18
それはみどりの日の出来事だった。あきちゃんと結ばれて、すぐ後。
幸と不幸はどこかで均衡がとれているのか。最大の幸福を授かったその日に、私は最大の恐怖を味わうはめになった。
「結婚式に出るのが嫌なんだって? 母さんから聞いたよ~。どうしてだろう、お姉ちゃんのこと、嫌いなの? ほら、どうなのよ」
家に帰るなり胸倉をつかまれて、二階の自室に連れ込まれたら、加減もなく思い切り突き飛ばされた。運動音痴で力も弱い私の身体は簡単にカーペットの上に倒れてしまう。胸倉をつかまれたときに首元のリボンがほどけて、力なく胸の上に垂れ下がった。
「くっ」
恐怖で視界が震え、霞む。
心臓が痛いほどに波打つ。
倒れた身体を起こす腕も鼓動に合わせて揺れて、べたついた嫌な冷気が私の肌を包んでいく。あきちゃんのおかげで遠ざかった恐怖がぶり返すことは、恋人の支えを侮辱されているようで、無性に悔しかった。
そう。悔しい。
悔しかったから、震えを隠してにらみ上げた。
「……どう考えたら自分が好かれてると思えるんだろうね」
自分でも不思議だった。昔はこんな風に言い返せなかった。黙って殴られて蹴られるだけ。我慢してばかりだった。怖くて言葉なんて一つも出なかったのに、恋人が関わると途端に力が湧いてくる。これが勇気なのか無謀なのかは分からなくとも、因縁の相手に一矢報いることができれば十分だった。
私がにらみ上げ、文句を垂れたのは姉にとっても意外だったらしい。倒れる私を見下ろしていた瞳は見開かれ、呆けたように口が半開きになっていた。言葉の続かない姉を視界から外さないまま、制服を手で払いながら立ち上がる。
「嫌いだよ、姉さんなんか。姉さんは昔から自分の都合しか考えない。昔から、理解できない暴力を私に向けた。……好きになる要素なんてこれっぽっちもない」
私の痛みなんて意に介さなかった。都合が悪ければ痛めつけ、罵倒し、虐げる。そんな思いやりのない姉を、どうして慕えるのか。
眉を上げて、目を見開いて。姉が返事をした。
人を、馬鹿にするように。
「理解できない暴力って何? そんなの、覚えてないよ。文音はいじめられたっていうけど、妹を可愛がってのことだと思うんだよね」
耳を疑った。
小学校の帰り道、取り巻きが見ている中で私を泥の中に突き飛ばして笑った。体育館で遊んでいたら何の前触れもなく襲いかかってきて顔を蹴ってきた。虫の居所が悪ければ頻繁に私を罵倒し、殴り、蹴り、私を苦しめ続けたのに、それは、私を可愛がってのことなのだという。
お前のせいで私は。
お前のせいで約十年苦しみ続け、悩み続けたというのに。
自らの罪を認めず、挙句に可愛がってのことだと正当化するなんて!
「狂ってる……!」
「どこが? でもまあ、いっか。言うこと聞かない妹なんて嫌いだし、死んじゃえばいいと思う。殺しても何年かで出て来られるんでしょ?」
私の肩を両手で突き飛ばし、突き飛ばし、突き飛ばす。身体が一回、二回、三回と後ろに下がって、ベッドの縁に膝裏が当たって倒れた。姉は逃げる隙を与えないように馬乗りになって、私の首に両手をかけてきた。
「ほらあ。こういうの、気持ちいいんでしょ? 昔から泣いて喜んでたもんね」
つらくて痛くて、怖くて泣いていたのに、気持ちがいいわけない!
