25
ゴールデンウィーク最終日。当主様に最新のスマートフォンを買ってもらい、更に「切られたままじゃかわいそうだから」と、棘科姉妹行きつけの美容室で髪を切り直して整えてもらった。ワンカールのミディアムとか、ヘアスタイルに疎い私には難しい名前だった。姉に切られた髪を整え終わった後、あきちゃんが顔を真っ赤にして喜んでくれたのがすごく嬉しかった。
そして、翌日。
ゴールデンウィークが終わり、いよいよ新しい生活環境から学校に通う。今日の授業で使うものや宿題はすべて鞄に詰めて準備してある。制服も昨日のうちにあやめさんがクリーニングしてくれた。様々な出来事が起こった連休明け、学校へ行くのは少し気が重いけど、気怠い身体を無理やり動かしてしっかり身支度を整えた。
バスルームでシャワー、洗顔、歯磨き。部屋に戻ったら制服のブラウスとスカートに着替えて、ドレッサーの鏡に映る自分とにらみ合い、スキンケアと薄いメイク。一連の流れは実家にいるときと変わらない。一人で使うにはあまりにも広すぎる部屋と、窓から差し込む日差しの量が違うくらいだ。
「これで、いいかな……」
胸のリボンを整え、ブレザーに袖を通す。髪の毛は昨日行った美容室の人が整え方を教えてくれたから難なくできた。ドレッサーの鏡に映る私の顔は、明らかに実家にいるときと違った。髪型のせいもあるかもしれないけど、今までより多少、顔色がいいような、明るく見えるような、そんな気がする。
学校に行ったらクラスメイトたちはどう思うだろう。急に髪を切って、気味が悪いと思われるだろうか。今まで突き放してきたせいで、周りの視線がどんな色を持って私を見てくるのか、途端に不安になる。でも、そんなのは自意識過剰だろうと思う節もあった。相変わらず桜沢文音は嫌なやつだと思われていて、気にも留められない可能性も十分ある。
「……大丈夫。私はもう一人じゃない」
言い聞かせる言葉は、嘘みたいに前向きな言葉だった。無責任な根拠のない希望ではない。支えに裏打ちされた確かな希望が、私の中に咲いている。
鏡に映る自分から視線を切り、鞄を取って踵を返す。それと同時に、アンティークデスクに置かれた内線電話がけたたましく鳴り響いた。
呼び出しに応じて我が家の使用人食堂へ赴くと、制服に着替えて支度を済ませた恋人が新聞を広げていた。彼女は身体が小さいから、新聞を広げたらすっかり見えなくなってしまう。そこが、また可愛い。
「おはようございます」
「あ。おはよう、ふみ」
新聞を畳んでテーブルの端に置く。私へ向けてくれる微笑みは優しかった。彼女の隣に座ると、厨房の方を気にしながら恋人が小声で囁いてきた。
「ね、ね。おはようのキスして」
「えっ!? だ、だめです。見られてしまいます」
「急げば大丈夫だよ。ほら、んー!」
「も、もう」
目を閉じて口を向ける小さな恋人が可愛くて、強く言うことができない。私はとことん甘やかしてしまうタイプなのだろう。そう思いながら、小さな唇に短く私を重ねた。唇を離すと、あきちゃんが満面の笑みで甘く唸った。
「うぅ、幸せ~」
「見つかったら大変ですよ」
「大好きなんだもん。しょうがないじゃん」
「またそういうことを言う……」
愛する人から大好きだなんて言われたら嬉しいに決まっている。今まで家庭の中で寂しく過ごしてきたせいか、大好きな人から愛情を注がれると何も言い返せなくなってしまう。先程も思ったけど、私は甘やかすタイプなのだろう。あまり甘やかしすぎて恋人を壊してしまわないよう、憧れの姫川流々もしていたメリハリをつけなくちゃと思った。
「当主様はまだお休みですか?」
「紅羽はもう仕事に行ったよ。いつも朝早いの」
