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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第8章 帰路 -棘科輝羽-
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 ターニングポイント。

 今日は桜沢文音という少女にとっての、その日だった。

 私と結ばれ、最大の敵と戦い、そして、家族へ決断と想いを伝えた。ふみにとってそのことごとくが重大な出来事だっただろう。およそひと月前、図書館で見たあの冷淡な『桜沢先輩』はもういない。私の胸で泣き続ける恋人は、誰よりも家族を信じたかった、誰よりも家族の幸せを渇望していた、優しい少女だった。

 ふみを事前に連絡しておいた市街の総合病院に連れて行き、姉と二人で見守りながら診察や検査をしてもらった。連休中ではあったが、救急外来の医師たちが親切にしてくれて助かった。これも姉が築いた信頼の賜物か。熱も既に下がっていて、姉に絞められた首にも異常は見られないということで一安心した。ゴールデンウィーク最後の日はしっかり養生してもらおう。念のために解熱剤だけもらい、彼女にとって新しい住居である我が家へ帰ってきた。

 暗闇に沈んだ並木道を走り抜け、たどり着いた我が家の玄関。オレンジ色のランプに照らされた玄関扉の前には、我が家が誇るスーパー執事が仁王立ちしていた。

「あらあら。待たせちゃったみたいねぇ」

 仁王立ちするあやめを笑いながら、紅羽が赤い車を正面玄関へ横づけにする。車が停まったのを確認したら、スーパー執事がすぐさま駆け寄ってきてドアを開いてきた。

「待ちくたびれたぜ! 無事か、レディーども」

「全員無事よ。トランク開けたから、ふみさんの荷物運んであげて。荷物下ろしたら車停めてきちゃうわ」

「おうよ、了解だ」

 妙にやる気満々のあやめは意気揚々とトランクから荷物を取り出して抱え始めた。私もふみの手を引きながら車を降りる。あやめが荷物を回収し終えたら、赤い車は館の裏手へ向かって走り去っていった。

 一方で、具合もよくなってすっかり落ち着いたふみは、お昼に来たときと同じように館を見上げて呆けていた。

「お昼に来たばかりの棘の館が、私の住む場所になるなんて……」

「ふふ。信じられない?」

「はい……。私、まだ熱があるのではないでしょうか」

 ふみが両手を頬に当ててうつむいた。ひどく真剣な眼差しをしていたからおかしくって、思わず笑ってしまった。あやめも近くで聞いていたらしく、穏やかに笑っていた。

「その様子なら完治だな。安心したぜ」

「それならお風呂も入れるね。あとで一緒にお風呂入ろ?」

「だ、だめ。恥ずかしいから、だめです」

 そう言うだろうと思ったよ。

 ちょっぴり残念に思いながらも、予想通りの反応にあやめと二人でまた笑った。

「おっと、そうだ。これだけはきっちり言っておかないとな」

 荷物を抱え直して、あやめがまっすぐにふみに向き直る。ニカッと明るく笑って、ありふれているようで大切な一言がふみに送られた。

「おかえり」

 はっ、とふみの瞳が見開かれた。

 それは、ふみを棘科家の一員として、家族として受け入れる一言だった。

「……ただいま。あやめさん」

 笑顔はなくとも、優しい声に乗せられた返事。

 彼女もまた、棘科家を家族として、共に生きていく新しい生活を前向きに受け止めている。

 そうだ。今日から私たちは、家族になるんだ。

 ふみを連れて館に入る。赤絨毯が続く館内、荷物を抱えるあやめが先を歩き、私たちが桜沢家で話をしている間に用意したというふみの私室に案内してくれた。私と紅羽の部屋がある二階を過ぎて三階へ上がる。あやめの足は、私とふみがよく知る空き部屋へ向かっていた。

「まさか、あやめ」

 声をかけたら、碧眼がウィンクを返してきた。

 たどり着いた部屋は、私とふみがランチをしたあの空き部屋。扉を開いて電灯を灯すと、優しい光が部屋の様子を柔らかく照らし出した。

「輝羽と一緒にランチをした場所なら安心できるだろ? だからこの部屋を選んだんだ」

 まず目に入ったのは、壁際に置かれた、天井まで伸びる本のない大きな本棚だった。読書が好きなふみに本棚は欠かせない。さすが執事、ナイスチョイスだ。本棚の前にはこげ茶色のアンティークデスクが構えており、窓際には私の部屋と同じ天蓋つきのベッドと、私たちが食事をした二人がけの食卓がそのまま置かれていた。他にも、デスクに合わせた色のワードローブやチェスト、ドレッサーもあった。

