第61夜 『世界最後の男』
世界最後の男がいる。
男は居住する住居の窓から、世界を覆いつくす空を眺めていた。
孤独、焦燥、虚しさ、悲しさ。それらが混沌として胸中にわだかまり、絶望という名のカクテルを作っていた。
もっとも、その酒は美酒などではなく、男にわずかばかりの陶酔も許さないものだったが。
世界最後の男は、死んでしまおうかと思ったこともある。
生き長らえても、仕方ないなどと悲観した頃もあったが……。
世界最後の男が物思いにふけっていると、物音がした。
コンコン、と誰かがドアをノックしたのだ。
男は全身から、汗が噴き出すのを感じる。
なにしろ、自分は世界最後の男なのだ。誰がドアをノックするというのか。
汗ばんだ首元、ゴクリと喉仏を動かし、男はドアに歩み寄った。
金属製の冷たいノブを握り、すこし逡巡する。
またノックが静かな世界に響き、男をせかした。
思い切って、男はドアを開いた。
そこには、女がいた。
艶やかな黒髪に、透き通るような肌。なかなかの美人だ。
「なんだ、君か……」男は言った。
女は肩をすくめてチャーミングに笑うと、男のわきをすり抜け、部屋に入ってきた。
彼女は、世界最後の女だ。
世界最後の女は、中央のテーブルに紙袋を乗せた。紙袋の中身は食材だろう。
彼女が入手してくる食材のおかげで、二人はほそぼそと暮らしてゆけるのだ。
「準備は、できたの?」
世界最後の女は、そっけなく言う。
そういえば、と世界最後の男は思い出した。
「外に……出るんだったな」
女は男の姿格好を、批評家のようにじっと見つめると、ため息を吐いた。
「まぁ、いいわ。行きましょう」
女は男の手をとると、ぐいぐいとドアに向かって引いてゆく。
家の外に出ると、男は空を見上げた。
灰色の雲が空一面にわだかまり、不吉な予感を男に感じさせる。
「やあ、お出かけですか」
眼鏡をかけた人の良さそうな老人が、隣家の垣根から声をかけてくる。
世界最後の隣人だ。
男が世界最後の隣人に応えないでいると、世界最後の女が愛想笑いを浮かべて返答する。
「ええ、ちょっとそこまで」
あいまいな返事だと思う。隠さずに言ってしまえばいいと思う。
これから、世界最後の医者のもとに行くのだと。もっとも、隠したい気持ちも分からないでもない。
世界最後の医者は、とんでもないヤブ医者だからだ。
そんなヤブ医者に診察してもらうと聞けば、世界最後の隣人は、世界最後の女を……世界最後の妻を嗤うかも知れない。
誰だって嘲笑されるのは、嫌だろう。
病院につくと、世界最後の医者の診察室へ向かった。
通路には、『世界最後の足の悪い80歳ぐらいの白髪の老婆』がいたし、『世界最後の足の悪い80歳ぐらいの白髪の老婆を励ます、世界最後の美人看護士』もいた。
あの老婆、こんな病院によく来るものだ、と男は皮肉な笑みをうかべた。
なにしろこの病院の、世界最後の医者は、とんでもない奴なのだ。
なんど面接しても、世界最後の男のことを、妄想狂だと断定する酷いヤブ医者なのだ。医者免許を剥奪すべきとさえ思う。
* * *
医者といつも通りの形式的な面談を終わらせると、妻を診察室に残して、男は廊下へと追い出された。
男はドアに耳をあて、妻と医者の会話を盗み聞きしてみる。
「お薬は……もらえませんの?」
「薬で治るなら、いくらでも出しますが……。ご主人の妄想は、さほど害のあるものでもないですからなぁ」
「でも勤める会社でも、疎まれだしてますわ。お世話になった社長さんを、世界最後の社長と呼んでみたり……」
「しかし、『世界最後の』という枕がつくだけで、日常生活にはなんら支障がないでしょう」
「でも不安なんです。実は……もうすぐ子供が生まれるんですが、このままでは会社をクビになって幼子を抱えて路頭に迷うのでは、と」
――子供が生まれるだって?
男は妻が身ごもっていることを、ここで初めて知った。
ああ、僕が父親になるなんて。
嬉しいような、気恥ずかしいような、不思議な気分だ。
生まれてくる子は、世界最後の息子だろうか、あるいは世界最後の娘だろうか。
診察室の中では、とうとうと医者が語っている。
「しかしですね。変に薬で治療しようというのも良くない。ご主人の考え方も実際にはあながち間違いとも言えんのですよ」
「といいますと?」
「世界中の誰もが、考え方によっては世界最後の人物ですよ。私もそうです。……私という個性や性格、パーソナリティをもった人間は私しかいない。つまり私は『世界最後の私』です。当然、あなたも『世界最後のあなた』ですよ」
世界最後の男は、診察室のドアを勢いよく開けると、妻を部屋から連れ出した。
――あんなヤブ医者の話など、聞くだけ無駄だ。
世界最後の男にはやるべき事が沢山あるのだ。
今日中にベビーベッドを買って、ベビー服も揃えたい。
ささやかな夕食を食べながら世界最後の赤ちゃんの名前を考えよう。
世界最後の友人たちに報告もしなければ。
病院のそと、広がっていた暗雲は四方にちらばり、青空が見えていた。
「僕は父親になるぞ! 世界最後の父親だ!」
空に向かって男は叫んだ。
「ちょっと、あなた! そんな大声で……」
そんな世界最後の二人を見て
――ベンチに座っていた入院患者、つきそう看護士、見舞い客……そんな世界最後の人々は笑顔をこぼした。
《世界最後の男 了》