「そうですか……。グループの代表ですから、お忙しいのですね」
今日は当主様が学校に来て、私が保護された事情を話してくれると言っていた。先生たちからも違う眼差しで見られるようになるかもしれないけど、私はもう一人じゃない。不安よりも、信頼の方がずっと大きい。棘科一家がすぐそばで支えてくれているから、きっと、大丈夫だ。
「よお、おはようさん」
両手に黒い長方形のお盆を持ったあやめさんが厨房から姿を見せた。お盆の上には立派な和膳が載っている。今朝の朝食は和食らしい。ちなみに昨日の朝はパンケーキだった。
「おはようございます」
「よしよし、顔色はよさそうだな。ったく、イイ女過ぎて困るぜ。なぁ、輝羽」
「ホントだよね。困っちゃう」
「や、やめてください。もう……」
私の方こそ反応に困ります。
ため息をついたら、二人が心底楽しそうに笑い声を上げた。
駅までの送迎はあやめさんの愛車である外車、黒いスポーツカーだった。あきちゃんは助手席に、私は後ろの席に。漆黒の車は身体の芯を震わす低い唸り声を上げながら、滑るようにして道路を走り抜けていく。通学鞄と、あやめさんから渡された新しいランチバッグを大切に抱えて、非日常から日常へ向かう。新しい朝の青空を車窓から見上げていたら、左ハンドルを握るあやめさんが心配そうに話しかけてきた。
「ふみちゃん、本当に学校行けそうか? 無理しないで休んだっていいんだぞ?」
ルームミラーから、きれいな碧眼が私を見ていた。ここは笑顔で返すべきだろうけど、今の私はまだ笑顔を思い出せない。
仕方なく、首を横に振って言葉を紡いだ。
「大丈夫です。休めば気持ちが負けてしまいます」
「かぁ~っ。立派だなぁ」
今朝起きたとき、気怠さや心に感じる重さはあった。たくさんの出来事があったみどりの日は、間違いなく私の肉体と精神を疲弊させている。それでも、私は日常へ戻らなくてはならない。私が保護されたのは甘えて逃げるためではなく、日常と向き合い、やり直すため。親友が支えてくれた今までを、恋人が示してくれたこれからを無駄にしないために、私は前を向いて歩き続ける。やがてそれが、未来を切り拓く力になるはずだから。
「ふみが休んだら、神城先輩が叫んじゃうよ」
助手席に座るあきちゃんがそう言って笑った。
雪が私を匿ってくれたときを思い出した。雪の唇が頬に触れる感触、私が返した額への口づけ。彼女もまた、悩み続けたことがあった。苦しみ続けた想いがあった。彼女の想いに応えられなくとも、親友であり続ければきっと恩を返していける。死ぬまで親友であり続けるために、雪への親愛は決して失くさない。
「……そうですね。親友のためでもあります」
「ったく、ホントにイイ女だぜ。モテるぞ、こりゃあ」
あやめさんがポケットから棒つきキャンディーを取り出して、運転しながら器用に包みを破って口に咥える。イイ女とか、モテるとかは自分ではよく分からないから、「知りません」と返事をしてまた青空を見上げた。あきちゃんとあやめさんが笑ってくれたのが、ちょっと嬉しい。
日に日に、日差しと空の色が濃くなっていく。
私の日々と共に、色彩を取り戻していくように。
棘森駅前に着いた。あやめさんは「お稲荷様のご加護をくれてやるぜ」と私の頭を撫でて館に戻っていった。連休を終えた駅前は休日と色の違う忙しさを見せている。速足で歩く大人たち、肩を並べて穏やかに歩く学生たち。行き交う車、電車の音、よく知るはずの朝の光景なのに、まるで入学初日のような緊張感が身体を強張らせていた。連休中に生じた様々な変化が、慣れた朝を『新しい朝』だと認識させているのだ。
「気分はどう?」
