AI”ってやたら推してたろ」
「うん。だから始めた人も多いんじゃない?」
「なら最初に見るべきはレベルじゃなくて反応だと思った」
「だからあのビルド?」
「そう」
俺はポーチの中の誘音石を指先で転がした。
キャラメイク画面で《短剣二刀》《槍》《火術》の派手な初期構成が並ぶ横で、《観測寄り斥候》の説明欄だけはやけに地味だった。
感覚補助。
罠の起点。
敵行動の記録支援。
強さの説明が一つもない。
だから掲示板では笑われていた。
だが、AIの反応を見るには、派手なダメージより、条件を一つずつ動かせる道具のほうが向いている。俺にはそう見えた。
「掲示板で“産廃”って言われてたやつ」
「見てたんだ」
「ちょっとだけ。ああいうの、気にならない?」
「事実だから気にならない」
「事実なんだ」
「低火力なのは本当だし」
「その割に、さっきめちゃくちゃ強く見えたけど」
「勝ち方が違うだけ」
俺がそう言うと、ミツキは何かを考えるように唇を結んだ。
「……私、今まで“強い”って、ダメージ出るとか、敵を止められるとか、そういうことだと思ってた」
「普通はそうだと思う」
「でも、さっきのナギって、敵に“勝った”っていうより、“敵が何もできない形にした”って感じだった」
その表現は、かなりしっくりきた。
「そっちのほうが好きなんだ」
「へえ」
「毎回できるなら、なおさら」
森の出口が見えてくる。始まりの街の石壁、夕方に近づき始めた空、広場へ向かうプレイヤーの流れ。サービス開始初日のざわめきが遠くから聞こえてきた。
ミツキがそこで足を止めた。
「じゃあさ。旧排水路の中ボス、もし本当に理由があるなら」
「うん」
「私にもちゃんと止められる?」
その問いには、軽くは答えたくなかった。
盾役のプレイヤーにとって、“敵が自分を向く”のは単なる仕様じゃなく、役割の手応えそのものだ。
「たぶん」
「たぶん?」
「理由が分かれば、何で向かなかったかも分かる。何で向かせられるかも、そこから組める」
ミツキは数秒だけ黙って、それからゆっくり頷いた。
「じゃあ、見つけよう」
「うん」
始まりの街の門が見えてきたところで、俺は一度だけメモウィンドウを開き直した。
《初日観測・灰枝の森》
・灰耳ラビットは被弾方向より音方向を初動に取りやすい
・灰尾コヨーテは視線維持で群れ連携、遮蔽で連携が切れる
・湿地で進路選択が変わる個体がいる
・帰巣は最短距離ではない
最後に、一行だけ付け足す。
《気になる報告》
・旧一号排水路の中ボスがタンクを外す
ミツキがその追記を横から見て、少しだけ肩をすくめた。
「ほんと、最初の日記みたいに残すんだ」
「あとで読むために」
「自分で?」
「未来の自分が一番信用できるから」
そう答えると、彼女は何とも言えない顔で笑った。
「その未来の自分、だいぶ面倒くさそう」
「今の自分よりは話が早い」
実際、こういうメモは何度も自分を助けてきた。
別のゲームで、誰も気にしなかった雑魚敵の迂回癖から隠し通路を見つけたこともあるし、ボスの帰り方から再出現地点を割り出したこともある。
強い装備を引けなかった日でも、観察だけは裏切らない。
だからたぶん、今日も悪くない始まり方だ。
その時、メモウィンドウの端に、自動ログが一行だけ遅れて流れた。
《灰尾コヨーテ:帰巣経路を再選択》
俺は足を止める。
ミツキがすぐに振り返った。
「今度は何。顔が“面倒を見つけました”って顔してる」
「帰り道を選び直した」
「初心者フィールドの犬が?」
「うん」
旧排水路の中ボスがタンクを外す。
灰枝の森のコヨーテが帰巣経路を選び直す。
別々の現象に見えて、同じ匂いがした。
敵は、こっちの攻撃だけを見ていない。
たぶん、戻る場所まで見ている。
俺はメモの最後へ、もう一行だけ書き足した。
《次の検証》
・敵は「誰を狙うか」ではなく「どこへ戻れるか」で判断を変えている可能性
「……ナギ」
「うん」
「今日、レベル上げる気ある?」
「ある」
「本当に?」
「旧排水路を見る時間が余ったら」
「それ、ないやつじゃん」
ミツキの呆れた声を聞きながら、俺は街の門ではなく、その先にある排水路の入口を見ていた。
産廃ビルドの初日は、どうやらレベル上げより先に、ゲームの底を覗く日になりそうだった。




