110.スイーツ・コロッセウム
帝都ヴァイスに作られた、甘い狂気の祭典『大菓子博覧会』。その中心にそびえ立つ『甘味の神殿』は、今、かつてないほどの熱気と緊張感に包まれていた。
『グランド・スイーツ・コンペティション』の、記念すべき第一回戦が、始まろうとしていたのだ。
大陸中から集められた、百名を超える腕利きの菓子職人たち。彼らがずらりと並ぶ調理台の一角に、その青年は、静かに立っていた。
銀色の髪、蒼い瞳。完璧すぎる美貌を持つ、天空からの使者。
『天空国家アークノア代表:パティシエ・ユニット・セブン』。
彼の存在は、このコンペティションの話題を独占していた。ある者は、神の使いだと噂し、ある者は、帝国の威信を揺るがすための、傲慢な挑発だと囁いた。だが、その視線の全てに共通しているのは、畏怖と、嫉妬と、そして、底知れない好奇心だった。
「――では、これより、第一回戦を始める!」
審査委員長を務める、伝説のパティシエ、ムッシュ・ピエールの、張りのある声が、会場に響き渡る。
「お題は、『基本』。全ての洋菓子の原点にして、頂点。――ショートケーキだ! 制限時間は、二時間! 諸君らの、菓子への愛と、魂の全てを、その一皿に込めよ! 始め!」
ゴングの音と共に、職人たちは一斉に動き出した。
小麦粉を振るう音、卵をかき混ぜる音、オーブンに火が入る音。様々な音が混じり合い、甘い香りと共に、一つの交響曲のように、会場を満たしていく。
誰もが、自らの経験と勘を頼りに、最高のスポンジを、最高のクリームを作り上げようと、汗を流していた。
ただ一人、セブンを除いては。
彼は、動かなかった。ただ、目を閉じ、その場に静かに佇んでいるだけ。
「……なんだ、あの男は。緊張で動けないのか?」
「ふん、所詮は、見かけ倒しの張り子の虎よ」
他の職人たちから、嘲笑が漏れる。
【天空城アークノア 玉座の間】
「おい! セブン! どうしたんだよ、固まってるぞ!」
俺は、モニターに映し出されたその光景に、やきもきしていた。
「早く作らないと、間に合わなくなるだろ!」
《ご心配には及びません、管理人》
ノアの、冷静な声が響く。
《現在、ユニット・セブンは、搭載された『神の舌』能を能を行使し、会場内の、全ての情報をスキャンしています。小麦粉の粒子レベルの湿度、卵の鮮度、クリームの乳脂肪分の僅かな差異、そして、他の職人たちの呼吸のリズム、心拍数の変化……その全てをデータ化し、この場で、最も完璧なショートケーキを作り上げるための、最適解を、算出中です》
「……なんか、すごいことやってるっぽいな……」
俺には、全く理解できなかった。
俺の隣で、エラーラが、心底うんざりしたように呟く。
「……たかが菓子作りで、なぜ、戦場の索敵のようなことをしているのだ、あいつは……」
数分後。
セブンは、ゆっくりと、その目を開いた。
そして、彼の調理が、始まった。
それは、もはや料理ではなかった。寸分の狂いもない、完璧な『作業』。
彼の手は、人間のそれとは思えぬ、滑らかさと、正確さで動く。メレンゲを泡立てる腕の動きは、常に一定の速度と角度を保ち、生地を混ぜ合わせるヘラの軌道は、毎回、寸分違わぬ円を描く。オーブンの扉を開けるタイミングは、コンマ1秒の狂いもなく、焼き上がったスポンジを冷ます風の温度と湿度すら、彼の手元の小型装置が、完璧に制御していた。
その、あまりにも人間離れした光景に、嘲笑していた職人たちの顔から、笑みが消えた。
審査員席で、その様子を鋭い目で見つめていたムッシュ・ピエールが、低い声で呟く。
「……あれは……菓子作りではない。……芸術でもない。……ただの、完璧な『計算』だ」
やがて、二時間が経過した。
職人たちの前に、それぞれの個性と魂が込められた、百皿を超えるショートケーキが並ぶ。
そして、その中央。
