↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/6

1話

ーーー世界が平面になっていく 


どく、どく、どく、どく、どく、どく、どく、

外からの音が、聞こえない。

耳がおかしくなったからか、それとも世界から音が消えただけなのか

まともに思案が出来ていれば分かったことかもしれない、でも今の自分にそんな余裕なんかなかった。

何も聞こえなくても、不快な心音だけは明瞭に聞こえてくる。まるで死を急かす懐中時計のように、それは規則的に動いていた。

「ぐぅぅ、あ、・・・ああぁ・・・」

全身を覆う痛みから一瞬でも気を紛らわせようと、なんとか少しでも体を動かそうとしてみるが、接続がうまくいってないのか、指の一本も動かせなかった。体の部品はことごとく破壊され、腹からはオイルのようなものが溢れている。自分が死にかけの人間なのか、それとも壊れかけの機械なのかも曖昧だ。いっそ機械の方がいい、機械なのだとしたらこの痛みも苦しみも、存在することはない、幻であって、幻想であって、そうであるならばここで横たわって無様にもがいている哀れな男も存在しない。あるのはただのガラクタだ。

「はぅぁぁ!!!ぐぅぅあああぁぁ・・・」

だが、都合のいい妄想や自己愛に逃げても最悪な現実は追い越し、覆ってくる。身体に激痛が休むことなく走り、その衝撃で意識が強制的に覚醒する。夢を見ることすら許されない。心の底から眠ることを望んだとしても、人間として機能が、眠ることを許してくれない。


・・・ああくそ、最悪だ。人間が、というか、自分が脆くて弱い存在である事を今更になって叩きつけられている。そしてそれに今更になって気づいている自分の愚かさに死にたくなってくる。

十七年間の人生で、過去最大の自己嫌悪。

俺は、目の前の『死』という圧倒的な恐怖を前にして何も出来なかった。

・・・

・・・・・・

・・・・・・・・・


蜉ゥ縺代※豁サ縺ォ縺溘¥縺ェ縺?♀鬘倥>逾槭&縺セ蜉ゥ縺代※譛帙s縺ァ縺ェ縺?カ医@縺ヲ縺?i縺ェ縺?>繧峨↑縺?>繧峨↑縺?>繧峨↑縺?>繧峨↑縺?>繧峨↑縺?>繧峨↑縺


・・・

・・・・・・

・・・・・・・・・

いや、何も出来なかったというよりは、『何もする気が起きなかった』というのが正しいのか。

起き上がろうとして、地面に手をつこうと動かしてみるが、空ぶってしまった。腕の方に目を向けてみれば、どうやら既に右腕を失っているらしい。

ああ、なんだそんなことかと息をついた。まだ残っている左腕を地面に無理やり押し付け、ゆっくりと立ち上がる。感覚がもう既に無かったので、左腕を雑に扱っても痛くない。

立ち上がると足が小刻みに震え、一度風が吹けばすぐにでも倒れてしまいそうだった。だが、問題は無い。幸いなことに足にはまだ神経が通っている。

傷から飛び出た肉と血、さっきまで着ていた制服のズボンの切れ端が混ざり合ってグジュグジュになっているけれど、まだ動かせる余力はあった。仮にこれがあと一歩動けば千切れてしまうような劣化品だとしても、それならあと一歩進めるだけで構わない。


立ち上がった反動で腹から血液が溢れる。ビチャビチャと、水が地面に触れて破裂していく音が響いた。。十字架の刃物が内部に刺さってしまっているみたいに、動こうとすれば肉が抉れるかのような痛みが走り、下手をすれば一瞬で意識を持っていかれそうになる。

手足が痺れ、立ち姿勢を保つことが今の限界。あと一歩だというのに、その一歩が途方もなく長く感じる。鉄の香りしかしなかった口の中を唾液が侵食し、

鳩尾を鈍器で殴られたかのような吐き気をなんとか喉のあたりで堪えるが、堪えたが故にその吐き気の地獄は続く。いっそのこと吐いてしまいたかったが、それは許されない。それをすれば俺の心がきっと折れてしまう。それだけはなんとしてでも避けなければ。


辛い、苦しい、痛い、熱い、冷たい、暗い、逃げられない。

どうして俺がこんな目に合わなければならないのだろう。

決して人の道理を外すようなことはしてこなかった。聖人のように模範的で由緒正しい生き方をしてきわけではない、■■■望んでやった事なんてない。

自己の利益のために他人を害してきた訳でもない。

至って普通に、平凡に、日常の不和を起こさず生きてきた。仮にその生き方で誰かを傷つけたとしても、そんなのは俺のせいじゃない。

仕方がないことだ。そいつだってきっと俺を傷つけている。皆がみんな、俺を傷つけている。俺だけが特別じゃない。俺だけが した訳じゃない。

それなのに、どうして俺なんだろう。

生まれてからずっとこうだ。

ああ、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い。

・・・

「はは、あは…」

何がおかしくなったのかも分からず自然と笑いが零れる。

どうしてだ。寸前まで死にかけ全てを憎んできたのに、どうして今更になってお前はこんなにも口角が上がっているんだよ。

思考を巡らせ考えるが、分からない。まあそりゃそうだ。

なんてったって今は脳みそに血が回っていないし、あまりにも今が愉快過ぎて思考は施錠されていた。ぐちゃぐちゃに感情がいくつにも分散し塗りつぶされる。今何を考え、誰を想っているかも曖昧になる。唯一理解できたのは、俺は死にかけにもなって何故か心の底から笑ってしまう異常者だということ。

「いひ、ひひひ、ふふふ、あっははは・・・!」

あーやばい。本当に笑いが止まらない。腹の傷なんか気にせず、ただただ喜びの感情を笑いにして吐きだした。勿論、そんな状態で笑えば腹から血が噴き出すがそれすらも愉快で仕方がない


俺の体の中に、こんなにも赤く濁った美しい血が流れているなんて、知らなかった。知る由もなかった。

声にならない声が、唾液と血液に混じって溢れだす。

こんなに気分が良かった時は人生で一度もない。あまりの興奮に絶頂しそうだ。

何も憎くないし、痛くもない。

・・・違う。相変わらず今も死にかけであることは変わらないし、この世の全てを憎む気持ちも変わらない。俺をこんな目に合わしたあの化け物も、俺を見捨てた女も、いずれ殺してやる。

必ずこの痛みを何倍にも増幅させて味合わせてやる、俺を殺した事を地獄の果てまで後悔させてやる。


昔にした約束を思い出した。

もう相手が誰だったかなんて、覚えちゃいないけど、その約束だけは覚えている。

ごめんなさい、ついさっきまで僕はあなたと誓ったものを忘れていた。

それだけはしちゃいけないのに、それだけは何を犠牲にしてもやっちゃいけないことなのに

・・・ああそうだ。ようやくこの笑みの正体が分かった。

何故僕はこの感覚を忘れていたんだろう?これは、誰もが忘れちゃいけないはずの感覚だ。

何よりも尊くて、それを守るためなら全て壊してしまったっていい。

どうかしていた。血に飢えた獣だろうと腐肉に群がる毒虫だろうと、枯れた草木だってそんなこと知っている。

だってそれは、生命としての当然の帰結

喰らうことよりも貪ることよりも交わることよりも、もっと単純で当然の喜び

ああ、ありがとう

いずれ殺す相手に、心の底からの感謝をした。

「僕はいま、”生きている”」


――――――――――

(ジリリリ、ジリリリ)

・・・この音は、だめだ。

はやく、止めないと

「ん、うん・・・う」

触れようとしても、手が空ぶる

どうしたんだろう。はやくこの音を止めなきゃいけないのに。

腕の運動をやめ、少しの間思考した。

よく耳を澄ませてみると、いつもの目覚ましより音が若干遠い。

これは・・・そう。下だ、下から聞こえてくる。

動け、動かないと始まらないのだから。今日の朝を、今日の一日を、今日の憂鬱をかき消すために。


繭糸みたいにへばりついていた毛布を半ば強引にひっぺがす。

下半身を寝た状態にしたまま、上半身をくねらせながらベッドの下に目を向けた。

見下ろすような形になっていたから、頭に血が上る感じがして少しだけ痛い

ベッドの下には、暗闇の隙間と、その隙間で叫んでいる目覚まし時計の姿があった。

寝てる時に、寝返りかなにかで、きっと床に落ちてしまったんだろう。

立ち上がるのもだるいので、見下ろした姿勢のまま床に倒れこんだ。そのまま腕を伸ばす。

(ジリリリ、ジリリリ、ジ・・)

「んん・・・ふああぁ・・がああっ・・・はぁ」

「起きるか」

――――――――――――――

「いただきます」


今朝の朝食はベーコン入りの目玉焼きと味噌汁、それと白米

食器棚にあった適当なサイズの皿の上、そこに適当盛り付けただけの至ってシンプルな朝ごはん。

寝起きにはこれくらいの軽さが丁度いい。どれから食べようか迷ったが、まず目玉焼きに手を付けることにした。

白身の真ん中に黄金に輝いている黄身を少しだけ箸でつくと、黄身はそこの部分だけ丸く凹んで、窓からの光を分散させるみたいに反射させた。

そこからまた少しだけ力を入れると、卵黄膜は音を立てることもなく柔らかく破れた

中のとろりとした黄身が白身の上に垂れかかり、元から旨そうな見た目をしていたのが、更に

食欲を掻き立てる見た目になっていく。

最後に、箸で破いた部分に予め用意してあったソースを少量注いだ。

オレンジがかった黄色と深めの濃い赤が混ざり合い、美しいグラデーションを作り上げている。


「ん…!上手く焼けたとは思ったけど、いつもよりかなり美味いな…」


焼き加減が良かったのもそうだろうが、今日は塩コショウの量も多すぎず少なすぎずで実に丁度よかった。

この完璧な目玉焼きを、ベーコンの油と噛み応えが更に究極へと押し出している

舌の上に広がる肉汁が味蕾を刺激し、添えられた葉野菜の苦みでそれらのバランスを調整していく。

美食って訳では無い、静寂と少しだけ肌寒い風の漂う部屋でただ一人平凡に喰らうだけだったが・・・

だというのに食事っていうのはこんなにも楽しい。朝の憂鬱を吹き飛ばしてくれる。


この勢いを失っちゃいけない、大きな塊の米粒を箸でつまんでそのまま口へ運んだ。

これは普通の白米だな・・・というか昨日炊いたやつの残り物だし。

だがそれも大した問題じゃない。いくら白米が劣化していようと白米は白米だ。

温めてしまえばそれだけで主食になれるような潜在能力を秘めている白米に、残り物というマイナス要素は大した効力を発揮しない。

噛みつぶすことでほのかに感じる甘さ、そしてモチモチとした柔らかいながらも弾力のある噛み応えが、

本能的に快感を感じさせいく。

俺は、無我夢中で目の前の料理を食らった。


「ごちそうさまでした」

目を瞑り、手を合わせる。


あっという間に、それも考えている暇もないくらいに一瞬で料理を平らげてしまった。

我ながら今日の朝ごはんは完璧だったと言える。

重すぎる訳でもなく、かといって少なすぎる訳でもない。朝ごはんとして過不足のないちょうどいい

料理であった。

3カ月前に唐突始まった一人暮らし。それと並行して強制的に作らなければならなくなった自炊だったが、その中でも今日の朝ごはんはベスト5に入る程の完成度だったと言えるだろう。


