第三十七話
翠組の会場は、巨木の森だった。
天を衝くような大樹が何本も立ち並び、
太い枝同士が橋のように絡み合っている。
地面には苔むした根が走り、木漏れ日が緑の影を揺らしていた。
闘技場というより、小さな森がそのまま切り取られてきたかのようだ。
そして頭上には、薄く透けた結界の天蓋が広がっている。
その向こうに見えるのは、どこまでも青い空だった。
ルークは、最も高い枝の上に腰掛けていた。
白銀の翼を半ば広げ、吹き抜ける風を確かめるように目を細める。
(……やはり、空が見えるのはいい)
地上は落ち着かない。だが、ここなら話は別だ。
結界越しとはいえ、頭上に空があるだけで、
胸の内の澱が少しだけ薄まる。
視線を落とせば、森の床に十六人の参加者が散らばっていた。
皆、木々の陰に身を潜めて、開始の合図を待っている。
その中に、見知った巨躯があった。
一本の大樹の根元に、静かに佇む男。浅黒い肌に、
頭から伸びる二本の角。ガルンだ。穏やかな笑みを浮かべているが、
その周囲だけ、参加者たちが不自然なほど距離を取っている。
重い魔力が、陽炎のように彼の足元を揺らしていた。
そしてもう一人。
ルークの目は、別の木の下に立つ男を、静かに捉えていた。
毛先の逆立った、粗野な風貌。腕組みをして、
あくびをしている。――トーガ。
抽選の時、その名が呼ばれて翠の光が灯るのを、
ルークは確かに見ていた。先日の会議で、
報告書を読み上げたのは自分だ。闘気を奪う不審者は数名。
大会に選手として紛れ込んでいる。
そのうち一人は「トーガ」の名で参加し、
レオンたちには「トウコツ」と名乗った。
だから自分の番で水晶が同じ翠に染まった時、
思わず笑みが漏れたのだ。ガルンに「面白い」と言ったのも、
あながち嘘ではない。強者と同じ組になった。
そして、探していた獲物とも。
「……私の庭に、よく来たものだ」誰にも聞こえない声で、ルークは呟いた。
開始の鐘が鳴る。
最初の動きは、地上から起きた。
木々の影から一斉に参加者たちが飛び出し、
枝から枝へと飛び移りながら乱戦が始まる。
剣戟の音、魔法の炸裂音、木々の軋む音。
森の静寂は、一瞬で砕け散った。
ルークは動かない 。翼を畳んだまま、枝の上から全体を見下ろす。
上から見れば、乱戦の流れは手に取るように分かる。誰が誰を狙い、
どこに隙が生まれ、どの一団が崩れそうか。
(右奥、二人がかりで一人を囲んでいる。左の枝は――)
視線の先で、一人の参加者が足を滑らせた。枝から落ちかけたその体を、
ルークは翼の一振りで急降下して追い、襟首を掴んで引き上げる。
「危ないぞ。ここは私の庭なのだ、勝手に落ちられては困る」
「あ、ありがとうございま――」
礼を言いかけた参加者を、そのまま別の太い枝へ放り投げる。
きちんと体勢を立て直せる角度で。
その様子を、下から見ていた男が、ふっと笑った。
「殿下は、お優しいですな」
ガルンだった。いつの間にか、大樹の根の上に立っている。
周囲では、重い魔力に当てられた参加者たちが、そもそも近づけずにいた。
彼はただ立っているだけで、半径十歩ほどの空間を、独占している。
「戦う前に倒れられても、つまらないからな」
「ええ、同感です。わたくし、強い方との戦いが何よりの楽しみでして」
柔らかな口調。だが、笑顔の奥の闘争心が、肌を刺すほどに濃い。
ルークは枝から軽く跳び、ガルンの目の前に着地した。
「一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「お前は、"あれ"に気づいているか」
ルークが視線で示した先。木の下で欠伸をしていたトウコツは、
いつの間にか動き出していた。戦っている。だが、その戦い方は妙だった。
相手の攻撃を、あえて受けている。そして倒した相手の体から、
赤黒い靄のようなものが立ちのぼり、トウコツの体へと吸い込まれていく。
倒れた参加者は、目を覚まさない。闘気を、根こそぎ奪われているのだ。
「……ほう」ガルンが目を細めた。
「なるほど。あれは、面白い方ですね」
「面白い、か」
「ええ。非常に」
その笑みが、どこか本気に見えた。ルークは一瞬だけ眉を寄せたが、
それ以上は追及しなかった。今は、味方なのか敵なのか判断できない。
だが少なくとも、あの男を放置するつもりはないらしい。
「……なら、協力してもらえるか」
「もちろんです。ただ――」ガルンが、楽しげに首を傾ける。
「止めを刺す役は、わたくしが頂いても?」
「好きにしろ」
短い会話を交わして、二人は同時に動いた。
ルークは地面すれすれを滑空し、トウコツの背後へ回る。
ガルンは正面から、堂々と歩み寄る。
「おっと」トウコツが振り向いた。にやりと笑う。
「鳥の王子様と、角の兄ちゃんか。二人がかりとは、豪勢なことだ」
「お前に、聞きたいことがある」ルークが低く告げた。
「トウコツ」
数秒の沈黙。やがて、がしがしと頭を掻く。
「……やっぱり、報告するよな」
「もちろん、情報は上がっている」
「ちっ、あの小僧、律儀にやりやがって。まだ秘密だったんだがなあ」
あっけらかんとした声。悪びれた様子が、まるでない。
だが次の瞬間――。
空気が、ざわりと揺れた。遠く、遥か遠くから。
何かが膨れ上がったような感覚が、結界の天蓋ごと森全体を撫でていく。
「……今のは」 ルークは反射的に空を見上げた。
翼を広げ、一気に飛び上がる。
枝を蹴り、葉を割り、結界の天蓋すれすれまで。
視界が、開けた。
王都が、広がっている。 西の方角。庭園のある区画から、
白い霧が柱のように立ちのぼっていた。 南の方角。石柱の遺跡のある区画で、
砕けた瓦礫が宙に舞っている。 そして北。まだ静かだが、
確かに何かが目覚めようとしている気配。
(……同時に、動いたのか)
ルークの背に、冷たいものが走る。これが、奴らの"揃って動く"という意味。
大会そのものを、まとめて引っくり返すつもりだ。
地上から、哄笑が響いた。
「ははははは! 始まったか!兄弟も、張り切っておるな!」
ルークが見下ろした先で、トーガの体が膨れ上がっていた。
粗末な服が裂け、赤黒い闘気が噴き出す。逆立つ毛、虎のような胴、
猪の如き牙。巨大な獣の影が、人の輪郭を呑み込んでいく。
「俺様の名は、トウコツ! 改めて名乗ろうぞ!」
轟音が、森を揺らした。残っていた参加者たちが、
悲鳴を上げて逃げ惑う。結界の天蓋が、ぴしりと軋む音を立てた。
「ほう、ほう」ガルンの声が、重く響く。
「これは、これは――なんとも、素晴らしい」その顔には、
一片の恐れもない。ただ、獣のような喜悦だけが浮かんでいた。
ルークは天蓋の近くで翼を打ち、トウコツを見下ろした。
獣の目が、こちらを捉える。にやりと牙を剥いた。
「おお、鳥の王子。実に、実に良いぞ」
「悪いが――」ルークは翼を大きく広げた。空色の闘気が、
風と溶け合うように広がる。
「ここは、私の庭だ。お前たちの好きにはさせない」
そして、急降下した。
誰かが落ちそうなら、掴む。その約束を、胸の奥で確かめながら。




