さあ、手を取り合って逃げるのだ
【おまけ:という名の真エンディング】
当時、未練がなかったとは言えない。
──佐々木里香子は昔をそう振り返る。
でも後悔はなかった。誠実さに欠ける人間など愛や恋だのの前に信用なんて出来ないから。
だから、昔の恋人──今となってはそれも怪しいが──藍田雅之に対する未練など少しもなかった。
どうしてこんなところにいるのだろう。里香子はある種、修羅場と言われる現場に居合わせた。
自分とその昔付き合った男、それからその男の妻、そして顔見知りの男の弟。奇妙なカルテットはあるホテルのロビーで偶然か運命か、居合わせることとなった。
──きっと偶然ではない。里香子にはそんな確信があった。
男の妻に見覚えはない。初めて見る顔だ。しかしそれでも青ざめて今にも倒れそうな顔色をしているのがわかる。可哀想で席でも勧めたいが自分が言ってもいいものかと悩んだ。何せ私は彼女の夫である男につい最近まで復縁を迫られていたのだから。もっと言えば男の婚姻ギリギリまで付き合っていた。──それについては最近知ったのだが。
「……千歳さん、座れば」
そう言ったのは男の弟英二だった。察しがよく優しい英二らしい気遣いだが、妙に刺々しい気がすると里香子は感じた。英二らしくない。もしや自分がいるからではとも思うがこっちは仕事でたまたま来ただけだ。悪意はない。ましてや、「彼を返して!」なんていう茶番を演じるつもりもなかった。
「ごめんなさい」
千歳、と言うらしい彼女は誰にでもなくそう謝るとラウンジのソファーへと静かに座る。まるで幽霊のような気配の薄さだった。
あの反応からして里香子がどういう存在だったかというのは知っているらしい。
「里香子……」
ずっと黙りこくっていた男雅之は絞り出すようにそう呼んだ。縋りつくみたいに自分の名前を呼ばないでほしい。自分で捨てたくせに。雅之はそう思っていないのだろう。けれど里香子にとって雅之の選択は自分を切り捨てるものだったと解釈している。第二の女になるつもりなどない。自分を安売りすることなんてしたくなかった。
「佐々木さん──ごめんね」
英二は何に対して謝っているのだろうか。そう思うのと同時に彼が謝ったことでこの事態を仕組んだのが誰か、察することが出来た。もちろん理由まではわからないけれど。
「兄貴さ、もう諦めてよ」
里香子は最初、自分のことを言っているのかと思う。だがすぐに違うことを悟る。何故ならそうであるなら雅之の妻である千歳がここにいる必要がないからだ。英二は色のある目で着物を着た撫で肩の後ろ姿を見やる。
そこで嗚呼と、気がついたのだ。なるほどこれは彼女のための茶番だと。
「ここでは人目が多いわ。上に部屋を取っているからそこへ移動しましょう」
そう言って答えたのは英二だけだった。
「ほんとにごめんね」
雅之には、もはや立てる義理もないけれど、英二とそれから哀れになるほど震えている彼女を放っておくことは同じ女として里香子には出来なかったのだ。
上へ上がる高層エレベーターのなか、ようやく息を吹き返したような千歳が「お部屋なんてご迷惑ですからどこか他のところへ……」と言うので一行は同じく上部にあるスカイラウンジに向かうことにした。
まだ午前の早い時間である今は人気も少ないだろうという判断だった。
都内を一望出来るという触れ込みのスカイラウンジにはやはり人気はなくほぼ貸切状態だった。千歳は一瞬の広い空に目を奪われたようだが里香子はすっと目を逸らした。高いところはあまり好きではないのだ。
「ではお話の前に、ひとつ」
そう切り出した里香子は、そのピンと張られた背を曲げお辞儀をする。
「千歳さん、申し訳ありませんでした。知らなかったとはいえきっと私の存在は貴方を傷つけたでしょう。でも今は雅之に未練の欠片もありません。貴方との仲を邪魔するつもりも毛頭ありません。信用なんて出来ないでしょうからきちんと二度と会わないという誓約書も書きます」
「そんな……!」
声を上げたのは千歳と、雅之だった。この後に及んでまだ復縁を望んでいたとはあきれ果てる男だが、里香子はまずそれを無視し、何故か驚いている千歳に向き合った。
「だって貴方からすれば私は浮気相手の女でしょう? それを信用しろだなんて、私だったら無理だわ」
「いいえ、そうではなく、」
「では何かしら?」
「……どうしてそんなことまで言ってくださるかと」
「私なりの誠意ってやつよ。慰謝料がいるというなら出来る範囲で応じるわ」
「お金なんて……いりません」
確かに見るからに高そうな着物を着ている彼女に払える慰謝料などたかが知れている。