「さて…」

食器を片付けている途中に時計を見てみると時刻は7時10分を指していた。

ここから学校まではおおよそ30分程かかるが、まだ十分に暇を潰したり、くつろげる余裕はある。

流しに置いた皿を適当に水ですすぐ。

洗うのは学校から帰ってから、夕食を食べ終わってからにしよう。

どうせ一人暮らしで食器の量もそこまで多くないし大した手間はかからない。

だったら3回に分けるより1回にまとめて洗った方が効率がいい。


「ひゅ、ひゅ~ひゅ~♪ ひゅ、ひゅ~ひゅ~ひゅ~♪」

美味しいご飯を食べた後で気分がいいので、この前学校で習った歌の口笛も吹いてみるが、なかなかうまく吹けない。前に図書室に口笛が上手くなれる本があったのを思い出す。図書室で口笛を吹くわけにもいかなかったので結局まともに読まなかったが、今度借りてみよう。せっかくの気持ちを思った通りに表現できないというのは、少しだけ悔しい。


皿を洗い終わって手を備え付けのタオルで拭いた、中途半端に手についたままの水滴が邪魔だったので腕を振り下ろしてそれらを掃う。

これからどうしようか、なんて半ば後ろに倒れるみたいにソファーをクッションにして腰かけた

くたびれたソファーにだらしなく座りながら、天を仰ぐ。

このまま無駄なことを考えて時間を潰すってのも悪くない。明日はついに待ち望んだ休養日だ、休みに入るまでの残り一日を安静に過ごして、休日に元気よく働けるための布石を打っておく。


どうせたかが30分程度の短く儚い猶予でやる作業なんて、まともな進捗を与えないのだから。

だったら少しでも無駄な体力を消費せず温存するというのが賢い人間の選択であろう。


これまでの疲労を吐き出すように、思いっきり息をついた

カチ、カチ、カチ、カチ

中央の壁に取り付けられている時計の針が、静寂をより静寂らしいものにしているのを感じさせる

今だけは自分を焦らせる事も物も、人もこの空間には何もない。それが酷く自分を安心させた。

いつもなら容易く過ぎていく1秒1秒が、今は水に溶けたみたいに、ゆっくり膨張して間延びしていく


カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ

・・・全身の力が抜けていく、目の前がくらやみに染まっていく。

今日の夜は悪い夢を見たせいであまりうまく寝付けなかった

どんな夢、見てたんだっけ。あまり覚えていないけれど、それだとても退屈でくだらない悪夢だった事だけは覚えている。


理性を放棄した動物みたいに、ただひたすら目の前の死骸を喰らっていた。

腹がいっぱいになって、世界が平面になっていくような気色悪さを感じても、目の前の死骸を弄んでいた。いつまでも、いつまでも、いつまでも・・・いつまでかは分からない。それが終わるときはきっと

命が終わるときと同じなんだって事だけ分かる。


夢で本当に良かった。それが夢だからと言い聞かせることが出来るから

万が一にもあり得ない、呆れてしまうような空想だって笑い飛ばせるから。

あの夢がもし仮に現実であったなら、今頃の俺がどうなっているかなんてものを、

想像しただけで心底ゾッとする。


だって、あり得ないだろう。

あのおぞましい光景に立ち会って。血と内臓に溢れた地獄に一人残されて。

この世のどんな苦痛ですら救いになる灼熱に覆われて。

あろうことか俺は、笑みを浮かべていたんだから。


・・・

・・・・・・

・・・・・・・・・

カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ


・・・

・・・・・・

・・・・・・・・・


(プルルルル、プルルルル)

「うわっ!何だぁ?って痛ってぇ・・・!!」


突然どこかから鳴り響いた電子音が、リラックスしていた体中の細胞を呼び覚ます。

急激に意識がはっきりとしていくのと同時に、心拍数が急激に上昇していく。


しかも、飛び上がった反動でソファーのひじ掛けの部分に思いっきり頭をぶつけてしまう始末。

鼻息を荒くして、ぶつけた所を優しく慰めるように三本指で撫でまわした

今の俺の顔を第三者からみればきっと、閉じた右目に一粒の涙が溢れ出ていることだろう。


周りの様態を確認する。

自分の腹の上にかけられた夏用の掛け毛布に、普段あまり使うことのないソファー用の枕。枕には、大粒の涎が垂れている。

そして最後に、そのソファーでさっきまで寝っ転がっていた自分。


成程。ここまで来れば明瞭だろう。

どうやらこの愚か者は、学校に行く直前だというのにソファーに寝転がって、しかもその寝心地の良さに負けて眠っていたらしい。涎まで垂らして、大した能天気野郎だ。


頭上の掛け時計を確認すると、時計の針は7時27分を指していた。

ホッとして、思いっきり息をつく。意識が途絶えるほどしっかり眠ったもんだからてっきり数時間くらい寝てしまったのかと思ったが、実際は7分しか経っていなかったらしい。

寝起きで思いっきり動いたせいで息の継ぎ方がぎこちない。吸って吐いてを繰り返して少しずつ息を整えていく。また数秒して、ようやく呼吸と思考がクリアになってきたのと同時に、

俺を叩き起こした元凶に目を向ける。


音からほぼ確信していたがやはりそれは廊下に備え付けてあった固定電話からであった

起きてからおよそ30秒ほどは経ったはず、せっかちな奴ならもうそろそろしびれを切らす頃合いだろうが、電話は未だ鳴り続けている。

第一に考えたのは、欠席連絡もよこさずに授業を休んだ生徒を心配した担任が、心配して連絡をよこしてきたという線。でもこれは違う。遅刻ではないことはさっき確認した時計の時刻が証明している。


時計が壊れている可能性もなきにしもあらず、だがそれもあまり考えられない。時計は購入してからまだたったの3ヶ月しか経っていないからだ。その品も、わざわざ知り合いの時計職人に頼みこんでまで譲ってもらった一級品だ、そうそう壊れることなんてない。


学校からの電話じゃないとしたら、一体どこのだれが何の用でこんな朝っぱらから電話を掛けてきたというのだろう。

誰もが忙しく出かける準備をするようなこの時間帯に、電話を掛けてくるバカが俺の知り合いにいただろうか?

あまり多くはいない知り合いを、寝起きの頭で思い浮かべる。すると、一人だけ心当たりのある人物がいることに気が付いた。まさかとは思うが、確認の意味を込めても一応電話に出てみるか。


(ガチャ)


「はいもしもし。どちら様ですか?」


第一声を出すとともに、緊張で頬のあたりから汗が一滴だらりと垂れた。

乾燥し始めの秋という季節性なのか、それともこんな気持ちのいい早朝から電話を掛けてくる愚か者に

呆れかえったせいなのか、次第に目が乾いていく。


その声を聞いた時、俺は思わず頭を抱えた。思い浮かべた人物が、完璧にビンゴだったからだ。受話器からは聞き覚えのある、甲高い女性の声が聞こえる。


「もしもし日暮くん!!大丈夫!?襲われてない!??生きてる!!?」

電話越しだというのに恐ろしい声量だった。念のため受話器を耳から離しておいて正解だったかもしれない。おおよそ半径10メートル越しの人間にまで聞こえてきそうなその騒音を、朝っぱらから浴びていたら今日一日の精神が持たない。


家の壁を軒並みふっとばしてしまいそうな大声にも参ったが、更に酷いのはその声の内容だ。

どうやら電話相手の視点からしたら、俺は生きてるか死んでるかの瀬戸際らしい。仮に、もう死んでいると答えなきゃならない場合は、どう返事をすればいいのだろう。

・・・確かにうちの家はいつも鍵が開きっぱなしだし、夜中に強盗や暴漢が侵入したらなすすべなく俺は半殺しにされるかもしれない。電話越しの相手もそのことは知っている、しかし、それを心配しているのなら半世紀ほど言うのが遅い。彼女とはお互いに幼年期の頃からの記憶を共有する幼馴染なのだから、彼女と俺の時間の進み方におよそ10年分のラグが生じていない限りはあり得ない話だ。


だとすれば考えうるのは別の線な訳だが・・・。さっぱり心当たりがない。俺の家の上にUFOでも降りたったってのか??それもあり得ないだろう。郵便受けには今日分の新聞は届いていた、そんな世界を揺るがす大事件が自分の住む町に起きたってのなら、新聞屋は夜中に飛び起きてでも号外を作るべきだろう。しかし生憎新聞には至って平凡な内容しか書かれていなかった。どこぞの知らない町で起きた交通事故や、地域の小学校の活動特集とかそんなところである。

彼女の性格だ、このまま会話が続いても俺の困惑には一切耳を貸さずに自分の喋りたいことだけ喋って満足してしまうだろう。

積極的に会話しなければあっという間に言葉の波に飲まれる。

ここは一つ、俺の方から会話を切り出さなければ


「何を言ってるかさっぱり分からないけれど、俺は襲われてなんかな・・・

「良かった!!!念のため今からそっちに向かうね!!!!」

(ツー、ツー、ツー)

「な、おいちょっと待てって・・・切、切れてる・・・?」


なんて奴だ。掛けてきた側が何の要件も言わずにただただ謎に自己満足して終わるなんてあり得ない。

しかも置き土産で余計な約束事を取り付けて。いたずら電話の方がまだ実害がないだけマシだ

せっかくこっちから要件を聞こうとしたのに、それすらも無駄な徒労で終わるなんて。

ある意味次元の違う生物だ、到底人間如きのちっぽけな抵抗じゃ対応のしようがない位にその無遠慮さは凄まじい。街一個消し飛んでしまってもおかしくない。


「念の為って・・・なんなんだ本当に。」


今から家に向かうなどとという、勝手かつ急すぎる速度で取り付けられた約束にどう対応しようかと頭を悩ませる。朝食から摂取したブドウ糖がまだ脳みそに届いていないせいなのかあまり頭が周らない。


