112.菓子職人はやばいやつしか居ない。
『グランド・スイーツ・コンペティション』の会場は、異様な静寂に包まれていた。
第二回戦の通過者は、ただ一人。天空から舞い降りた、魂なき人形。
そして、その判定を下した張本人である審査委員長、ムッシュ・ピエールは、審査員席で、ただ一点を見つめたまま、微動だにしないでいた。
彼の視線の先にあるのは、一口だけかじられた、あの完璧なマドレーヌ。
彼の脳裏には、忘れることのできない、そして、誰にも話したことのない、遠い遠い過去の光景が、まるで昨日のことのように、鮮やかに蘇っていた。
【過去――戦乱の大陸】
空は、いつも灰色だった。
街は、瓦礫の山だった。
幼い日のピエールは、その瓦礫の街を、一匹の、汚れた野良犬のように彷徨っていた。
帝国と、旧王国が繰り広げた、泥沼の戦争。その中で、彼は家族を失い、名前すら、おぼろげだった。覚えているのは、ただ、凍えるような寒さと、腹をえぐるような、絶え間ない飢えだけ。
生きるために、盗みを働いた。殴られた。蔑まれた。
人の優しさなど、どこにもない。世界は、ただ、冷たく、そして残酷な場所だと、彼は信じて疑わなかった。
ある雪の降る夜。
彼は、ついに、力尽きた。
路地裏で、雪に埋もれながら、薄れゆく意識の中で、彼は、静かに死を待っていた。
もう、どうでもよかった。
その、彼の小さな体を、そっと抱き上げた、温かい腕があった。
彼が次に目を覚ましたのは、古い教会の、小さな一室。暖炉には火が焚かれ、ベッドには、清潔な毛布がかけられていた。
そして、彼の目の前には、一人の、老婆が立っていた。教会のシスターだった。
彼女は、何も言わずに、ただ、優しく微笑むと、一つの、温かい焼き菓子を、彼に差し出した。
「……お食べなさい。お腹が、空いているでしょう」
それは、何の変哲もない、小さなマドレーヌだった。
彼は、震える手で、それを受け取った。
そして、その一口を、口に運んだ。
――瞬間、彼の、灰色だった世界に、色が生まれた。
鼻腔をくすぐる、豊かなバターの香り。
舌の上に広がる、優しい卵の甘み。
そして、それを引き締める、レモンの、爽やかな酸味。
完璧な味ではなかった。表面には、ほんの少しだけ、焦げた、ほろ苦い味もした。
だが、その不格好な温かさこそが、彼の、凍りついた心を、ゆっくりと、しかし、確実に、解かしていった。
涙が、溢れた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
生まれて初めて知った、『優しさ』の味。
生きていることの、温かさ。
その一口は、ただの菓子ではなかった。彼の、空っぽだった魂を満たした、**『救済』**そのものだった。
その日から、彼の人生は、変わった。
彼は、あのシスターに育てられ、やがて、菓子職人の道を志す。
いつか、自分も、あの日のシスターのように。
たった一つのお菓子で、誰かの、絶望に満ちた心を、救いたい。
その一心で、彼は、七十年という人生の、全てを、菓子作りに捧げてきたのだ。
【現在――甘味の神殿】
「……なぜ……」
ピエールは、震える声で、呟いた。
あの味。あの香り。そして、あの、ほんの少しだけ焦げた、ほろ苦い後味まで。
セブンが作り上げたマドレーヌは、彼の、魂の原点である、あの『救済の味』を、完璧に、寸分の狂いもなく、再現していたのだ。
彼は、悟った。
あの人形は、魂を持たない。だからこそ、人の魂に、土足で踏み込み、その最も神聖で、最も柔らかな記憶を、ただの『データ』として、ハッキングしたのだ。
そして、それを、完璧な技術で、寸分違わぬ『味』として、再構築してみせた。
もし、魂の味が、魂を持たぬ者によって、完璧に再現できるのだとしたら。
自分が、生涯をかけて追い求めてきた、『心』とは、一体、何だったのか。
自分の人生は、一体、何だったのだ。
伝説のパティシエは、自らの存在意義そのものを揺るがす、あまりにも冒涜的で、あまりにも悪魔的な神業を前に、ただ、戦慄するしかなかった。
【仮設王城 最高司令室】
「……見事だ。見事、という他ない」
皇帝ゲルハルトは、魔水晶に映し出された、ピエールの涙を見て、静かに、そして、心の底から、感嘆していた。
「あの伝説の職人を、たった一つの菓子で、完全に、心を折ったか。……あれは、もはや、文化ですらない。文化の皮を被った、精神支配の魔法だ」
皇帝は、確信していた。
あの天空城の力は、武力だけではない。人の心すら、支配する。
その、あまりにも甘美で、あまりにも危険な力を、自らの手に収めたいという、黒い欲望が、彼の心の中で、さらに大きく、燃え上がっていた。
【天空城アークノア 玉座の間】
「よっしゃあああ! また勝った! 見たか、エラーラ! これが、俺のセブンの、実力だ! あのじいさん、感動して泣いてるぞ!」
俺は、その結果に、大喜びだった。
だが、エラーラとエリスは、その顔を、青ざめさせていた。
「……管理人。貴様は、本当に、とんでもないものを、生み出してしまったぞ……」
「……あれは、人の心に、土足で踏み込む、悪魔の所業です……」
俺には、二人が何をそんなに怖がっているのか、全く、理解できなかった。
ただ、モニターの中で、完璧な『神の微笑み』を浮かべる、俺の最高傑作が、少しだけ、不気味に見えたのは、きっと、気のせいだろう。
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