ものすごい力でつかまれて、思い切り、絞められる。抵抗しても払いのけられ、一切の手加減が感じられない、明確な悪意が熱と痛みと苦しみを伴って押し寄せてきた。心臓が内側から飛び出してきそうなほどに胸を叩き、脅威から逃げろと訴え続けている。激しい心臓の鼓動に合わせて身体も震え、息も、詰まって、いく。
「雑魚のくせに。屑のくせに。甘ったれたガキのくせに!」
顔が腫れ上がる感覚と共に、ぼうっと、してくる。
「く、あ……」
視界に、キラキラした何かが飛び始めた。
心臓は恐怖で叫び、身体も震えているのに、不思議と涙は出なかった。
音が、遠く、なる。
目の前が、暗く、なっていく。
「気持ちいいよね? 顔真っ赤だもんね~!」
姉の狂笑と声も、ぼやけて消えていく。
世界が、暗闇に染まって、いく。
――あきちゃんが恋人なら怖くないです。
闇で埋め尽くされた心の隅に、澄み渡った意志を感じた。
ここで私が多くの痛みや屈辱を受けたとしても、もし私がこのまま死んでしまっても、必ず姉の狂気を暴き、裁いてくれる人がいる。親友が導いてくれた悲願、英雄に手を取ってもらえた奇跡が私にはある。だから、姉の狂気は怖くとも、私は、自分という存在や意識が消えることは恐ろしくない。
でも、まだ死にたくない。死ぬわけにはいかなかった。
棘科輝羽。
苦しみ、悩み抜いた十年の先に見つけた人と一緒に、生き続けたい。
あなたに出会ってから、私は未来を望み始めた。あなたと歩く明日を、あなたと歩く未来を見てみたい。あきらめ続けた私をあきらめなかったあなたとなら、人生をやり直せるって、信じられたから。
あきちゃん。あなたは未来を信じるために戦う勇気をくれた。
だから。
だから、私は自分の恐怖と向かい合う。
戦え。
生きろ。
桜沢文音――!
「はっ」
視界から花火が消えた。
暗くなった意識が一瞬、本来の明るさに戻った、気がした。
――気がした。それだけで十分だった。
ぎりぎりと右手を拳に変えて、宙を切り裂くように力いっぱい振り抜いた。
「いっ!?」
硬くて嫌な感触と鈍痛が右手に弾け飛んで、姉の引きつった声がした。姉が首から手を放して、顔を押さえながら後ずさる。姉の頬か、鼻か、分からない。しかし、私が勇気を振り絞った渾身の一撃は命中し、悪魔を大きく怯ませたらしい。ベッドから転げ落ちるように姉から離れて、咳き込みながら這って部屋の入り口を目指す。絞められた首と頭が痛み、意識もぼんやりとしていたけど止まらなかった。
急げ、捕らわれる前に!
ゴトン、と途中でブレザーのポケットからスマートフォンが落ちた。
「あっ」
反射的に拾おうと手を伸ばしたら、目の前にぬっと影が差して、スリッパを履いた足がスマートフォンの上に叩きつけられた。ピシッ、と砕ける音がした。
「……くせに」
怒れる悪魔の姿を認めた。眉間と鼻に深い皺を寄せて、両目の端がピンと吊り上がっている。唇は引きつるように両端に伸びて、歯を食いしばっていた。血走る目は狂気以外の何物でもない。心霊映画さながら、怨霊の形相だった。
「何もできないゴミクズのくせに!」
まずい!
立ち上がりながら駆け出そうとする。
その瞬間、首ががくんと後ろに引っ張られた。後ろで一本に結っている髪が姉につかまれて、鋭い痛みと共にぎちぎちと千切れたような、引き抜かれたような嫌な音を立てた。
「生意気、髪の毛なんか伸ばして縛って、生意気ィ!」
「離せ!」
「うるせえ! 死ね! 生意気なんだよ!」
甲高い叫び声と共にぐいっとひときわ強く引っ張られる。踏み止まって倒れないように抵抗していたら、頭の後ろで、ざくん、という音がして身体が前に飛んだ。
「うあっ」
前のめりに壁にぶち当たって、振り返った。
姉の右手にハサミ、左手に長い髪の毛が握られている。
そして、髪を結っていた白いリボンは傷んだカーペットの上に。
あのハサミは、私の――。
まさか。
そこまで考えて、首の後ろに触れた。
髪が、ない。
切られた!?
「生意気なんだよ。クソガキのくせに!」
「く……っ。こ、この……!」
私の持つ『女』を一つ奪われたような屈辱だった。
でも、もう一矢報いた。これ以上抵抗して逃げる機会を失ったらだめだ。
憎しみに自分を忘れてはだめだ!
生きるんだ。生きてあきちゃんに会うんだ。
あきちゃんは私を愛してくれるから!