確かにさっきまで、仮眠どころではない思いっきりの熟睡をかましていたとは言え、電話の音で起こしてくれたという出来事には感謝しなければならないとは言え、

もう朝食まで食べて即刻学校に向かう段階だったというのに、ただ一本の電話でそれらの予定が

粉々に崩れ去ってしまった。


せめて家に向かっていいかどうかの了承を取るのが人間社会においての最低限のマナーなんじゃないのか?そもそも彼女の家は規律正しい由緒ある教会のはずだ。

本来なら教会の娘というのはもっとまともで誠実な人格に育つべきじゃないのか。穏やか且つ建設的なコミュニケーションをし、時には荘厳な声で民衆を導く。祈りを捧げるときは誰よりも真剣に、静寂と暖かい黄金の光を浴びながら、今日も神への感謝を伝える・・・


ここまでイメージ通りの修道女になる必要はないが、少なくともこれらの要素をバランスよく取り込める環境に身を置いているはずなのだ。

だというのに実際に生まれてきたのは、信仰心という天秤が地面にめり込み、他人への配慮という天秤が空中に放り投げられているかのような、極端な人格の女だった。

遠い幼少期の頃から最新の出来事まで、彼女と過ごした数多くの記憶を思い出す。


彼女との出来事を振り返ってみて最初に思いつく印象は、神の教えを忠実に守る真面目な修道女といったところ。

祈り事と神学、勉学や体術には至って真剣に取り組み、数多くの優秀な生徒の中から頭一つ飛びぬけて優秀な成績を残す。アカデミーが開校して以来、未だ10人にしか授与されなかった最高ランクの勲章を授与した。

困っている人を見捨てず誰彼構わないで厄介ごとを見つけては引き受け、そしてあっという間に解決してしまうため、教師と生徒からの慕われようも凄まじい。特にその完璧超人ぶりと爽やかで凛々しい顔立ちから、学校中の女子の目線をことごとく男子から搔っ攫っていた。

いずれの輝かしい功績により、中等部でつけられたあだ名は『アルカディア街の漆黒天使』。

彼女の艶のある黒髪と、呆れてしまう程に奥深いとされている他者に対する慈愛の心、そして神父の娘であるという理由からそのようなあだ名が付けられた。


これが表向きに話されている彼女の評判である。こう見ればマジでパーフェクトだ。ああほんと、どうして本性がバレないのかと舌打ちしたくなる位に。


実際の彼女に、善意や思いやりなんてものは一切ない。彼女にあるのはただどこまでも真っ直ぐに屹立された異常な信仰心だけ、本当にそれだけなのだから。

彼女が勉学や体術を頑張るのも、それは御言葉にそう言った内容の言葉が書かれていたからである。

彼女が立派であろうとするのも、他人を助けようとするのも、聖書物に記された内容を実行するための副産物に過ぎない

確かに神の言葉を実際に遂行するというのは大変道徳的かつ信仰心が強い事の表れであり、すばらしい事だ。神の言葉といえど、それら全てを網羅するのは困難を極める。


だが、逆に言うと彼女は神の教え以外のしつけや社会常識やら何やらを完璧に行動

そりゃ確かに神の教えの中に、『大声で電話を掛けた後に、無理やり家に押しかけてはいけない』などという限定的すぎる項目は存在しないだろうが、かといって項目に書いていない事以外だったら何でもしていい訳じゃないだろう。行間を読め行間を!!


何度も、何度も彼女は神の言い付けを守るために強引に俺をボロ雑巾みたいに振り回してきた、同様に振り回されてきた。こっちの事情を鑑みることを一切なく、ひたすらに疲弊と回復を繰り返すことを余儀なくされ事が終わる頃には俺は教会の医務室で貧血か疲労困憊でぶっ倒れている。

元気快調になって彼女のもとを訪れれば、ケロッと笑いながら素直に感謝を伝えられるもんだから文句も満足に言えない。ギリギリと歯を噛みしめながらなんとか怒りをこらえるのが毎度のオチだ。


思わずため息をついた。彼女にではなく、自分に。


・・・大変憎らしいことだが、彼女からの電話が無かったら俺はこの部屋でずっと寝ていた可能性が高い。

これが恩かどうかと言われたら首をかしげるし、何なら彼女の方はそんな事意図もしていなかっただろうが、だが、それでも寝過ごしたまま学校をサボってしまうという自分では解決しようのなかった運命をねじ曲げてくれた事実は変わらない。


仕方がない。まだ学校に行く時間はあり余っているし、彼女の家から自分の家までは徒歩でおおよそ10分の距離だ。待つ必要もそこまでないと予測できる。早朝からあのテンションの高い人間と会うというのはかなり気が滅入るがここは大人しく待っていることにしよう

―――――

それから10分程経って、家のインターフォンが鳴った。

「今開けるから、ちょっと待っていてくれ――――」

待っているしばしの間は暇だったので趣味の機械いじりをしていたが、正直10分という短い時間ではそこまで大した作業にはならない。一昨日から作り始めた自転車のねじを数本外しただけであっという間に10分は過ぎてしまった。続きは帰ってからでいい。

工具を作業台に置く。工房の扉を開けようとしたが、床に置いていた鉄材が引っかかって絶妙に開かないので小さい窮屈な隙間に潜り込むことで何とか廊下に出ることに成功する。


ここから玄関までは10メートルもないが、待たせている以上早く玄関を開けた方が良い。

小走りで靴置き場まで移動する。靴を履くのが面倒なので、半ばくるぶしが出ている状態で

ぎこちなく歩いてドアに触れた。玄関の鍵を開けるとそこには・・・

(ここら辺で立ち絵表示、ゆっくり、可愛い感じで)

そこには黒髪を一本結びにした女がいた。

「わああぁぁ!ひーちゃんが私のために鍵を開けてくれるなんて・・・!感激・・・!」


天真爛漫にその潤った瞳で見つめ、神に祈るかのように手を組みながら彼女はそういった。

「えっと、別に・・・開けない日は無かったと思うぞ。天川。あとひーちゃんって呼ぶな。」

とんちきな言い分に軽く小突いてみる、特に彼女の方から反応はない。

彼女の名前は天川(あめかわ)である。


この読み方は少々特殊なものだそうで、本来は『あまかわ』や「あまのがわ』と読むらしい

彼女はこの無駄に読みにくい名前のことを自慢げにしている。どういうポリシーなのかはよく分からない。お互いが子供の頃、俺が名前を読み間違えると嬉しそうに眉をひそめ人差し指を立てながら訂正してきたのを覚えている。ムカついて彼女の自慢げな人差し指を思いっきりへし折ったら彼女は喚きながら泣いていた


「ねえねえ、苗字で呼ばれるのも嫌いじゃないけど、普通に名前の補翼でいいんだよ?せっかく私達幼馴染なんだからさ、ね?一回呼んでみてよ。補欲ちゃんって。」

「その『ひーちゃん』って呼び方をやめたら考えるよ。子供じゃねーんだからさ」

「えーーー!それは絶対ダメ!!ひーちゃんって呼ぶの癖になっちゃって直せないんだから!」


いつからかは分からないが、天川は頑なに俺のことをひーちゃんと呼び続けている。流石に最初からひーちゃん呼びではないとは思うから、多分幼少期のどっかのタイミングでこの呼び方になったとは思うんだけど・・・いやでも天川の性格だ、意外と最初からひーちゃん呼びかもしれない。

仮にそうなら呼び方を高校生らしく矯正するのにはかなり骨の折れる作業になる。


「そりゃ嘘だろ天川、神父に俺の事を喋る時毎回『日暮くん』呼びの癖に。なあ天川、日暮くん呼びに変えてみないか?そっちの方がしとやかで断然いいよ。今の呼び方じゃまるで天川がお母さんみたいだ。もう高校生なんだしいい加減変えようよ?天川。」


「あのさぁっ!さっきからわざと天川って言ってるでしょ!!意地悪!」


「・・・?いやごめん。別に意識してなかった」

「ねえ噓でしょ!?何でそんな変なところで馬鹿になるのよ!突っ込んだ私がバカみたいじゃない!」

「いやごめんって・・・てか馬鹿馬鹿うるさいぞ」


一応この子、教会のとこの娘なんだけどなぁ・・・言葉に品性があまり感じられない。いや、品性が無いというよりは裏と表の顔が激しいだけなんだが・・・実際初対面の人と話す時や、礼拝のタイミングでは真面目そのものだし、多分それが本来の彼女なんだろうが。

どうも幼馴染である自分の前では気が緩むらしく、怒ると普段の振る舞いより7割増しで暴言が多い。別にそれが嫌な訳では無いし、なんならそれは彼女にとっての距離が近い事の証でもあるから、むしろ嬉しいまであるが。だがふと我に返ると呆れてしまう・・・そんな時が今である。


「む・・・確かに言い過ぎたかも・・・って、いいよ別にそんな揚げ足取らなくても。話が進まないでしょ・・・あ、ねね。昨日お風呂入ってる時に思いついちゃったんだけど、揚げ足取りってかなりフライドチキンみたいだよね。揚げた足に鶏までついてるんだもん・・・!」


「話を脱線させてるのはお前だ・・・。いや確かにかなりうまく出来てるけども」


「確かに ”うまい” よね・・・!フライドチキン」

「さっきからうるさいぞガキ!!」


・・・俺と話すときの天川は暴言が7割増しで飛び出るのと同時に、子供らしさも8割増しになるという事が今更記憶の中で回帰した。久しぶりに話すもんだから彼女と話すときの感覚って言うのがすっぽり頭から抜けている。


天川とまともに話したのって3カ月くらい前だ。これに関しては喧嘩別れをしたまま互いに口を利かなかったままだとかそういう大それた理由じゃなくて、互いに度重なる仕事と学業で忙しかっただけである。合間を縫ってちょくちょく機会を見つけては少しだけあいさつ程度の会話だけはしていたけれども、どうやら俺はその空白期間の間にすっかり天川の性格を忘れていたらしい。


「別にガキって言われてもいいんだけどね?実際ガキなのは事実だし。うんうん。まあとりあえず、今はひーちゃんの安全が確認できただけでも満足かな」


少し不満げに唇を尖らせながら彼女はそう口にする。横になっている彼女の顔、髪に朝焼けの光が当たっているおかげで、その艶やかでまさに漆黒と言っていい黒髪とが綺麗なコントラストになっている。