駅の入り口で雪を待っていると、あきちゃんが肩を寄せて顔を見上げてきた。赤い瞳がまばたきで隠れたり見えたり。まばたきだけで、胸が詰まりそうだった。
「緊張しています。それから、少し晴れやかといいますか、清々しい気持ちも……」
「あぁ、入学式みたいな感じかな」
思っていたことを言い当てられて、思わず赤い瞳を見つめ返した。
「……棘の巫女って、心を読めるのですか?」
「ふふ、まさか。読めてたらすぐふみに告白するよ」
笑顔で話す恋人の視線が駅の入り口へ向いた。つられて視線の先を見ると、人波の向こうからワンサイドアップの少女が走って来るのが見えた。大きく手を振り、満面の笑顔を浮かべる幼馴染。私の日常が変わっても、雪のまぶしい笑顔は変わらない。
「二人ともおっはよー! って、うひゃあ!」
雪が大声を上げながら立ち止まってまじまじと見つめてくる。何度もまばたきをして、喉が動いた。
「ふ、ふーみんちょっと。ええ……? ちょ、可愛すぎ……」
「髪を切り直しただけです。大げさですよ」
「そんなことないよ! ね、あっきーもそう思うでしょ!」
パタパタとあきちゃんの後ろに走っていって小さな肩を持つ。二人がじっ、と私を見つめてきた。揃って同じようにまばたきをして、あきちゃんがとても真面目な眼差しと口調でうなずく。
「思います。これは一大事です」
「でしょ! ヤバいよこれ、男子たちがふーみんに近づくぞ!」
「な、なんですって! 勇者B様、何とかできませんか。せめて放課後まで!」
「任せたまえ! 勇者B、姫君を守り抜いてみせよう!」
「よっ! パチパチパチ」
右腕を太陽に向かって振り上げる勇者Bと、それを煽る棘の巫女。近くを通る人々が何事か、という風に視線を投げては去っていく。
可愛いと言われるのは非常に嬉しい。今まで他人との関係は切り捨ててきたけど、女であることは捨てていない。きれいでありたい、可愛くありたいと思うから、恋人や親友に褒められるのはすごく幸せだ。
しかし。公共の場で恥ずかしい茶番をして盛り上がっているのは気に入らない。
周囲を突き放していたときと同じように顔から力を抜いて、二人を心底冷ややかな眼差しで見やる。二人の笑顔が凍りつくのが見えた。
「やかましい」
淡々と告げて、二人の横を抜けて速足で歩いていく。
後ろから可愛らしい悲鳴が二人分聞こえた。
学校への登校中も、あきちゃんと雪は私について話を止めなかった。今朝鏡を見たとき、顔色はいいと感じた。親友である雪がここまで食いついてくるのだから、勘違いや錯覚ではなさそうだ。棘科邸での生活が始まったり、髪型が変わったり、身の回りに起きた変化が徐々に私の心にも伴ってきた。長い冬が過ぎて、私の日々にも春が訪れたのだ。
学校に着いたら昇降口であきちゃんと別れて、校舎二階の二年三組へ向かった。何気なく歩く廊下、立ち話をしている生徒たちの視線がいつもよりも強く感じる。私が意識しすぎているだけなのか、本当に彼らが私を見ているのか。少し怖くて、雪の背中に隠れるようにして廊下を歩いた。
「うーん。こりゃすごい……」
雪がため息交じりにつぶやいて、肩を寄せて私を隠してくれた。
「私の自意識過剰ではないのですね」
「うん、普段は気にならないもん。間違いなく見られてるよ、これ」
小声で会話しながら、ある男子生徒二人組の前を通り過ぎた。背中の向こうから、抑えられた声が聞こえてくる。
「あれ、何組の子?」
「三組の桜沢さんっしょ。イメチェンしたっぽい」
「マジで? え、超可愛いんだけど」
「お前声かけてみろよ」
顔が熱くなった。
髪を切って、住む場所を変えたらこんなにも変わるものなの?