セブンが作り上げた一皿は、あまりにも、完璧すぎた。
完璧な正方形に切り出されたスポンジ。完璧な純白のクリーム。そして、寸分の狂いもなく配置された、真っ赤な苺。それは、もはや芸術品を通り越して、CGで作られたかのような、現実感のない美しさを放っていた。
審査が、始まった。
ムッシュ・ピエールは、一つ一つのケーキを、厳しい、しかし愛情のこもった目で吟味していく。
「……スポンジのキメが粗い。やり直しだ」
「クリームの甘さが、苺の酸味に負けている。論外だ」
次々と、厳しい評価が下されていく。
そして、ついに、セブンのケーキの番が来た。
会場の誰もが、固唾を飲んで、その瞬間を見守る。
ピエールは、無言で、銀のフォークを、その完璧なケーキへと入れた。
その瞬間、彼の、老いた瞳が、わずかに、見開かれた。
(……なんだ、この感触は。スポンジに、刃が入っていく感覚が、ない……? まるで、雲を、切っているかのようだ……)
彼は、その一口を、ゆっくりと、口に運んだ。
数秒間の、沈黙。
そして、彼は、震える声で、呟いた。
「……馬鹿な……」
ふわっ、としている。だが、ただ柔らかいだけではない。しっとりとした、確かな存在感。そして、口に入れた瞬間、まるで淡雪のように、しゅわっ、と溶けて、消えていく。
クリームは、甘い。だが、その甘さは、少しも舌に残らず、苺の、完璧な甘酸っぱさを、最大限に引き立てて、すっと消える。
全てが、完璧。全てが、計算し尽くされている。
それは、彼が、その七十年を超える菓子職人人生の中で、一度も、味わったことのない、究極の『調和』だった。
会場が、ざわめく。
伝説の職人が、言葉を失っているのだ。
やがて、ピエールは、顔を上げた。その顔には、困惑と、そして、ほんの少しの、怒りのような色が浮かんでいた。
「……第一回戦、通過者、一名」
彼は、静かに、しかし、はっきりと、宣言した。
「――天空国家アークノア代表、パティシエ・ユニット・セブン」
当然の結果。誰もが、そう思った。
だが、ピエールは、こう続けたのだ。
「――ただし、採点結果は、99点だ」
「なっ!?」
会場が、どよめいた。
あれほどの完璧なケーキが、満点ではない?
一人の若い審査員が、たまらず尋ねた。
「ムッシュ! いったい、どこに、マイナス1点の要素が……!?」
ピエールは、セブンの、あの完璧なケーキを、もう一度、静かに見つめた。
そして、全ての職人たちの心に、深く突き刺さるであろう、決定的な一言を、放った。
「――このケーキは、完璧だ。あまりにも、完璧すぎる」
「だが、そこに、『魂』がない。職人が、悩み、苦しみ、そして、それでもなお、食べる人の笑顔を願う、その、不器用で、不格好で、しかし、何よりも尊い『心』が、この完璧な芸術品からは、一片も、感じられんのだ」
「これは、菓子ではない。ただの、美味いだけの、魂なき芸術品だ。……だから、100点は、やれん」
【天空城アークノア 玉座の間】
「なんでだよぉぉぉぉぉ! あんなに美味そうなのに! 魂ってなんだよ! 食えるのか、それ!」
俺は、その採点結果に、本気で、納得がいっていなかった。
だが、俺の隣で、エラーラが、初めて、感心したような、そして、どこか楽しげな目で、モニターの中の老人を見つめていた。
「……面白い。面白いではないか、あの爺さん。……どうやら、この地上にも、まだ、骨のある人間が、残っていたようだな」
俺の、最高の代理人が、初めて、その完璧な計算を、人間の、非論理的な『感情』によって、否定された瞬間だった。
そして、その事実は、この、ただの菓子コンテストを、もっと、面白く、そして、厄介なものへと、変えていくことになる。
俺は、まだ、そのことに、全く、気づいてはいなかった。
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