溢れる怒りと屈辱を振り切り、階段に向かって駆け出した。途中、追ってくる姉を妨害するために近くの棚から物を落としたりして、一気に階段を駆け下りた。
「待て文音! お前は殺す! 殺してやる! 待てェェェ!」
裏返り、キンキンと耳に響く絶叫から逃げる。あんな狂人が私と血が繋がった存在だとは認めたくない。あれがあの女の本性なのだ。柔和で可憐な外面が隠す内面は、黒く淀んだ悪意の泥に満たされた、粘っこい狂気の渦流。自分の気に入らないもの、都合の悪いものはあらゆる手を使って痛めつけ、排斥し、それについて何一つとして罪悪感を覚えない、底なしの悪党なのだ。
「何やってるの! バタバタうるさいわね」
いつからいたのか、今更なのか。リビングからのんきに母が顔を出してきた。説明する暇もないし、したくもない。母に助けを求めたところで助けてはくれないと、私はもう知っている。靴下のまま玄関扉を開けて外に飛び出した。
「ちょっと文音!?」
母の声を背中で聞いて、夕焼けに染まる帰り道を逆走した。後ろを振り返らず、とにかく逃げようと全力で走った。自分の運動音痴を忘れて、ただ走った。震える両脚が痛いほど動いて、転びそうになりながらもアスファルトの上を駆け抜けていく。ときどき小石が靴下ごしに私の足裏を突き刺したけど、振り返らず、止まらなかった。
生きる。
あきちゃんのために、あきちゃんと歩く未来のために、生きるんだ。
走り続けて、やっと住宅街から通りに出た。西に傾いた陽は町並みの向こうに消えつつある。辺りを照らす陽の光も赤橙、夜の訪れは近い。近くを歩く人が怪訝そうに私を見てきたけど、構っていられない。その人に私の身に起きたことを伝える時間も、必要もない。波打つ痛みを訴える両脚を無理やり動かして通りを南へ下っていく。全力で走り続けたせいか、胸と脚が熱く痛んで、頭が重たかった。
いつか幼い姉弟が歩いていた横断歩道の近くで立ち止まり、息を整えながら後ろを振り返った。
「はあ、はあ……」
姉は追ってきていない。多分、居合わせた母に止められたか、そもそも追ってくるのが面倒なのか。
どっちでもいい。今のうちに、遠くに、逃げなくちゃ。
「う……。うぇっ」
慌てて口を押さえてうずくまった。
姉が追ってこないことを確認した途端にえずいた。姉には首を絞められ、逃げるために全力疾走もした。運動音痴な私の身体には大きな負担だったらしく、脚は痛くて燃えるほど熱いのに、背筋は寒く、ぞくぞくと震えた。襲われた恐怖で麻痺をしていた分、ここにきて一気に疲れが出てしまったのだろうか。波打つ心臓に合わせて頭もズキズキと響いて痛んだ。
「っく、逃げない、と……」
疲れちゃだめ。止まっちゃだめ。
追いかけてくるかもしれない。姉でなくても、母が来るかもしれない。家族の誰かが追いついてきたら、今度こそ私は――。
それだけは嫌だ。
私の心も身体も、捧げる人は決まっている。
棘科輝羽、ただ一人。
「……雪、雪のところに。雪から、あきちゃんに、助けを」
雪の家は駅前のパン屋さん。すぐそこだ。
大丈夫。当主様からお守り代わりの名刺ももらった。
大丈夫。あきちゃんが私を助けてくれる。
大丈夫。もう一度、もう一度だけ、立ち上がって。
「立って……!」
自分に言い聞かせながら、もう一度、震える両脚に力を入れて立ち上がる。
曇る世界の先に『ベーカリーカミシロ』の看板が見えた。
見慣れた親友の家は、最果てかと思うほどに遠く感じた。
ふらふらと歩き続けて、ようやくベーカリーカミシロの前にたどりついた。棘丘駅前通りを少し南へ歩いたところにある、出窓のついた西洋風の店舗。雪のお爺様から続く老舗で、現在は雪のお父さんとお母さんが中心となって、数名の従業員を雇い、営業している。真っ白に染められた清潔な外観はお爺様のこだわりらしくて、昔から今まで変わっていない。色褪せれば同じ色にもう一度染め上げる。棘丘に住む人々は『白いパン屋さん』と、よく呼んでいたっけ。そんな美しいパン屋さんとは違い、今の私はボロボロでみっともない姿だった。少しでも失礼がないようにと、未だに残る吐き気を呑み込み、乱れた制服を整えながら白い扉を開く。扉を開いたら、取りつけられているベルが朗らかに鳴いた。
夕方で閉店も近いせいか、香ばしいパンとバターの香りに溢れる店内に客の姿は見えなかった。ガラスケースの中にあるパンは数を減らしている。きっと、連休中の今日もたくさんの人が買いに来たのだろう。