彼女の手にはスクールバッグが握られている。俺が学校に行くための時間を絞ってまで彼女と会ったように、彼女もまた俺に会うために時間を割いてくれたという事だろう。


「・・・ん、ああそう。まあ心配してくれたのは嬉しいけれどもさ。」

「っ・・・。ふふ、はーい♪どういたしましてっ」


不満げな彼女の機嫌を取るため、もとい彼女も彼女なりに対価を払って俺に会いに来ているという事に少しだけ許せてしまったからか、さっきまでのいい加減な態度への寛容の意味合いを込めて、普段あまり言うこともない感謝を伝えてみる。

天川はそれが意外だったのか一瞬だけ目をまん丸にした後、分かりやすく満足気な笑顔を浮かべてとびきり愛嬌らしく玄関前の手すりに寄り掛かった。顎を上げて謎の鼻歌を歌いながら、ゆったりと弧を描くかのように揺れている。

その平和な光景をみて、ふと頭の中にひとつの疑問が浮んだ

浮かんだ、というよりはさっきまで思い浮かべていた疑問を思い出したというのが正しいのだが。

その疑問っていうのは、普段おちゃらけている天川が電話越しで何をあんなに焦っていたのかという事である。


今の彼女の元気一杯でのんきな姿は日常生活において普段通り彼女に限りなく近しい、しかしそれはあくまでも今の話である。

現在からおおよそ10分程前の彼女は、何を思って俺に電話をかけて、何を感じてあんなに声を荒げていたのか。

いくら天川が俺に対して過保護だからと言ったって、何の理由もきっかけも無くただ安全確認がしたかっただけってのはあり得ない。少なくとも彼女か俺にとっての非常事態が起きたという事じゃないだろうか?

なんだかんだ根がまじめなやつだと知っているから分かる、彼女は悪ふざけでこんなつまらないことはしないと。それが一体どんな理由かは分からないが彼女なりに心配をしてくれたという事は明らかだ。


だとしたら、天川が俺みたいなろくでなしを心配して会いに来てくれたというのなら、天川の意志を無下にすることは出来ない。

朗らかな雰囲気になっているが、ここは訊いてみなければならないだろう。


「で、どうしたんだよ天川、俺が襲われてるかどうかなんて妙な事聞きやがって。らしくもなく随分焦った様子だったけど」


できるだけ自然に、空を見上げながらぶっきらぼうに呟いた。

ここでの会話はそもそも天川からの電話一本で始まった。だからこの質問をすることは

極めて自然なはずだ。むしろ本題と言ってもいいくらいの、天川もそれ位聞かれることを想定しているだろう、ありふれたもののはずだ。はず、なんだけど・・・


「ん、、、?あっいや。そ、それは―――!」


・・・訳を聞いた途端に天川は、身体を硬直させ、目を伏せて口をもごもごし始めた。いつもなら羽よりも軽薄な言葉がスラスラと出てくる彼女の口が、今では上唇に重りを乗せられたみたいにぴったりくっついている。

異様で不自然といったピッタリ当てはまるような彼女の反応に戸惑う。

何故。今の質問のどこに彼女を黙らせる要素があった?至って普遍的でありふれた問いのはずだ


「なあ、おい天川」


口黙っている天川を凝視する。俺の声に気づいた天川は少しだけ気まずそうに目を反らした。

・・・怪しい。怪しすぎる。

人は何かの隠し事がバレそうなとき、心理的に目が泳いだり、焦って支離滅裂な言動をするものだが、

天川はそれがとくに顕著だ。

怒った時は誰よりも声を上げ荒ぶり、嬉しい時は誰にだって分かるように身振り手振りで幸福を伝えようとする。普段からそう振舞っている彼女にとって、秘密を悟られないようにするというのは不可能と言っていい。

今の彼女が、何か秘密にしなきゃいけない事情を抱えているという事は明白だった。


・・・いや、そうか。だからなのか。

だから彼女は、口を開けようとしないのだ。

感情が表に出やすい事を理解している、偽りを演じることなんて以ての外であると。

彼女が口を紡ぐという行為は彼女にとって最後の抵抗なのだ。断固として秘密を喋る気はないだろう

それはなんともシンプルで幼稚なものだが、これ程強力かつ厄介な手段もない。

流石優等生実力だけ見れば優等生。考え着くことが如何にも小賢しいかつ人を煩わせるものになっている。


つまり勝負はもう既に秘密がバレるバレないの領域を超えていたのだ。

如何にしてこの閉ざされた口をこじ開けるか、それとも閉じ続けるかの戦いへと。

・・・恐らく無理やり吐かせようとしてもフィジカル負けしてしまう。

服越しだと分かりにくいがこう見えても彼女はかなりの筋肉質だし体術もトップクラスの成績だ。

普段薄暗い部屋でネジを回しているだけの俺じゃ到底かなわない。


子供の頃に一度だけ殴り合いの喧嘩をしたことがあった。とても壮大で大人も手を付けられないくらいの大喧嘩を。

騒ぎを聞いて駆けつけてきた天川の親父さんが見たのは、傷一つつかず仁王立ちしている天川と、

全身あざだらけで鼻血をだしてぶっ倒れている俺。

そのあと教会の医務室で治療してもらった後無理やり仲直りさせられたのを覚えている。


肉弾戦で無理ならどうにかして心理戦で彼女の口を割るしかないのだが、尋問術なんて何にも学んでいない俺にとってはそれすら無謀であった。


もういっそこのまま別の話題に切り替えてしまおうか。

所詮、人なんて秘密を抱えているのが当たり前なんだ。それを言いたくないのなら踏み入らなくたっていいじゃないかと。

いくら幼馴染だからといったって、所詮は他人なんだし。そう、所詮は・・・


『やめてよね日暮くん。私のことなんて、放っておいてよっ・・・』


―――所詮は、他人なんだから。

その台詞はあの喧嘩が起こった日に、彼女が言った言葉じゃないか

冷たい彼女の視線が、いつまでも脳裏にこびりついている

彼女の助けになりたいだけだった。彼女が俺を救ってくれたように、救ってあげたかった

だけど突き放されてしまった、今になればそれは当然だったと思う。結局のところあの時の俺は自分の事しか考えてない自己中心的な子供でしかなかったのだから

彼女を救うために彼女の不幸をダシにした。最悪に浅慮で馬鹿などうしようもないろくでなし。

昔と比べたら多少力はついたけど、結局今もその醜さは変わっていない。


必死に食い下がって、喧嘩して、お互いに泣きながら謝って。

やっと元のように喋れるようになったけれど。結局のところ俺はあの時、彼女の力にはなる資格すら無かった。


そうか。

自分でも気づいていなかった、気づきたくもなかったけど、

俺の心は、まだ彼女の助けになりたいと思っている。

―――いや、それも違う。助けたいだなんて自己保身に走った言葉で終わらせちゃいけない。

そんなのじゃ昔の俺と一緒だ。

彼女が一体どんな秘密を抱えているのかを、今度こそ知りたい。

それが例え彼女にとって要らないおせっかいだったとしても、迷惑をかけることになっても。


一体その秘密っていうのはどれだけ奇異で、どれだけ壮大で、どれだけ退屈な物なのか

どうしてその秘密を、俺に打ち明けようとしないのか。


目を開けて、再び天川をじっと見てみた。

こうして押し黙っている彼女の姿は、違った美しさがある。普段口うるさいギャップもあってなのか

静かな彼女の振る舞いに、自然と目が引き寄せられてしまう。

その佇まいを見て、確実と言えるほどではないが十分に勝算のある方法を、

彼女の顔を振り向かせる方法を思いつく。

これならいけるかもしれない。普段人を振り回す事しかしない彼女にだけ通用する、彼女を振り回すとっておきのカウンターを。


丁度ズボンの左ポケットに携帯電話があったことを思い出す。

彼女は右を向いているし慎重に動けば十分気づかれずに取り出すことが可能だろう。

音を立てないよう、こっそり携帯電話を親指と中指でつまんで取り出す。まだ天川は気づいていない。

沈黙が続いてからもう20秒程経っているというのに、未だ彼女はもじもじ

天川が一人で悶々としている間にもうスマートフォンのロックを解除してカメラ機能を起動した。後はシャッターボタンを押すだけである。なんと間抜けな女なんだろう。つい嘲笑にも似た笑いが零れそうになるが、気づかれてしまえばせっかくの計画が台無しになるのでなんとか舌を噛んで堪える。

さて、どうせなら彼女が恥ずかしくって思わず悶絶してしまうような。とっておきの一言をかけよう

スゥ――と息を吸って、彼女の耳にしっかり響き渡るように


「天川、愛してる」


ねっとりと俺は囁くのだった。


「!!?はぁ!???!?」

思いもよらない言葉に強く反応した天川がすごい勢いでこちらに振り向いた。

それを俺は見逃さない。


パシャ。

気が引けそうな言葉を適当に選んでみたが、どうやら効果抜群だった。

むしろ効果抜群すぎたせいでついでに取りたかった塩らしい表情は取れず、結局いつもの天川になってしまったのが少しだけ残念だが、これはこれで可愛いのでよしとしよう。

さっきの言葉は別に嘘はついていない、天川は小さい頃から時間を共有した幼馴染だしそれなりに友情はある。尊敬だってしている。

ただ俺は、彼女との友情を確かめるための最もストレートな言葉をド直球に発しただけだ


「目は覚めたか?」


「元から覚めてるよ!!ていうかさっきの言葉は何!?日暮くんが変なこと言うせいで変な声でちゃったじゃん!!」


天川はぷるぷると、身体から怒りが溢れんとばかりに震えている。

変な声、というのはさっきのドスの効いた怒号の事だろうか。確かに純白であるべき修道女、それ以前に乙女と呼ばれるべき年齢と見た目である彼女には到底似つかわしくないものだったが、その不似合いな振る舞いこそ天川を天川たらしてめている。

自分としてはそこに大した違和感を持つことは無かったのだが、どうやら彼女自身は気にしたらしい。


「次はもっと凄い声を出してやる」


彼女の耳にまとわりつくよう、出来るだけ声を低くしながらいやらしい目つきで彼女の顔と見合わせてやった。


「ったく、もう!分かったわよ!!分かったからそのスマホをしまってってば!!あと今の写真も消して!!」


シッシ、そんな擬音が聞こえてきそうな位強引に彼女がスマホを突き下げる。もう彼女にも抵抗の意志はなさそうだった。俺も彼女の命令に素直に従い大人しくいつもの携帯をいつもの定位置に収める。