少しの嬉しさと恥ずかしさと、寒い恐怖を感じた。以前の私だったら耐えられるだろうけど、あきちゃんに心を解き放たれつつある今は無防備だった。人と関わりを絶ってきたせいで、相手から向けられる視線や言葉への対処ができない。どうやって受け止めればいいのか、どうやって受け流せばいいのか、分からなかった。
思わず、雪のカーディガンに手を伸ばして裾の先をつかんでしまった。雪が首を傾げて小さく笑う。
「んふふ。さしものミス不愛想も予想外だったと見た」
「……ごめんなさい」
「いいんだよ、勇者に任せときなって!」
親友はその言葉も存在も頼もしかった。冷たく当たってばかりだったけど、神城雪を信じて、本当によかった。
お昼休み。食事を終えて雪とのんびりしていたら、男女問わずクラスメイトたちが集まってきて明るく話題を振ってきた。怒涛の質問や話題に、近くで見守る雪もさっきから苦笑いだ。あやめさんがくれたお稲荷様のご加護は本物だった。
「桜沢さん、どこで髪の毛切ったの? アタシも行ってみたい!」
「えっ、あ、駅前のヘアサロンで」
「イメチェンしたのって、彼氏できたからなの!?」
「いえ、違います。彼氏なんて、私には……」
「よっしゃ、じゃあ俺にもチャンスあるな! 今度デートしよう!」
「そ、そんな急に、困ります」
「そうだそうだ! 突拍子もなくデート誘うとか、がっつき過ぎだぜお前ぇ」
今日はお昼休みだけでなく、授業の合間にある短い休み時間だけでも、明らかに私に声をかける人が増えた。雪が心配してずっと近くにいてくれたから助かったものの、私一人だったらきっと、言葉に詰まって何も言えない。突き放すという選択肢もあるけど、それはもうしたくない。してはいけない。私はこれから新しい環境でやり直していくのだから、同じように突き放してしまっては棘科邸に保護された意味がない。雪も近くで見守ってくれているのだ。大丈夫、頑張れる。
「いやー、ボクもね、親友として鼻が高いよ。こうやってイメチェンしてさ、今までの自分を変えたい! って、行動するわけでしょ。素晴らしいじゃん。ふーみんは別にみんなが嫌いなわけじゃないんだよ、うんうん」
ふと、集まったクラスメイトに向かって、雪が両腕を広げて演説みたいに言う。彼女の言葉に、みんな笑ったり、うなずいたりして返していた。
「事情があったとはいえ、みなさんに不愉快な思いをさせていたのは事実です。……今まで、申し訳ありませんでした」
謝罪を口にして、頭を下げた。
もちろん、事情について詳しい説明をするつもりはない。父の借金や姉にされた虐待は、みんなにべらべらと話していいものではない。ただ、私が今まで取ってきた行動の根本には、私の力だけでは解決できない問題があったのだと、知ってもらえればそれでよかった。
「気にすんなって。姉ちゃんがおっかなくて上手くいかなかったんだろ?」
「そうそう。安珠さんのこと、結構知ってる人いるし大丈夫だよ!」
「ま、姉貴さんと比べる人がいても気にするなよ。文音ちゃんは文音ちゃんなんだから」
「おい、文音ちゃんとか気安く呼ぶなよ。やっぱ狙ってんな、お前ぇ?」
こういう場合、どうしたらいいのかリアクションに困る。雪に視線を投げたら、童顔は呆れたように笑って肩をすくめた。
「ふーみんを狙う不逞の輩は後で成敗するとして、安珠さんについては事情の一つとして理解してもらえてるみたい」
「そ、そうですか」
先程の男子は勇者Bが成敗してくれるそうだ。
それはさておき、今回集まったクラスメイトの中に、自分の兄や姉が桜沢安珠と同じクラス、あるいは同学年だったという生徒がいたようだ。彼らは私の姉がどんな人間だったのかを既に聞かされており、『美人だけどおっかない人』と認識しているらしかった。妹の私が極端に他人を避けるのも姉が原因だろうと、みんな何となく察していたそうだ。