「家具は、紅羽のやつが少し前にいくつか買い置きしてたんだ。ベッドと本棚、ドレッサーは海外から取り寄せたやつで、かなり良質な品物だ。ベッドなんざ最高だぜ。よく眠れること間違いなしだ」

「す、すごい……」

「あり合わせで用意したから不揃いですまないな。気に入らないところがあれば遠慮なく言ってくれ。いくらでも模様替えするぜ」

 荷物を置きながらあやめが笑いかけると、ふみは慌てたように首を横に振った。

「とんでもない。これだけで十分、いえ、私には贅沢過ぎるほどです……」

 胸を押さえながら部屋中を見回す。彼女の瞳には確かな喜びの光が宿っている。今まで見せなかった、年相応の少女らしさだった。初めて出会った頃よりも表情の変化や声の調子は分かりやすくなった。今も、あやめが用意したこの部屋にとても感激しているとよく伝わる。感情を押し殺さず、素直に喜んでもらえるのは嬉しい変化だった。

 でも。

「ふみ……」

 まだ、笑顔を見せてはくれないんだね。

 案内が済んだら、あやめは夕食を作ると言って厨房へ向かった。私も一度自分の部屋に戻り、例の一張羅から普段着の黒い長袖ワンピースに着替えた。着慣れた袖の感触を肌の上から感じて、ようやく人心地がついた。胸元のボタンを留めながら部屋を出て、荷ほどきをしているであろう恋人の部屋へ急ぎ足で戻る。

 ふみの家庭問題は完全に収束したわけではないが、ひと段落はついた。ご両親はグループの職員と今後について検討しているし、桜沢安珠という暴威も遠ざかって安全だ。これで、紅羽の話していた『才能を守るためのいい環境』が整った。これからはこの環境を土台にして、ふみが笑顔を取り戻せるように手助けをしていかなくてはならない。では、具体的にどんなきっかけを作ればいいだろうかと、もう一度、頭の中で考えを巡らせた。

 あやめからもらった資料で、ふみには歌や絵といった力が秘められていると分かった。彼女には文章の力と合わせて三つの『武器』がある。絵については幼い頃を最後に止まったままだが、国語と音楽の成績が高水準を維持しているから、文章と歌の力は彼女の中に残っていると判断した。実際に、文章の力は創作した物語が最終選考まで残ったという結果を出している。しかし、その物語は無念にも取り下げとなって、彼女から創作する気力を完全に奪ってしまっていた。

 残る力は、歌だった。

 彼女の歌そのものは否定されていない。物語は最終選考取り下げという否定を、絵は『調子に乗るな』という母親からの否定を受けているが、合唱部を辞めたのは姉のいじめが原因で、彼女の『歌』を否定されたわけではないのだ。

 ふみが持つ武器の中で、情熱や意欲を取り戻せる可能性が最も高いのは歌だ。

 しかし、例大祭の晴れ舞台で歌うだけで本当に笑顔を取り戻せるだろうか。ただ歌を歌うのではなく、何か特別な要素があればいいのだが――。

「……今はまだ、話すときじゃないか」

 考えを巡らせているうちにふみの部屋へたどり着いた。

 例大祭は来月半ば。準備をするならもう取りかからなくては間に合わない。とはいえ、今日は重大な出来事が起こり過ぎた。ふみもまだ落ち着いていないし、こんな話をすれば疲れてしまうだろう。私の提案もきちんと煮詰めていく必要がある。作戦を立てつつ、できる範囲での根回しや準備を進めて、話すタイミングを探していこう。

「よし」

 考えはまとまった。

 さあ、恋人と一緒によい休日を過ごそう。

 暗い木目の扉を見上げてうなずくと、ふみを驚かせないようにして控えめなノックをした。部屋から短い返事が返ってきて、扉が開かれる。

「あきちゃん」

「やあ、荷ほどきを手伝いに――」

 普段着に着替えた恋人を見て、胸が鳴った。

 淡い水色の長袖シャツと、純白のデニムパンツ。女性らしいシルエットを縁取り、身体のラインをくっきりと浮かび上がらせていた。結っていた長い髪は切られてしまったが、今のミディアム程度の長さもよく似合っている。むしろこっちの方が好みだ。