もちろん写真は消すフリをしたまま永久保存フォルダに入れてやった


天川は今の俺の行動の意味をとっくに感じ取っていたらしい。ため息をついたあとにまた首をかしげて少しだけ悩んだ素振りをしたが、腹をくくったかのようにようやく俺へ目を向けるのだった


「そんなに気になるなら仕方なく言ってあげるわよったく!本当仕方なくね!!まだ教会内の人間しか知らない機密事項だから絶対他言無用!!分かった??ひーちゃん!」


子供でもしかりつけるみたいに天川が人差し指を俺の顔面へ突き出した。

機械いじりをするためにある俺の手と違って、格段に細いスラっとした指は先端だけはふっくらとしていてとてもキュートだ。

強調の意味合いでそういったジェスチャーをしているんだろうが、あまりにも近いので俺の目を潰そうとしているのではないのかと一瞬慄いてしまう。


「分かった、約束する。だからその手をどかしてくれ。この距離だったら天川が簡単に俺の目を潰せてしまえそうだ」

「だめだよひーちゃん。これはひーちゃんが私の秘密を知ろうとした代償なんだから。安心して?ひーちゃんがこの件について関わらないってことさえ分かったらこの人差し指はしまってあげる」


「遠回しに俺が深入りしたら目を潰すって言ってるようなもんじゃねぇかそれ!?」

「片目潰すだけで済んだらいいよね・・・」


「怖いわ、何する気だお前!!というか暴力行為は確か神の教えで禁止されているはずだ。お前がそれを破るなよ!!」

「はぁ??この私が背教行為なんてするわけないでしょ。〈神法第57条2項:教会の秘匿を無理に暴こうとする者に対しては一定の鎮圧行為が認められる〉。神学の授業はちゃんと受けときなさい」


「は、はぁ?鎮圧行為って、おま、それ・・・」

「もちろん『一定の鎮圧行為』に関する説明では、目玉を潰すことはNGじゃないよ。具体的に書かれてるわけじゃないからグレーゾーンではあるけど」


・・・なんて質の悪い神法だ。

教会が出版・発行をしている神法録、神の教えを全て分かりやすく記してあるそれはどの家庭にも必ず一冊は所蔵することを義務付けられている。モラルと社会常識を切り捨てた天川を制御する唯一この世界で決められた絶対法則と言ってもいい。この本で暴力行為の禁止が書かれているから俺は天川と安心して話せるってのに。


第100条まで記されている神法録を完全に暗記している彼女が、もとい熱心な狂信者である天川が神法に関することで嘘をつくはずがない。今彼女が言ったことは疑いようもなく本当だ。この状況において、彼女は暴力を振るうことが許されている。


「分かった?ひーちゃん。幼馴染のよしみで仕方なく教えてあげるけど、本来だったら私に目を潰されたって足を折られたって文句は言えないんだよ?」


ふざけたことを彼女が真面目に眉をひそめながら言いやがるので、俺もすかさず反論する。


「いや、文句は言えるね・・・!そもそも俺は無理やり聞こうだなんてしてないし。その目を潰すって行為も限りなく黒に近いグレーだろうし。神前裁判で訴えたら余裕で俺が勝訴するだろうぜ。」


本能的に、それも反射的に瞼を閉じてしまいそうなくらいに彼女の指先が近い。あと1cmでも彼女が近づけば俺の眼球は簡単に破壊されてしまうだろう状況で、あえて侮辱の意味を込めて思いっきり目を見開いて言ってやった。

彼女はそれを聞くと、一気にスンとして目の前の凶器を下げるのだった。


「ま、そりゃ確かにそうなんだけどね。要はあんまりしつこいと教会への強硬行為として逮捕しちゃうよって話。

・・・指は下げてあげるけど、でも一つだけ反論していいかな?別にひーちゃんの目玉が潰れたところで時遡行魔術かければ治るわけだし、神前裁判でひーちゃんが勝つっていうのはあんまり理論的じゃ無いんじゃない?」


「軽々しいノリで言ってるけど、それ回復魔術よりよっぽど高額な魔術だよな?噂程度でしかそんなの聞いたことないぞ」


「まあ確かに、時遡行魔術を使える人間なんてそうそういないからね。魔術相関の内にも含めることのできない無分類魔術(イレギュラー)だし。一応本教会には時魔術師がいるらしいんだけど・・・教会の重役が大怪我したときなんかの救済措置として役立つからすっごい高給取りなんだってさ」


「やっぱ碌なもんじゃねーよ・・・俺はそんな大金持ってない。」


「そうなった時はパパのコネ使ってなんとかしてあげる。治療費だって払うしさ。それに私これでも本教会にはかなり高い評価もらってるからさ、治療してもらえるかどうかは問題にはならないんじゃない?」

「ああそうだったな、火魔術の威力に関してはお前天才だもんな。魔術適正は性格がよく現れるって話は聞くけど・・・その通りだと思うよホント」


「えへへ、日頃の祈りのおかげかなぁ」

「別に褒めたつもりもないんだが・・・」

天川と俺が中等部に入学してすぐの頃に行われた魔力量測定テストにて。本来12歳の出せる魔力量なんて大したことはないと過信していた教師たちは思い知る事になる。世の中どこにでも例外はいるのだと。12歳にして成人の魔力量を、常日頃から積み重ねた祈祷によってとっくのとうに凌駕していた天川輔翼という淑やかさのカケラも無い修道女がいることを。

魔術を広い平野で使えるという機会にあろうことか張り切ってしまった彼女は、それはもう飲み込まれてしまいそうなくらいに壮大な、かつ鉄をも溶かす高音の炎を空中に描いたという。

俺はその時別の授業を受けていたので知らなかったが、その時は大変なボヤ騒ぎになったらしい。


それ以降、彼女は神童と周りの生徒から持て囃され、アカデミーは翌年から魔力量測定テストに一級の魔術師を教会から呼び込まねばならない事が規則になったらしい。


「でも天才って言ったらひーちゃんもそうでしょ。まだ学生のくせにアカデミー所属の技術講師にまでなっちゃってさ。」

「別に・・・確かにそれは事実だし俺なんかじゃ不釣り合いなくらいにありがたい評価してもらってる。それでも、お前らの出来ることに比べりゃちっぽけなもんだよ。所詮俺は親の七光りだしな。」

「きゃー!謙虚なひーちゃんもステキ!!幼馴染の男の子がこんなにかっこいいだなんて私恋しちゃーう」


「調子のいいこと抜かしてんじゃ・・・なあ待て。今の冗談は何割がホントだ?」

「1厘はホントだよ?」


99.9%は嘘じゃねーか。

引っ叩いてやろうとしたものの、フィジカルでは勝てないことを思い出して振り下ろしかけた拳を収めた。俺みたいな貧弱人間が出せる全力で腕を振り下ろそうとした所で天川からそんなのはハエが止まるスピードだろう。容易に片手で止められてその後鳩尾に拳が入り込むのが容易にシュミレーションできた。


いつもの戯言だとは分かっていたけれども、万が一にも天川が俺に恋してるだなんてことあり得ないとしても。というかそもそも天川に好かれてるかの真偽なんて心底どうでもいいとしても。

それでもちょっと、そういうこと言われたら確かめたくなっちゃうじゃん・・・?

彼女から発せられた言葉にガックシを肩を落としていると、天川が少し上目遣いに覗き込んで聞いてくる。


「・・・なんか話が脱線してる気がするからそろそろ本題話していい?私もひーちゃんもそんな時間ないしさ」

「あ、ああ。取り乱して悪い」


「・・・取り乱してたんだ?」


天川が少し呆れ気味に眉を顰めて一瞬だけ笑った。

それから少し目を逸らしたかと思うと、一回だけ瞬きをした後に再び俺と目を合わせる・

さっきまでの温和な笑顔は消えて、その瞳には憎悪と軽蔑が入り混じっていた。さっきまで俺に向けられていた笑顔とは対照的な、どす黒い感情を。

ゆっくりと、それでいてどこか憂鬱そうに彼女は語り始めた。


「・・・それじゃあ話すね。話す内容っていうのは、私がわざわざひーちゃんの家にまで来た理由。それが訊きたかったんだよね?」


「まあ、そうだよ。正確にはなんでわざわざ俺に電話をかけてしかも何であんなに焦ってたのかって事だけど」


「うん、それなら話す内容は変わらない。私がこれから話すのは、近頃教会を騒がしている事件についてだよ」

「・・・事件、か。」


正体不明の悪寒が走る。それが彼女の憎悪に満ちた表情が俺を不安に陥れているのか、今朝の悪夢のことを思い出してのものなのか俺には分からなかった。

とにかくその話は、あまり俺にとっていい話で無いこと。それだけは本能的に、うんざりする程理解できた。

彼女の話は続く


「・・・まあ、端的に言ってしまえば殺人事件ってヤツよ。それもとびきり最悪で、既に死亡者が9人も出たって話。教会ではもう毎日それで話題がもちきりでね。こっちも毎日その話をパパから聞かされてうんざりしてた。必要なことではあるんだけどね。」

「殺人事件・・・。それにお前んとこの教会にまでその話題が持ちきりっていうことは、結構近くで起きたってことか。」

「うん、最初に事件が起きたのは3個隣の街でね。犠牲者は教会所属の修道士。事件が起きたのは・・・夜の教会の敷地内だってさ」


「・・・ぁ?」


思わず口から声にならない驚嘆が漏れ出る。

淡々と彼女は深刻そうな顔で告げていく。嘘をついている様子なんて一切ない、ありのままを真実をただ機械的に口から発していった。

だからこそ俺は彼女の最後のセリフに酷く戸惑った。

天川が殺人事件といった時確かに動揺こそしたもののそれは俺にとって大した問題では無かった。天川の様子からそれがある程度重大な事件であることは覚悟していたからである。

そして教会所属の修道士が殺されたというのもまた奇妙ではあるがまだ呑み込めた。

しかし、殺人が教会内で起きたと彼女は言った。それはあり得ない。


教会の敷地内というのは基本的に神からの魔力で強力な結界が貼られている。夜間は教会の関係者又は教会関係者に招かれた客人しか通ることのできない仕組みになっている。そのため一般人が結界内に入るのは不可能というのが世の認識だ。

