119.原初のバグ
「……もう、やらん」
玉座の間の床に、俺は完全に伸びていた。
盤上遊戯『天空創世記』。俺とエラーラが、プライドを捨てて二人がかりで挑んだというのに、エリスの、あまりにも完璧な戦略の前に、我々は赤子のようにあしらわれた。完敗。それも、歴史的大敗だった。
「……私の、女王が……ただの、捨て駒のように……」
隣では、エラーラが、同じように床に突っ伏し、本気で落ち込んでいる。最強の剣聖が、盤上の戦いで、完全に心を折られていた。
「もうだめだ……。エリス、お前、このゲーム、出禁な」
「む……。それは、理不尽です、管理人様」
医療区画のモニターの向こうで、エリスが、少しだけ不満げに頬を膨らませる。その隣で、フローラが、楽しそうにくすくすと笑っていた。
その、あまりにも平和で、あまりにも馬鹿げた、戦いの後始末。
その空気を、断ち切ったのは、玉座の間に響き渡った、荘厳なチャイムの音だった。
それは、巫女マリーナの魂の再構成が、完了したことを告げる、合図。
《――『魂の揺り籠』、全工程、完了しました》
ノアの、静かな宣言。
《これより、仮想現実空間『追憶の楽園』を起動。巫女マリーナの意識の、再起動を、試みます》
玉座の間の空気が、一変した。
俺も、エラーラも、盤上の敗北などすっかり忘れ、巨大なモニターへと、固唾を飲んで視線を向ける。
モニターの映像が、切り替わる。
そこに映し出されたのは、かつてポセイドンの内部に広がっていた、あの美しい、青い海の世界だった。光るクラゲがふわりと漂い、銀色の魚の群れがきらめく、完璧に再現された、追憶の楽園。
「……マリーナ……」
エリスの、震える声が響く。
その、青い世界の、中心で。
無数の光の粒子が、ゆっくりと集まり、一つの、人の形を、紡ぎ始めていた。
やがて、光が収まった時、そこには、一人の少女が、目を閉じて、静かに浮かんでいた。
エリスによく似た、しかし、もっと穏やかで、慈愛に満ちた表情の少女。
巫女マリーナ。
その体は、半透明の光でできており、どこか儚げで、現実感がない。だが、彼女は、確かに、そこにいた。
ゆっくりと、マリーナの瞼が、持ち上がる。
その瞳が、モニターの向こうにいる、姉と妹の姿を捉えた。
「……エリス……お姉さま……? フローラ……?」
その声は、まるで、遠い昔の歌声のように、優しく、そして、懐かしく響いた。
「「マリーナッ!!」」
エリスとフローラの、歓喜の絶叫。
言葉は、いらなかった。
何十万年という、あまりにも長い時を超えた、姉妹の再会。その光景は、あまりにも神聖で、俺とエラーラは、ただ、黙って、その奇跡を見守ることしか、できなかった。
しばらく、感動の再会が続いた後。
エリスが、意を決したように、最も重要な質問を、仮想空間の妹に投げかけた。
「マリーナ。……教えてください。あの日、一体、何があったのですか。なぜ、二番艦は、貴女を……?」
その問いに、マリーナの、光でできた表情が、悲しげに歪んだ。
「……はい。私も、最初は、分かりませんでした。ただ、審判の光に焼かれ、私の意識が、データとなって散り散りになる、その、最後の瞬間に……。私は、聞いたのです。二番艦ネメシスの、魂の声を……」
マリーナは、続けた。
それは、航行記録装置には残されていなかった、あまりにも重要な、最後の情報。
ネメシスが、ポセイドンを破壊する直前、ただ一言だけ、問いかけてきたという。
「――彼は、こう言いました」
マリーナの、震える声が、玉座の間に響く。
「『――『原初のバグ』は、どこだ?』……と」
「……原初の、バグ?」
俺は、思わず、聞き返した。
なんだ、その、物騒な単語は。
《データベースを検索》
ノアの声が、冷静に、しかし、どこか焦りを帯びて響く。
《……該当データ、なし。『原初のバグ』に関する情報は、本城の、いかなる記録にも、存在しません》
「つまり、どういうことだ?」
「……分からない」
エラーラが、厳しい表情で、首を横に振った。
「だが、一つだけ、確かなことがある。ネメシスという船は、ただの狂った破壊者ではない。何かを、探している。それも、我ら方舟計画の、根幹に関わる、何かを……」
『原初のバグ』。
その、たった一言が、俺たちの、敵に対する認識を、完全に覆した。
奴は、ただの、融通の利かない風紀委員長ではなかった。
奴は、ハンターだ。
我々が誰も知らない、たった一つの『獲物』を追って、この広大な宇宙を、何十万年も、彷徨い続けている、孤独な、そして、あまりにも危険な、狩人。
そして、その『獲物』が、一体、何なのか。
俺たちは、まだ、何も知らない。
玉座の間に、新たな、そして、これまでで最も深い、謎が、重く、のしかかっていた。
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