 生唾を呑み込んだ。

 きれいに伸びる脚、うらやましいその胸元。

 私を見る、穏やかな眼差し。

 私の恋人は、本当に本当に、美しかった。

「すごく、きれい。可愛い……」

「えっ」

 身を引いて目を丸くする。彼女はすぐに顔を背けて、首を横に振った。

「な、何を……。あきちゃんの方が可愛いですよ。私なんか……」

「ううん、ふみの方が可愛いし、きれい。うらやましい」

「……そんなことを言われるのは初めてです」

 とりあえず中に入ってください、と照れ隠しなのか、手を引かれた。荷ほどきは既に始められていたようで、衣類が入っていた袋は既に空だ。着替えを済ませて衣類を先に片付けたらしい。荷造りをしていたときに下着騒動があったから、警戒されているのだろうか。

「お洋服はもう片づけ終わったんだね。早く休んでもらいたいから、手伝うよ」

「ありがとうございます。もともと少ない荷物ですから、二人でやれば早いと思います」

 残ったのは本や少しの化粧品、小物類だった。

 ふみに希望の場所を相談しながら、荷ほどきを再開する。デスクに時計や筆記用具を置いたり、大きな本棚に本を並べたり。ドレッサーに化粧品を並べていたら、図書館で知ったふみの石鹸の匂いが香った。聞けば、ふみは実家で使っている肌に優しいハンドソープの匂いが好みらしく、そのメーカーが販売しているスキンケア用品をいくつかお小遣いで買ったそうだ。ふみがまとう清潔感を作る要因の一つか。私も参考にさせてもらおう。

 ふみの話した通り、少ない荷物だったから早く片づいた。夕食はまだ準備中だったので、食事前にお腹を温めるのもいいだろうと、紅茶を用意してふみの部屋に運んだ。

「荷ほどきお疲れさま。夕食前だから紅茶で乾杯」

「はい、乾杯です」

 ランチを食べた食卓の隣に立って、互いのカップをキスさせる。温かい紅茶をゆったり味わいながら、棘の森から見える温泉街や市街の夜景を二人で眺めた。手前の温泉街では橙色などの暖かい色が森を彩り、遠くの市街では行き交う人々を表すかのように色とりどりの光点が瞬いている。白、黄、赤、青、緑――煌々と光る市街の光を見下ろす夜空には、月光を注ぐ丸い月が浮かんでいた。満月ではないが、今宵の月光はずいぶんと明るい。

「きれい……」

 白いカップを片手に、ふみが息をつく。

 棘科邸は山側に建てられていて、市街や温泉街よりも高い場所にある。守るべき里がよく見えるようにと、棘の巫女が深い森の中を探索して見つけた場所。我が家から見える夜景は自慢でもあり、守護者として誇りでもある。

「これから毎日見られるよ。あ、でも、毎日見てたら飽きちゃうかな」

「いいえ、飽きることはないと思います。同じ夜は、ありませんから」

 夜景を見ていた眼差しが私に落ちてきた。緩やかなまばたきが色っぽい。

 短くなった恋人の髪が揺れて、胸の奥をそっと触っていった。

「夜だけでありません。朝も昼も、そのすべてが毎日新しいのです」

「毎日が新しい、か。いいね、それ」

 微笑みを返してうなずいた。

 私たちが生まれ、歩いてきた日々は毎日どこかが違っていた。同じ日は一度もない。似通っていても、必ずどこかが新しい。今日がまさにそうだ。今日はふみを家族として迎える初日。私もふみも、初日に感じられる特別な瞬間は今日にしか存在しない。そして、明日になれば、ふみは棘科邸で初めての朝を迎え、また、違う瞬間を感じる。

 私たちは決して、繰り返しているわけではないのだ。

「私は今まで、毎日が新しい日だと気づいていながら、それを認めるのが恐ろしかったのです」

「それは、どうして?」

「新しい日を認めれば、いずれ訪れる『淘汰される日』も認めてしまうからです。誰も信じない、突き放してやるなんて――才能も技術もないのに、そんな気持ちじゃ社会で生きていけるはずがない。近い将来、私は必ず排斥される。それが、恐ろしかったのです」