そもそも結界は物理的な力に作用されず、外側にはとっかかりが無いため殺人鬼が侵入するのは不可能のはずだ。それは鍵穴の無いドアをピッキングする事に等しい。

結界を外側から破る方法として、結界の性質に対応する膨大な反魔力をぶつけてやれば魔力が中和され結界に穴が空くということが魔法学では理論上の証明されてはいるものの、それを一人の力で実行するのは不可能だ。300人以上の人間が同時に魔力をぶつけるなんて目立つ事をしない限り。

となればあとは結界の構造を理解し、それらを内側から紐解くしかない訳だが・・・そもそもそんな事できるのは・・・


「うん。ひーちゃんの想像通り、犯人は教会内の人間しかいない、そういう事だよ。」


彼女は苦しそうに、キッパリと言い放った。


「教会内の人間が最低でも殺人鬼に結界の解除を計画的に手伝ったって事になる。でもその可能性もかなり低い。結界の作動と解除は教会のシステムで自動的に行われるし、その日に偶然結界を貼り忘れてたなんて事はない。結界を内側から解除するのだって、そんなのはかなり教会の研究をしないとできないことなんだ。わざわざそんなハイリスクな事をして殺人に協力するくらいなんだったら・・・」


確かにそんな手間のかかることをしてまで殺人を補助するのはリターンが少なすぎるように見える。

直接的な犯行に及んでいない分の減刑や犯行の露呈に対するリスクを加味したものだったとして、そこまで手の込んだことをするのは考えづらい。内側から結界を解除するのは一級の魔術師でも難儀なもののはずだ。

教会の魔術師なら確かに優秀でまさに一流と言って差し支えない者がそれなりにいるだろうし不可能ではないだろうが・・・

他人に殺人の責任を押し付けるために、そんな計画を企てたのだとしたら。

衝動的な殺人より、むしろそっちの方がよっぽど醜悪でおぞましいじゃないか・・・。


「教会内の人間が、教会の人間を・・・。いやでも、待てよ。天川。もしかしたらその日に客人がいたなんて可能性もあるんじゃないか。そいつが殺人鬼だって可能性も十二分にあるし、なんならそっちの方が」


「残念だけどその日の夜は客人なんて誰一人寝泊りなんかしてなかったよ。強いて教会関係者以外を言うなら教会で保護している養子ぐらいなものだけど・・・まさかひーちゃん。子供たちを疑ってる訳?」


ジッと天川が俺を見つめる。


「あくまで可能性の話だ。そんな怒らないでくれ・・・てかお前って、そんな子供好きだっけ」


予想外の話の展開の仕方に動揺して、会話の中で気になったを俺も半ば無意識に関係のない話をしてしまった。


「別に好きでも嫌いでもないけど・・・私下の子たちとはよく一緒に遊んでるし、愛着ぐらいは持ってるよそりゃ。ひーちゃん私をなんだと思ってるの?」


「いやだって天川、同年代の教会の子供の事はめちゃくちゃ嫌ってたじゃん・・・」

「あの子達に限って話は別、私の友達の凄さを理解せずに虐めてた低能なんて嫌いになるに決まってるでしょ。普通に私と、私の親しい人に害を加えないんだったら嫌いになんかならないよ」


「・・・そりゃどうも。」


平然とそんな小恥ずかしい事を目を澄まして彼女が口にするもんだから、俺は言葉が出てこなくなって小さく感謝を伝えることしか出来なかった。この人間に恥じらいという概念が存在しない事は知り合ってある程度が経った頃には分かっていたことだが・・・いつまでも経っても慣れない。

ああ、ダメだ。また本題からずれている気がする。俺がするべきはこんな甘ったるい感情に心を満たされてにやける事なんかじゃない。

冷静になれ、日暮守。いつもみたいにクールな佇まいを保つんだ。


「俺が言いたかったのはそんな事じゃなくてだな・・・あーえっとつまり、仮に客人がその日に居なくたって、例えばその三日前なんかに招かれた客がずっと教会のどこかで潜伏して殺す機会を伺っていたとしたらって話だよ。どうだ?これなら十分にあり得るだろ」


すると天川は、ハッとした表情を浮かべた後に少しだけ手を顎に当て考えるそぶりをした。

最初はもしや俺の思い付きが事件への解決の糸口になったかと期待したものの、その後の反応でやっぱり違うかもしれないと少しだけ落胆する。

なんとも微妙な反応をされたもんだからどう反応しようかこっちも困惑した頃に、ようやく彼女が口を開いた。


「確かにひーちゃんのその推理ならそこそこ筋が通るかも・・・。いや疑問点は何個か思い浮かぶけど・・・うーん」


「はっきりしないな・・・。何か問題点があるなら言ってくれ、些細な事でもいいから」


すると天川は、またしても微妙だと言わんばかりに声を唸らす。

白黒つかない彼女の態度にまた少しだけ気をもんでしまう、何が彼女をここまで困らせるのかとつい探ってしまいそうになる。


「えっとね―――。疑問点はいくつか思い浮かぶんだけど正直まだ私もそれらに確信が持てないっていうか・・・一度教会の方に連絡を取ってみないと分からないというか・・・。それに、今はあくまでどうして私がひーちゃんに電話を掛けたかって話の途中だから、今のひーちゃんの推理は後日また整理してからでもいいかな?」



「まあ、それなら構わないけれど・・・ていうか、まだする話があるのか?殺人鬼がこの街の近くにまで来てるって事でもう十分お前が電話を掛けた理由は理解できるぞ」


彼女の理路整然とした物言いに納得するしかなかったため仕方なく彼女の言い分に同意する。

まだこの話に続きがあるという事に少しだけ不安を募らせるが、それは彼女の言葉を待つしかない。大人しく腕を組んで彼女の次に発せられる言葉を待ち惚けた。

一拍を置いて彼女がまた話し始める。


「うん。むしろこっからが本題だと言ってもいい。9人も被害者が出たって言ったでしょ?私が今話したのは一人目に過ぎないんだから。・・・そもそもねひーちゃん。なんで9人の遺体が同じ殺人鬼によって行われたって分かると思う?」

「そりゃ、短期間かつ狭い範囲でそんな大量の殺人が行われたんだから、同じ気狂いがやったって推測にはなるんじゃないか?」


「まあ確かにそれはそうなんだけど・・・。でも、もっと明確な証拠があるんだ、それはズバリ遺体の状況だよ。」


・・・なるほど。前に何かの推理小説で読んだことがあったが、連続で人を殺しまわるようなシリアルキラーは被害者の近くまたは被害者の遺体に犯人が誰なのか分かるよう何かしらの痕跡を残すものだと。確かあの小説の中での遺体には多数の切り傷と、まるで人体解剖学に深い知見を持ったかのような鮮やかな内臓の摘出跡。世間の不安を煽るかのように新聞社やポリスに挑発の手紙を送りつけるという特徴もあった。あの小説は創作上の出来事だとされているが・・・もしや本当にそんな殺人鬼が現れたとでも言うのか?


「天川、教えてくれ。その殺人鬼に殺された被害者の遺体には何が・・・」


それを聞いた途端に天川は顔を伏せ、心底悔しそうに唇を噛みながら殺人鬼に対する怒りを現すように目を鋭くさせる。まるで信じてきた物に完膚なきまで裏切られたかのような、そんな深い軽蔑と暗雲が彼女の目には宿っていた。それが何を意味するのかは分からなかったけれどそんな彼女の姿を見て居ても立ってもいられない気分になる。


「天か・・・」


「被害者の遺体には、全ておおよそ身幅3㎝のソードか刃物でやられたような深い切り傷。最初の被害者は頭を、二人目の被害者は脇腹を深く切り付けられてその後押し倒されたかのように首元に一閃の傷跡。酷い遺体だったら下半身と上半身、上半身から首がまた完璧に分断されてたって話だよ。

そしてとどめの一撃だとでも言ってるみたいにどの遺体にも心臓に銀製の杭が肋骨を通り抜けるかのように完璧に刺さっていた」


彼女の説明での遺体の説明は、想像以上に残酷で理解不能なものだった。

まるで気遣いなんか要らないといったように俺の呼びかけを無視して彼女は語気を強めたまま話し始めた深い切り傷という点では小説で読んだシリアルキラーの特徴と合致するものの、銀の杭が心臓に刺すというような話は噂でも本でも聞いたことが無い。わざわざ銀の杭で心臓を刺す意味も目的も全く見当不可能だ、最もその殺人鬼には目的なんて無いのかも知れないが。

他の手がかりがいる、そう例えば・・・


「なあ天川、遺体の近くには手紙なんかが残されていなかったか?手紙じゃなくてもいい。文字でも記号でも。なんなら遺体の近くじゃなくて、教会に不審な手紙が届いたとかでもいい」


腕上げたかと思ったら今度は両方の手のひらを開いて、見透かされたという風に軽く口を開けて『わお』と衝撃の気持ちを露わにしたのだった。


「・・・丁度それを言おうと思ってたんだ。ひーちゃんっていっつも私が言おうとしたことを先回りするよね。おかげで私の見せ場がどんどん無くなっていく・・・じゃなくて、うん。その通りだよ。心臓に刺さっていた杭にはあるメッセージが彫られていたんだ」


「そのメッセージって言うのは・・・?」


ごくりと喉を鳴らし天川の目を見つめる。暫く喋っていたのと金鳥のせいで喉の潤滑が悪い、何か喉の奥に異物が詰まっているみたいだった。


「Artemis ha(神の許に)s forgiven(あなたは贖われた)。銀の杭にはそれだけ彫られていた。本当ふざけてるよね・・・神の信徒を殺した挙句それが神の意志だなんて・・・」


Artemis has forgiven・・・本来それは神前裁判や罪人が解放されるときに告げられる神聖な言葉。

その殺人鬼は、自分が神の代行者、もしくは神自身だとでも言うのか・・・?

全くふざけた話だ。俺はともかく、16年その身を懸命に神へ捧げてきた天川に対してそれらの悪辣とした行為は到底耐えられるものなんかじゃない。

他人事って訳じゃないが・・・俺は別にそこまで神を信じている訳じゃない。神の姿なんか見たこともないし、神の奇跡なんてものすら俺は一度も体感できなかったのだから。

それでも、そんな俺でさえも神の代行者を偽るその殺人鬼とやらには天川が苦しんでいる分だけ怒りが沸いた。


「でもね、本当に腹立たしいのはそんな事じゃない、問題は傷の跡なんだよ。」

「・・・は?まだ何か、あるってのか・・・?」


「被害者の遺体を検死した結果、奇妙なものが見つかったんだ。どの傷跡の肉や骨、血液なんかを調べてみるとさ・・・そこには魔(・)力(・)晶(・)が大量に付着していた」


魔力晶・・・いま天川は確かに魔力晶と言ったのか?