「姉も、両親と一緒に変わろうとしていますから、どうかその、偏見なく見守っていただけたら嬉しいです……」
そう。私だけでなく、両親も過去を省みて、変化と共にやり直そうとしている。姉自身はまだ私に対して敵意を持っているかもしれないけど、きっと両親が棘科グループの人と相談して改善してくれると信じている。私の言葉に、クラスメイトたちは明るく返事をしてくれた。
集まってくれた人たちはみんな明るくて朗らかだった。変化を不安に思っていた私を後押しするように前向きな感情をくれる。注目されるのは恥ずかしいし、どこか怖いところもあったけど、突き放していた過去を水に流し、こうして歩み寄ってくれたのは心から嬉しかった。
しかし、世の中に好き嫌いがあるのと同じように、私の変化が否定される現実も当然あるのだった。
「キモ。意味分かんない敬語使ってるし、ちやほやされていい気になるなよ」
教室の左側、窓際の席から心身を切り裂く惨い言葉が飛んできた。私の周りに集まっていた生徒たちが一斉に声の方向に振り向いて、教室が静まり返る。
「おー、これはこれは。七倉さん、こっち来なよ。話をしようじゃあないか」
雪が強い口調で言う。怒れる眼差しの先に、机の上で足を組んで座る女子生徒の姿があった。あきちゃんとは形の違う釣り目で、ウェーブのかかった黒いショートヘア。髪型と合わせて顔全体で見ると、四角い印象がした。彼女は七倉由佳。飲酒をしているとか、たばこを吸っているとか、あまりいい噂を聞かない女子生徒だ。彼女の周りには、背が高くて細い女子と、少しふくよかな女子がいる。七倉さんといつも一緒にいる生徒たちだ。かつて私を泥に突き落した姉と同じ気配を感じて、肩がぴくりと震えた。
「嫌だよ。今までツンツンしてたやつが急に変わったらキモいじゃん。キモくて近寄りたくない」
取り巻きの連中と顔を見合わせて嫌な笑い方をする。
ふと、一人の男子が笑いながら肩をすくめた。
「嫉妬してんじゃねぇよ」
直球な言葉にたじろいだ。
彼の言葉を口火に、周りにいたクラスメイトが口々に七倉さんへ言葉を向ける。
「おい七倉、謝れよ!」
「そうだよ! やり直そうって頑張ってるのに!」
四角い顔は鼻で笑い、彼らの言葉を受け流した。釣り目を細めて、私たちを侮蔑する。
「やり直す? なら、金か身体で謝んなよ。そこの男子ぃ、桜沢とヤリたいからかばってるだけじゃないの~? せっかくなんだから詫びとして身体で払ってもらえばぁ?」
キャハハ、と取り巻きたちの高い笑い声が上がった。
「うっわ……。なんつー小物臭」
「七倉さん、最低。信じらんない」
姉と似た気配を感じて言葉を失う私に代わって、雪と、周りに集まった生徒たちが戦ってくれている。
七倉さんの言う通り、私は確かに周りの人たちを突き放して生きてきた。話しかけられても冷たくあしらって拒絶し続けた。でも、その行為をしようとしたのには理由がある。私一人では拭えない過去が心を縛り、どうしても周りを信用できなかった。ただ気に入らないから、ただ面倒だからと突き放したわけではない。私だって、悩みに悩んで、生きてきたのだ。
同情してもらいたいわけじゃない。ただ私は、人それぞれに背負うものがあるのだと知ってほしいだけ。みんな、思い悩むことを抱えて生きているのだと、知ってほしいだけたった。
それを理解する努力もせず、ただ気に入らないからと否定するのは、絶対に許せない。
火が、点いた。
変わろうとする私の心が、凍りついていた身体に熱い血を通わせた。
「私の行為は消せません。私は罪人のままでしょう。ですが――」