「ふみ……」

「気がつけば私は、死と等しい願いを抱くようになっていました。……いえ、そのものだったのかも、しれません」

 カップを食卓に置いて、ふみがうつむく。

 彼女が口にした言葉に不穏な気配を感じて、私もカップを置いた。

 彼女は、周囲を信頼せずに突き放し続ければどんな結果を招くのか知っていた。その結果に対する恐怖も感じていた。そして彼女は、やがて訪れる『最後の審判』に気づいて、ある願望を抱くようになった。

 桜沢文音が淘汰される日。

 死と等しい願い、そのもの――。

「そんな……。嘘、だよね?」

 愛しい人の横顔に差す陰と気配。問いかけても、恋人は沈黙し続けた。

 つま先から顔まで、鳥肌が立つほどの寒気が走り抜ける。

 真っ暗で真っ黒な願い。終焉の望み。

 彼女を心から愛する私には、言い表せないほどの苦痛に満ちた絶望だった。

「だ、だめだよ。そんなの、絶対だめ!」

 ふみの腕を強く握って、全力で否定した。

 最後の審判を前に彼女が抱いた願望。

 それは、自らの死。

「大丈夫です。今はもう、望みません」

 恋人の顔がそっと持ち上がって、私の頭に手が伸びた。大好きな人の指が私の長い黒髪を緩やかに撫でていく。桜沢安珠を殺すと凄んでいた私を落ち着かせてくれたときと同じ、波立つ心を鎮めようと、何度も優しく撫でてくれた。

 桜沢文音と恋人同士になり、家庭の事情は解決に向けて動き出した。これからは同じ家で一緒に過ごし、彼女の笑顔を取り戻すため、共に歩んでいく。それは恐ろしい出来事を経てようやくつかんだ平穏。私が恋人に望んだ平穏。

 しかし、その平穏は紙一重のところだった。

 もし、あと一歩遅かったら。

 桜沢文音は自ら命を絶っていたかもしれない――!

 もう一度強い寒気が身体を這い上がると同時に、自分へ感じる不甲斐なさも込み上げてきた。ぐっと胸が詰まって、涙がにじむ。

「やだよ!」

 彼女の首に両腕を回して抱き寄せる。背伸びをして、強引に口づけた。

 触れる柔らかい唇、身体、あの石鹸の香り。近くて深い距離になった桜沢文音は、私の煮えたぎる情を受け止めてくれた。唇を離したら、もう一度。互いの瞳を見つめ返して、何度も、何度も。貪るように、二人で唇を熱く燃やし続けた。

 今や、彼女のすべてに手が届く。彼女のすべてに手が届くのなら、彼女を守るための手も届くはずだ。絶対に死なんて望ませない。望ませるものか。

「はっ、はぁ……。ごめん、なさい。ごめんなさい、あきちゃん……」

 唇を離したらふみの熱い吐息が頬を掠めた。小さな私の背中に手が伸びて、柔らかな胸に抱き寄せてくれた。大好きな人の体温と香りに包まれて、少し速い生命の鼓動を聴く。愛する人と触れ合い、愛を交わせる。それは、互いに生きているからこそ感じられる幸福だ。その幸福を儚い生の中で永遠としたいから、私たちは生き続けるんだ。

「死ぬなんてだめだよ! 私、ふみをちゃんと守るから。ずっと、守るから。だから……!」

 だから、死ぬなんて思わないで。死ぬなんて言わないで。

 私が君のそばにいる。君の不安も苦悩も、全部一緒に背負ってあげるから。

 愛しい先輩にもっと包まれたくて身を縮める。ぎゅっと、私の小さな身体を抱く恋人の腕に力が入った。

 ふみはもう、独りぼっちじゃない。独りぼっちだった日々は終わって、私が隣に寄り添って歩く新しい日々が始まるんだ。一人では抱えきれない重圧も、二人で手を取り合えば乗り越えられる。私が君を支え続ける限り、君が私を信じて人生を進む限り、桜沢文音が淘汰される日は訪れない。絶対に。

「ごめんなさい……」

 遠くで、私たちを呼び出す電子音が聞こえた。

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