耳を疑ったが、残念なことに天川のハッキリとした声はどう頑張っても間違えようが無かった。

魔力晶自体は至って平凡な世の中にありふれている現象、言ってしまえば魔術を使った際に周囲への物質に起こる変化のことだ。炎魔術なら物質に熱エネルギーが加わったり、あるいは有機物が炭化してしまったりなどする。

しかし、前提としてそれが適応されるのは物質に限ったことである。俺を除いた魔術回路を持っている人間には神による魔力反射機能が備わっているため魔術で人を殺すだなんて事は不可能のはずだ。

だって言うのに・・・殺害のために魔術が使われていたことを意味する。

仮に魔術による殺人が行われたんだとしたら・・・それは魔法学の根底から覆される事態にも匹敵する。

いや、問題はそんな事じゃない。

魔力反射機能は魔法学的観点で言うと神が人間に与えた祝福のはずだ。

そして、心臓に刺されていた十字架には、まるで自分が神の代行者であるとそう書かれていた。

つまりそれは、神が・・・


「天川、それってまるで・・・」

「やめて」


「いやでもさ、天川それって神が・・・」

「分かってるから・・・、黙って、、」


「黙れるか!、そんなの・・・まるで、神が人殺しを許しているみたいじゃないか・・・」

「・・・」


長い、本当に長くて、まるでここの時間だけが切り取られているみたいに、永久に感じる沈黙だった。

さっきの発言を心の底から後悔した、思いついたとしても今の天川に言うのは悪手にも程がある。

だいたいそんなの何の確証もない単なる妄想に過ぎない、公平な神が殺人鬼に手を貸す理由なんかどこにもないんだ。そんなのは万が一にもあり得ない仮設だって


「言い切れないんだよ。だって、そう考えてみれば全て辻褄が合っちゃう。教会内で人を殺せたのも、魔力晶があったのも。普通、一晩で上半身と下半身を丸ごと綺麗に切断するなんて出来ないもん。出来るとしたら魔術強化した刃物くらい」

「私もね、かなり動揺してるんだ。そんな不可解な殺人が起きていることも、被害者の位置がどんどんこの街に近づいてきてて、ついに昨日この街で犠牲者が出たって事も」


そんな・・・そんな事があっていいのか?

天川はずっと、神を信じてきた。人を信じることの出来なかった彼女だから、ずっとそうしてきたんだ。誰よりも真剣に祈って、誰よりも神の教えに報いようとして。

だって言うのに、そんなのは


「そんなの・・・あんまりだろ」


目の前の天川にも聞こえない位小さい声で、しかし気持ちが抑えきれなくなってつい言葉が漏れ出てしまう。

その漏れ出た声の正体が、凄惨な事件を引き起こしたその殺人鬼への軽蔑か、それとも誰よりも愛を誓った娘の一人すら笑顔にさせられない神に対しての未練なのか、俺自身にも分からなかった。

天川が顔を上げたかと思ったら、彼女は笑顔を浮かべた。誰が見ても作りものだって分かる下手糞な笑顔を。


「私、そろそろ学校行かなきゃ。ひーちゃんもあんまり時間ないでしょ?随分話し込んじゃったからさ。

まあそんな心配しないでよ。大丈夫だから。きっと何かの間違いだって、分かってるから。全部全部、神さまじゃない他の誰かが悪いんだって、私が証明するから。」


なんてことを綺麗な笑顔で言って、後ずさっていく。一歩、また一歩と。

俺だけが、何も動けず玄関前に佇んでいた。

ああ、クソ、まただ。また天川が遠のいていく。


違う。そうじゃないだろ。大丈夫なんて言うなよ。言うならもっと大丈夫そうな顔してから言え。どれだけ嘘をつくのが下手なんだ。

不安になるような事言って悪かったって、謝らせろ。そしたら、許してくれよ。なんでお前だけがそんな重荷を背負わないといけないんだ。どうして俺に、その荷物を背負わしてくれないんだ。


・・・天川は、多分靴も履いていない俺が追ってくるとは考えていないだろう、非常識な奴ではあるが、そういう淑女が慎むべきことはしっかり叩き込まれてるタイプだ。流石は教会の娘といったところか

玄関先で段差が少し邪魔だが、十分に体制は整えられる。右足を後ろにくっつけ、全身をしゃがませた。


間抜けな女だ・・・ここまで分かりやすい体制をとっているというのに未だに俺が何をするか予想もついていないとは。ただただ突然しゃがんだ俺を困惑の目で見つめている。

許せない、幼少期の頃からお前は全く変わっていないじゃないか。いつだって何でも1人でそつなくこなしてきたお前は、今だって俺がお前のために走ろうとしているってのにお前は目の前にしてそんな事にすら気づけないんだ。

俺は天川の役に立つために頑張ってきたよ。魔術が使えない分、必死で他の技術を勉強してさ・・・少しでも追いつくためならどんな努力だって惜しまなかったんだから。だから・・・


目標の女に狙いを付け、全力で足をスプリントさせた。目の前の男が素足で土を踏める野蛮人だということにやっと気づいた獲物は急いで逃げようとするが、当然クラウチングスタートで絶好調の俺に勝てるはずもなく、あっさりと制服の襟部分を捕まえられた。


摘ままれてしびれを切らした猫のように暴れている、なんともいい気分だ。こいつを捕まえられることはそうそうない。普段だったら足が速いのはこいつの方だからな・・・!


「ちょっと、もう!!離してよ!逃げられないじゃない!!」

「逃げる気でいる奴を離すわけ無いだろ、良いから俺の話を聞け!!このバカ!!」


「ひーちゃんにバカって言われても別に痛くも痒くもないから!!ひーちゃんの方が頭いいの知ってるし!!」

「うるさい!そういう話じゃないんだよ!お前は1人で重荷を抱えすぎなんだよ。俺をもっと頼ってくれよ。いや、頼られさせてくれよ!!馬鹿!!」


「何言ってんのか分かんないよ―――!」


何かがキレたかのように天川は途端に目をクワっと開き、その柔軟な右足を俺のこめかみに思いっきりぶつけるのだった。あまりにも速い蹴りだったもんで、揺れるスカートの中身を見る暇すらなかっただろう。

脳みそが揺れる感覚がした、やばい、これはかなり気持ち悪い。胃液が逆流しそうになる。

襟を掴んでいた手は簡単に振り解かれてしまった、ああ、もうこれは逃げられるかな・・・

そう思ったのとは正反対に、天川は意外にも倒れ込んだ俺に手を差し伸べてきた。


「ちょ、だめだ。今腕動かせねぇ」

「ったく、本当に情けないんだからひーちゃんは。2回も私をバカって言ったよね?」


やっぱり天川はバカって言われるのを気にしていた。素直に言えばいいのに、頑固なやつだ。

天川が俺の脇に腕を通したかと思えば、そのまま俺の体を軽々と持ち上げる。案外ダメージを負ったのは掴んでいた手と頭くらいなもんだったので、何とか力を振り絞ってその場に立つ。


「もう、ふらっとしてないで。頼りになりたいんだったらもっとシャキッとしてよね。」


意外にも天川は、俺の言葉通りに動いてくれるらしい。


「あ、ああ。でもごめん。やっぱちょっと立てそうにねーわ。しばらく支えててくれ。相変わらず怪力女だなお前って」


すると天川が少し照れたように頬を赤らめ、頭を搔きながら言った。


「えへへー!そうでしょー!」


皮肉のつもりで言ったんだが・・・なんでこう無駄なところで素直に言葉を受け取るんだ。

・・・不覚にも少しだけ可愛いと思ってしまった。こういう素直な反応だけしてくれれば最高なんだが。


「んで、どうだ?俺にも協力させてくれよ。その事件の捜査。確かに俺はお前に蹴りを喰らわされてすぐ倒れちまうくらいには貧弱だけどさ。それでもやっぱ、お前1人にだけそんな辛い事を任せるのは逆にこっちが辛いんだよ。俺は神なんてぶっちゃけそんな信じてない。でも俺が証明してやるよ、お前が信じてきた神はそんなことしないんだって。お前の信仰は間違ってなかったんだってさ。」


心の底からの思いを、できるだけ彼女に伝わるように目を見て話した。

彼女は、何がおかしいのか俺の方を見ては突然ニヤリと笑みを浮かべて俺のほっぺたをに軽くビンタした。いや軽くというと語弊がある。彼女にとって軽くでも俺にとっては致命傷だ。普通にジリジリする。


「ひーちゃんの癖に生意気だよね、ホント。・・・まあでも、うん。いいよ。本当はひーちゃんを巻き込みたくなかったんだけど・・・そこまで熱心な求愛をされちゃったら・・・さ。仕方ないよね」


