108.またお菓子(呆れ)
天空城アークノアの帰還は、地上に、瞬く間に、そしてあまりにも大きな波紋を広げた。
それは、帝都ヴァイスが、ようやく竜の襲撃の傷跡から立ち直り、偽りの平穏を取り戻しつつあった、まさにその矢先のことだった。
「――緊急報告! 緊急報告! 天空城アークノア、帝都上空に出現!」
仮設王城の司令室に、観測兵の絶叫が響き渡る。
その報告に、皇帝ゲルハルトは、執務の手を止め、苦々しい表情で天を仰いだ。
「……帰ってきたか。あの、最も厄介な、天災が」
先の『大菓子博覧会』以降、帝国は、天空城に対する方針を、武力による征服から、屈辱的なまでの融和政策へと、完全に切り替えていた。
定期的に、帝国最高峰の菓子を『供物』として献上し、ひたすらに、あの気まぐれな神の機嫌を損ねぬよう、息を潜める。それが、今の帝国にできる、唯一の生存戦略だった。
だが、その静かな日々は、あまりにも唐突に、終わりを告げた。
「……ギュンター。奴の目的は、何だと思う」
皇帝の問いに、老練な外交官ギュンターは、巨大な魔水晶に映し出された、微動だにしない城の姿を、鋭い目で見つめながら答えた。
「……分かりませぬ。ただ、一つ言えることは、もし、あの御方に敵意があったなら、我らは今頃、この場にはおりますまい。あれは、攻撃でも、威嚇でもない。まるで……」
ギュンターは、言葉を選んだ。
「……まるで、自分の庭に、戻ってきたかのような、あまりにも当然の、帰還」
その言葉に、ゲルハルトは、背筋が凍るのを感じた。
そうだ。あの男にとって、この大陸の空は、もはや、自らの領空、自らの庭なのだ。
「……ただちに、使節団を編成せよ」
皇帝は、決断した。
「最高の菓子と、最高の酒を、山と積んで、奴の元へ向かわせろ。そして、探るのだ。今度は、一体、何を求めて、我らの前に姿を現したのかを」
帝国は、再び、神の御心を探るという、あまりにも不毛で、あまりにも危険な、神託乞いを始めるしかなかった。
【聖王国アークライト 大聖堂】
同じ頃、聖王国の首都サンクトゥスでは、全く別の意味で、大きな混乱が起きていた。
聖女アンナが、倒れたのだ。
天空城が帰還した、まさにその時刻。彼女は、祈りの最中に、まるで天からの啓示でも受けたかのように、恍惚とした表情で、その場に崩れ落ちた。
「――カイン様が……お戻りに……」
彼女は、そのまま深い眠りに落ち、うわ言のように、ただ、その名を呼び続けている。
その報せを受けた教皇ベネディクトゥス三世は、私室で、枢機卿ヴァレリウスと、静かに向き合っていた。
「……見よ、ヴァレリウス。我らの祈りは、届いたのだ」
教皇は、確信に満ちた声で言った。
「聖女アンナは、天の主と、その魂を繋いだ。彼女は、もはやただの人間ではない。神の御心を、地上に伝えるための、聖なる器となったのだ」
「……では、我らは」
「うむ。今こそ、我らが、真の『神託』を、大陸全土に示す時。帝国が、甘き菓子で偽りの神の機嫌を取ろうとしている間に、我らは、聖女を通して、その魂を、我らが正義へと導くのだ」
教皇の瞳には、狂信的な光が宿っていた。
彼は、この奇跡を、帝国から、大陸の精神的支柱の座を奪い取るための、絶好の機会と捉えていた。
「ヴァレリウスよ。聖女アンナが、次に目覚めた時、彼女が紡ぐであろう、最初の『神託』を、準備せよ。それは、我ら聖王国が、神の名の下に、この大陸を導くための、新たなる福音となるであろう」
聖王国は、聖女という名の駒を使い、神そのものを、自らの傀儡としようと、画策し始めていた。
【天空城アークノア 玉座の間】
その頃、地上の権力者たちが、自分を巡って、壮大な勘違いと陰謀を繰り広げていることなど、俺は知る由もなかった。
俺は、玉座に寝そべりながら、久しぶりに見る、地上の風景に、少しだけ感傷に浸っていた。
「……なんか、頭の中で、女の子の声がするんだよな。『チョコバナナ……』って。空耳かな」
「貴様が、祭りで、あの聖女に変なものを食わせたせいだろうが」
エラーラの、心底呆れたようなツッコミ。
俺は、その言葉を無視して、巨大なモニターを、テレビのチャンネルを変えるように、ザッピングしていた。
「なあノア、なんか面白いニュースとか、やってないか? 俺たちがいない間に、地上で何か変わったこととか」
《了解しました。地上で、現在、最も注目されているイベントの映像を、表示します》
モニターに映し出されたのは、帝都ヴァイスの、復興作業が進む広場の様子だった。
そこには、巨大な横断幕が掲げられていた。
『――祝・帝都復興! 頑張ろう帝国! 第一回・帝国復興グランフェスタ、開催決定!』
なんだ、また祭りか。
俺が、興味を失いかけた、その時。
横断幕の下に書かれた、小さな文字が、俺の目を、釘付けにした。
『――祭りの目玉は、これだ! 大陸中の職人よ、集え! 帝国の未来を担う、最高の『新作スイーツ』を決める、グランド・スイーツ・コンペティション! 優勝者には、名誉と、一生遊んで暮らせるほどの賞金が!』
「…………」
俺は、ゆっくりと、玉座から、起き上がった。
そして、俺の隣で、最近、暇つぶしにお菓子作りを始めたエラーラが焼いた、少しだけ焦げたクッキーを、ぽりぽりと齧っていた。
(……まずい。いや、まずくはないが、シャルロッテの足元にも及ばない)
俺の頭の中で、一つの、とんでもない計画が、芽生え始めていた。
最高の、スイーツ。
その、あまりにも甘美な響き。
俺は、ニヤリと、悪戯を思いついた子供のような、笑みを浮かべた。
地上の権力者たちが、神の真意を測りかねて、壮大な深読みをしている、まさにその裏で。
神様は、ただ、次に食べるおやつのことだけを、考えていた。
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