ゆっくりと席から立ち上がって、前に出た。
姉に刻み込まれた痛み、かつての両親が向き合ってくれなかった寂しさ。雪への信頼と、素直になれない自分への葛藤。突き放し続けても手を差し伸べ続ける棘科輝羽への困惑と慕情。私がこれまで、苦悩して歩き続けてきたすべて。
たくさんの思いが、私の背中を押してくれた。
「――それでも私は、反省して、これからをやり直したいのです」
声も身体も震えなかった。姉と似た気配を感じて怖気づいていたはずなのに、不思議な熱がお腹で燃えて、凍りついた私の身体を溶かしてくれた。怒りを感じていても、怒鳴り散らすような乱暴さはない。静かな烈火が、私の中に宿っていた。
雪も七倉さんをにらみながら歩み出る。私を庇うように、一歩前に立った。
「ふーみん一人じゃ解決できない、すっごい大変な事情があったんだ。ボクは幼馴染だから、ふーみんが今までどれだけ悩んできたのかよく知ってるつもりだよ。ここに集まったみんなも、その事情を理解しようとして歩み寄ってくれたんだ」
私一人では手に負えない事情。姉からの虐待、両親の無関心。私を苛み、形作った負の遺産たち。それらに苛まれ、つらく当たった日もあったのに、彼女は私を見捨てずに支えてくれる。罪悪感と共に、優しさが胸にしみた。
「そんなみんなと違って、七倉さんは理解しようとも、知ろうともしない。七倉さんは考えもせず、ただ気に入らないからって否定してるだけだ!」
雪の怒声に、七倉さんの唇が震えた。眉を寄せ、目元に陰が差す。幼馴染の怒りとは正反対の穏やかな声を意識して、沈黙する七倉さんに呼びかけた。
「否定するのは簡単です。しかし、そんな真似を続ければ、いずれあなたは自分の身を自分で滅ぼすことになってしまいます。私がいい例だと思いませんか」
「どっかのおばあさんみたいに典型的なお説教だね。図書委員さんは教科書も毎日読んでるのかな?」
「読書は関係ありません。こうしてあなたに否定されている私の経験を、お話ししたまでです」
そう。今、私へ突き立てられた否定と同じ否定がいずれ七倉さん自身に返る。かつての私が苦しんだのと同じように、因果応報はありうるのだと。私の言葉を理解したのか、七倉さんの瞼がハッと開かれた。
「……っ! ウザっ。行こ、二人とも」
忌々しそうに顔を歪めると、七倉さんは取り巻きの二人を連れて教室を出て行ってしまった。彼女たちが出て行って数秒、静まり返った教室に一気に声が戻る。最初に集まった人たちに加えて、今の騒動を見ていた他のクラスメイトも私の周りに集まってきた。
「桜沢さん、神城さん、カッコいい! 今のすごい!」
私と似たような髪型をした女子が両手を叩いて笑っている。その隣で、口火を切った男子もうなずいていた。どうも、私が七倉さんにした反論はクラスメイトたちの心証をずいぶんよくした様子だった。雪もニコニコと可愛らしく笑いながら、私の肩に腕を回してきた。
「やったね、ふーみん! ナイスコンビネーションって感じ!」
「ええ、ありがとう。私一人では押し負けていたかもしれません」
「へへへ。でも、どうしよう。これ、ファンが増えちゃうっぽいゼ!」
「えっ」
それは、困るような、気も……。
結構長い時間経ったと思ったけど、お昼休みはまだ二十分ほど残っていた。
残りの二十分、みんなとたくさん語り合い、言葉を交わし、失ったつながりを取り戻そうと頑張った。およそ十年分の失ったつながりを、残りの高校生活で共に過ごすみんなと結び直す。今はまだ笑顔を思い出せなくても、過去を覆い隠せるほどの明るい思い出はきっと作れるはずだと信じて、そう願って、頑張った。
どれほど否定されるシーンを繰り返そうとも、今ある私を見失わない。
私は、変わってみせる。