・・・。明白に彼女は何かとても大きな間違いをしている気がする。

まあでも、とりあえずはいいだろう。彼女の苦しみを俺が少しでも引き受けられたのだったら。

―――――

天川と別れてから少し後のこと。俺は学校へ行くための身支度をしていた。

鞄の中身をじっくりと手探りし、学校で必要な教科書類や筆箱があることを確認する。

うん、多分問題ないはず。

鞄の中のものが溢れないようジッパーを閉めた。ジーーという勢いのある音が心地良い。

鞄を背負い、ヘルメットを被った。

あと必要なことはなんだっけな・・・

・・・

ああ、そうだ。これが必要だった。

「行ってきます」

廊下からの返答はなかった。

少し寂しい気がするがしょうがないだろう。もう一人暮らしなんだ、いつまでも誰かが居て

返事してくれるわけじゃない。むしろ今までが恵まれてたんだろう。

秋になって寒くなった影響か、ふと家に人がいた頃の雰囲気を思い出す。

朝起きると、居間にはいつも先に誰かが居て、それが窮屈と感じることもあったけど

それでもやっぱり、家を出ようとしたときに聞こえてくる『いってらっしゃい』という声が

今ではとても暖かく思えた。

ドアノブを押し込み、扉を開けた。

扉を開けた隙間から流れた、乾燥した風と土の乾いた空気の匂いが鼻をつんと通る。

今日はいつもに増して寒い。上着を着ていて良かったと心の底から思う。

外の地面を踏むと、ジャリジャリと小粒の砂が押しつぶされていくのを感じる。

ちょっと前までは地面を見れば蟻を沢山見つけられたのに、今は全く見えない。

もう冬眠してしまったのだろうか・・・

また一歩踏み出し、今度は上を見上げてみる。

やっぱり、まだ空は濁ってるな。

太陽の当たらないこの退廃的な世界に、思わず溜息が出た。

まるで自分以外の全てが停滞して時が止まっているような、薄暗い部屋で一人寂しくごっこ遊びをしている幼児のような、そんな孤独感に襲われる。

実際にはそんなことはない、街から隔離されたこの長い坂道を下れば車のエンジン音も聞こえてくる。

そこから更に街中にさえ進めば同じ制服の人間だって見つけられる。

でも、それまでは独りだ。街に行くまではこのどうしようもない泥濘を進まなきゃいけない。

だから、この季節にあるこの時間帯があまり好きじゃない。

・・・後いくつ経ったら冬を越せるだろうか。

自転車のスポークを乱暴に蹴っ飛ばし、坂道を下る。

山から降る熟成した枯葉や紅葉が顔にかかって鬱陶しい

下るスピードに相対するかのように強くなっていく風が、頬を切り刻んでいるかのように通り過ぎて

目を開けていられない位に強烈だった。

右を見渡してみると、霧がかって曖昧なシルエットの中に、微かだが自分の通う学校が見える

こっからの距離だと後30分は掛かる、そういや今何分だ―――

「今7時50分・・・やば・・・急がねーと!」

自転車に取り付けている時計が指した時刻は、今ののんびりしたスピードではおおよそ遅刻が確定するくらいの崖際一歩手前であった。

どうする?ペダルを全力で漕いだとして、んな朝っぱらから体力を使ってたら

後半授業を居眠りと覚醒を反復する事態が目に見えている!

それは嫌だ、勉強が好きな訳ではないが学費を払っているのに授業を眠るなんて

もったいないことはしたくない。

・・・仕方ない、通学中にあまりしたくはないが、あれをやるか。

ここから街までの高低差は約30m

・・・ここを乗り越えられれば10分程度の時間を稼げる、それだけ稼げれば十分学校には間に合うだろう。

本来道として作られている訳では無いため自転車で下るには多少危険な道ではあるが、

かといって下るのが不可能な程急な坂でもない。

道路の側溝との距離を測り、軌道を少しずつ反らして傾斜を滑りやすい角度へと調整する。

自転車でジャンプするにはまずペダルに立ち上がる必要がある、坂道での急スピードで横転しないように

ハンドルにしっかりと力を入れ、ゆっくりと立ち上がった。緊張とアドレナリンで手汗がにじむ。

前方を見れば、およそ10m先に曲がり角が見えた。

あそこだ、あそこで飛ぶのが一番いい。

決して足が滑ること無いよう強く踏み込み、『山下り』の体制へ入った。

残り7m、感覚が研ぎ澄まされ、木々のざわめきがいつもより明瞭に聞こえてくる。荒く吹き抜ける追い風とを一身に背負い、目線を前方へ収束させる

焦っちゃダメだ、息を吐いて頭を落ち着かせろ。冷静に対処すればそこまで難しい動作でもない

ただ正常に動くだけだ。必要な動作を全て計算しろ、この世界の全ては計算で予測ができる。

口を大きく開け、肺が満タンになるギリギリ限界まで空気を取り込んだ。

横隔膜を押し上げることによる腹部の圧迫感が少しだけ苦しい。

これはあくまで準備、本命は次の動作だ

(来た・・・!)

残りおよそ5m、口を閉じ、呼吸を完全に停止させた。

ただでさえ圧迫感のあった腹部に更なる圧力が加わり、むせそうになるのを必死で我慢する

正常な反応だ。これでいい、息を止めるのには訳がある。

呼吸は人間が酸素を体に循環させるための生理現象。

だが、本来だったら生きる上で必須なこの動作は、精密な動きをする上では不要だ。

空気を取り入れるための胸郭の上限運動は、上半身の筋肉を動かす上で多少のブレを生じさせる

身体全体にも力が入りずらくなる。

だからこそその欠点を息を止めることで補う

息を止めることで腹圧がかかり筋肉が緊張を起こし、動作を精密にさせる

更に体感が安定し、体全体が思うように動く。業界ではバルサルバ法と呼ばれている技。

この状態は数十秒も持たない、たった数秒しか使えない諸刃の剣のようなものだ。

実際、こんなものが大した効果を発揮することは無いだろうが・・・

それでも、山の傾斜を下るためには僅かでも精密性を向上させた方が良い

残り3m

(今だっ―――)

ペダルを左足で最大限まで踏み込み、腰を後輪に当てるくらいまで下ろした。

目の前には高さ70㎝のガードレール

今の速度を維持したまま崖を下る、そのためにはガードレールを飛び越える必要がある

意識するのは重心移動

腰を大きく下げた状態から、ハンドルを蹴るように一気に前輪に体を動かし・・・!

右側のペダルを全力で踏み込む!!

刹那―――

全ての時が止まったみたいに、俺は宙へ浮いていた。

物体を空中に投げ上げて、そこから重力に逆らえるギリギリの最高到達点

その瞬間だけ物体の速度は0m/sとなり時間が止まる。

森の木で隠れてはいるが、少し下を見てみれば

空と森の隙間から、多くの人々が生活している住宅街が見えた

俺とあの街では、決定的に違う物がある

それは別に何か比喩的なものでは無くてもっと至ってシンプルな差だ

人間の言葉でも説明できるような世界の法則

俺とあの街では高さの座標が違う。

それだけの事だった

「っはっはははは―――!!」

車輪が崖の斜面へと触れる

止まっていた時間が決壊し、地面を得た車体はまるで空間を突き破るかのような超加速を開始した

右、左、左、直進、右、右右、左直進ブレーキ直進

視界に映る情報全てを統合しそこから最適な動きを探る

一つでも動きを間違えば斜面との繋がりが途切れてきっと転落してしまう。

そうとなれば少なくとも軽傷か重症は負うだろう

ヘルメットを被って尚死んだっていうのは中々後悔が残りそうなもんだが・・・

そこまで

そうなったら天川の前に化けて出てやる

死ぬ時の事は死んだ時に考えろ。

少なくとも今は余計なノイズを取り入れるべきじゃない

迫ってくる紙一重の突起や凹みをただひたすら論理的に避け続けた

(後10m・・・)

森の暗がりを抜け、いよいよ公道のガードレールが見えてきた

緊張によるアドレナリンで呼吸が早くなる

もうここから落ちた所で大した怪我はしないだろう

きっとこの緊張は、転落するかどうかではなく、

この山下りが成功するかどうかの、自分の中の勝負なんだ

自分で改造を施したこのMTBと、最大限まで澄まされた人間の五感

その二つを掛け合わしてこの最難関のコースをぶっち切る!!

もう残った物は少数しか残っていない木々と、凸凹に散らばった地面だけ

この程度の障害は今の自分にとっては何も脅威じゃない

笑みを浮かべて次へ、次へと。乱雑に生え散らかした木々を風のように通り抜ける

今更山の地面なんて、舗装された平面のコンクリートのようなものだ。

走りやすい道を選択して、かつハンドル操作さえ完璧にできていれば何も問題ない

(残り5m、今度こそ―――!)

今度こそいける、そう思った時だった

「あれっ・・・」

唐突に、足に掛かった重みが消えた

どうして、どうしてどうしてどうしてどうして

この感覚は知っている。

最悪だ。どこかで大きな見落としがあったのか?

過ぎたことを考えても仕方がない、もうどうしようもない位にバランスが崩れた。

身体と自転車が二つに空中分解してからやっと、自分が地面のくぼみに引っかかって

転んでしまったことを頭の中で咀嚼した。

世界が暗転する。

ああ、くそ・・・今回も駄目だった・・・

―――

「これで何回目だ・・・」

この山下り自体は小等部から始めたものだった。

親父さんから教えてもらいながら初めて組み立てた自転車に乗って、

自分の実力を試すように衝動的にやったのを覚えている。

高校生になるまでに何度も自作のMTBの改良を繰り返して

この山下りを試してみたけど、結局今の現在に至るまで完走したことは無い。

あの頃に比べたらエンジニアとしての技術はかなり上達したとは思う

工学関連の本を読んだり、地域の工場から部品を貰ったり・・・

親父さんがいなくなってからも、独学でそれなりに頑張ってきた

正直自分としてはそれが一番の目的だったし、わざわざ危険な

山下りをする必要は無いっちゃ無いんだが・・・

「それでも・・・」

それでもやっぱり、この山下りは自分にとって特別な物なんだと思う。

初めてここを親父さんに黙って下ったあの日を今でも覚えている。

いくら自転車屋に教えてもらったからって、所詮小学生の浅知恵で作った自転車が

山なんか下れるはずもなく、結果はガラクタの自転車と、前腕を骨折して

入院した哀れな自分だけが残った。

道路の隅で動けなくなって泣いていた自分の痛々しさは到底忘れられるものではない

親父さんにもとんでもなく叱られたし、今までの人生の中でも三本指に入るくらいには惨めな記憶だ

ただ、その惨めな記憶が今でも原動力として強く残っている。

この山を一回も転ぶことなく完走して、あの哀れな自分を救い出そうとしているのだ

・・・我ながらなんて子供っぽいんだと呆れる。

さて、このまま土にまみれている訳にもいかない。せっかく怪我してまで作った時間が台無しだ

服についた土をはらい、生まれたての小動物のようにプルプルと立ち上がった

「痛ってぇな・・・」

いくら頑丈なポリエステル繊維で出来た制服とはいえ、自転車で加速した状態の

吹っ飛んだ人間の皮膚を守れる程の性能は無い

ズボンを捲っていないからまだ分からないが、恐らく左膝に大きめの擦り傷ができた。

学校についたら保健室で消毒してもらおう・・・

「よいしょ・・・あー重てぇ・・・」

そこら辺のガードレールにぶつかりくたばっていた自転車を起こした

普段なら軽々と持ち上げられるMTBが疲労と怪我のせいで鉄の塊のように重い。

自転車のチェーンやスポーク、その他部品に異常がない事を確かめてサドルに跨る

時間を確認しようとしたら、時計のガラスがひび割れていて見れなかった

(しまった・・・せっかく高校になってから取りつけた時計が・・・)

少しショックだったが、まあ放課後に時計屋でも行けばいいか

とにかく今は学校に向かうことが大事だ・・・時計が壊れているなら尚更早めに行った方がいい

財布の出費を恐れながら、気持ち急いで俺は学校に向かった。

―――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。