「あなたはそれで、よいのですか?」
それは言外に雅之と会えなくなることを言っているのだろうか。
だとしたら答えは簡単だ。
「ええ、もちろん」
「ちょっと待ってくれ!」
ここでストップをかけるのは雅之しかいない。
「ほんとに、終わりなのか?」
何を今更、と思うが里香子は嘲りそうな顔をなんとか押し殺して、にっこり笑った。
「これ以上付き纏うなら警察に相談するわ」
里香子なりの最終宣告だった。
「……兄貴、いい加減にしろよ」
苛立ちの篭った声に雅之は体をビクつかす。一度は収まったはずの震えがまた始まった千歳を見てのことだろう。どうやら随分義弟に思われているらしい。
そこで里香子は思った。
『あなたはそれで、よいのですか?』
というべきなのは彼女なのではないか、と。
「ねえ、千歳さん……と言ったかしら」
「……はい」
「貴方、パスポートはお持ち?」
「……はい?」
「私と一緒に逃げましょうよ」
「…………え?」
唐突な里香子の発言に千歳を含む三人は同じように口を開いた。
*
ヨーロッパを一周し、オーストラリア、ハワイ、そしてアメリカ本土、カナダを回って日本に帰ってくる。一ヶ月以上に渡る長い旅行を終え千歳は久しぶりに日本へと帰ってきた。
名目上の夫はどうやら空港まで迎えに来てくれるらしい。そのまま夫の家ではなく実家に戻るつもりだった。
「里香子さんあのときはほんとうにありがとう」
「それ旅行中に何度も聞いたわ」
「だってほんとにそう思うから」
「まさかここでお別れなんて思ってない?」
「そんなこと! ……ちょっとだけ」
「嫌よせっかく気の合う友達が出来たのに失うなんて」
女二人の旅行は思っていた以上に楽しいものだった。語学に堪能な千歳とコミュニケーション能力の高い里香子は水と油のように正反対だったけれどそれがどうにも馬が合うようでこのままずっと続けばいいとすら思うほどだった。
内向的な千歳からしたら有り得ないほどの懐きぶりだ。里香子にとっても世間ズレのない千歳は面倒な駆け引きや損得で付き合う人間関係に疲れていた里香子を大いに癒してくれる存在になった。
ゲートを出ると真っ先に目に入る美青年。キャビンアテンダントから熱い視線を送られている姿は相変わらず格好いい。
──そう格好いい雅之がみえているのだ。
「ねえ! 私、見えるわ!」
「え、本当に!?」
「ええ、本当よ!」
「なら賭けは私の勝ちね」
「あっそうだったわ……しまった、内緒にしておけば良かった」
「ズルはダメよー」
「そうよね」
「……随分仲良くなったんだな」
「まあね。何ヶ国も一緒に回ったんだもの当然よ」
「あのね、雅之さん、私、見えるようになったわ」
「本当か!」
「ええ。本当よ」
「良かった……嬉しいよ千歳」
「ええ、私も嬉しいわ。……だからね」
──私と別れてくださいな。
「え……?」
「だってそういう賭けなんだもの。ね?」
「そうよ。女の友情を賭けたんだから絶対なの」
「それにね、私ダニエルっていうボーイフレンドも出来たの! まだ付き合ってはいないんだけど、恋ってこんなに楽しいのね」
「……え、英二はいいのか!?」
「英二くん?」
「お前、あいつに言い寄られてただろ!」
「知ってたの……。英二くんとは出国前にちゃんとケジメをつけたわ。諦めないって言われちゃったけど……でも外聞が悪いでしょう? 夫を捨ててその弟に乗り換えるなんて」
「そう、だったのか……」
千歳は嘘は言っていない。……ただ言っていないこともある。
「今はあなたを男として見ることは出来ない」
出国前夜そう言った千歳に英二は、
「なら、ずっと待ってる。いつになってもいい他の男を好きになってもいい。……千歳さんいつか言ってただろ。“自分が最後の女になれればいい”って。だから俺も千歳さんの“最後の男”になるまで、待つから」
──こんなにも誰かに愛されることが他にあるだろうか。
しかし今の千歳にその手を取る勇気はなかった。だからその思いに乗ることにした。ズルイとは思うけれど。
「じゃあ……いつか、そうなるように願っていて」
碇を降ろすように、そう告げた。そんな言葉に嬉しそうにする英二に千歳は淡い思いの芽生えを感じたが、今はそれにそっとを蓋をし、キャリーケースを抱えて飛び立った。
帰国した今でもその思いはまだ残っている。もしかしたらいつか恋の花が芽吹くかもしれない。そう遠くないうちに、という予感はあるけれど。でも今ではないのだ。
ワクワクする出会いと、明るい未来が千歳の目には見えていた。
おしまい
感想を斜め上に受け取った結果こうなりました。誤字とか気になるところは後日直します。