来客を告げるベルの音を聞いて、ガラスケースの向こう、厨房の方から黒いエプロンを着た背の低い女性が顔を出した。雪とよく似た童顔をしたその人は、幼いときからよく知る人。雪のお母さんだった。
「いらっしゃいませ。あ、ふみちゃ――、ふみちゃん、どうしたの!?」
「ごめん、なさい。雪、いますか……」
「か、顔が青いじゃないの! ちょっと待って、すぐに呼ぶから! 雪ぃ! ゆきぃーーー!」
おばさんは私の姿を見て、すぐに何かあったのだと分かってくれたらしい。これまた雪によく似た大声を出しながら、厨房ではなく家屋の方へ走って行く。おばさんが奥へ消えてからすぐ、ハーフパンツにグレーのパーカーを着た雪が転げそうになりながら出てきてくれた。
「ふーみん!」
「雪……。よかった……」
童顔を見たその瞬間、張り詰めていた何かが切れたように、身体から力が抜けた。雪が慌てて駆け寄ってきて、倒れそうになる私を抱きとめてくれた。
「うわあっ! ふーみん、すごい熱だよ! どうしたの、何があったの!?」
私の腕を首に回し、しっかり肩を支え直して叫ぶ。絶望から逃れてきた今、あどけない童顔の親友が勇者みたいに輝いて見えた。しゃべると吐いてしまいそうだったけど、頑張って堪えて、短く簡単に事情を伝えることにした。
「姉さんに……、乱暴、され、て……。あきちゃんに……、連絡を……」
途切れ途切れの言葉で声も上手く出ない。雪はそんな私を嫌がらず、きちんと耳を傾けて短い言葉を聞き取ってくれた。
「安珠さんが!? く、くそう、昔から全然成長してないじゃないか、あのバケモノ女! もう大丈夫だから、ボクの部屋で休もう。母さんも手伝って!」
「わ、分かった! ふみちゃんの家に電話すればいい!?」
「ちがーーーう! 電話したらふーみんがまた攻撃されちゃうでしょーが! 氷枕でも冷却シートでもいいから熱冷まし持ってきて! 電話は絶対だめだよ!」
「そ、そっか! お母さん鈍臭くてごめんね、すぐ持ってくるから!」
なんてやかましい母と娘なのだろう。
でも、そのやかましさが今はとても気楽で、ありがたい。首を絞めて殺そうとしてきた姉に比べれば、とても温もりに溢れた家族だと思える。雪の腕に支えられながら、うっすらと涙がにじんだ。
家に上げてもらい、私は雪の部屋に匿われることになった。彼女の部屋は畳の和室で六畳間。西洋風な外観からは想像できないほど和の部屋だ。本やCD、DVDなどは壁際にある棚にきちんと並べられていて、畳の上には余計なものが散らかっていない。やりかけの宿題とノートパソコンがちゃぶ台に置いてあるくらいで、整然としていた。
「……相変わらずきれいに片づいていますね」
「掃除洗濯炊事パン作りは神城雪の必殺技なのだっ。ほら、早く横になりなさーい!」
高熱を出したらしい私は、雪の布団を借りて横になり、熱を測りながら何が起こったのか事情を説明した。おばさんが途中、冷却シートを持ってきて、私の額に貼ってくれた。それから、食べられるか分からないけど、と、私が雪の家に来たときによく食べるリングドーナツを二つ置いていってくれた。ベーカリーカミシロのリングドーナツは美味しい。牛乳と同じくらいに好きなものだ。
「ぐわあああっ! 三十八度六分とかヤバい! やだぁ、ふーみん死なないで!」
役目を終えた体温計を放り投げて雪が泣きついてきた。
「大げさです……。この程度では死ねませんよ……」
「ぐすっ、大げさなもんか! あっきーに連絡しないと!」
雪はべそをかきながらスマートフォンを取り、手を震わせながらあきちゃんに連絡を取ってくれた。泣きながらも必死に、私に代わってあきちゃんへ事情を説明してくれた。布団から見上げる親友の横顔。涙を流す童顔は可愛くてか弱いのに、どうしてこんなにも心強く思えるのだろう。
私もあなたも幼くて弱かったあの日。泥に突き落された私の手を引いてくれた。
あれから何年も私に冷たくされたというのに見限らず、一緒に歩いてくれた。
雪。あなたはあきちゃんと同じくらい、私の大切な人です。
本当に、ありがとう。
「分かった、分かったよ! ふーみん、あっきーが来てくれるから! ほら、電話!」
私の手を取り、無理やりスマートフォンを握らせる。ボロボロになってしまった今、愛しい人の存在はかけがえのない支え。耳元までスマートフォンを運び、可愛い恋人の顔を思い浮かべながら声を送った。
「もしもし……。あきちゃん……」
『ああ……。ふみ、ごめん、ごめんなさい。ふみ……!』
愛しい人が声を詰まらせて、震わせて。手が届くのならすぐに抱き寄せて慰めてあげたかった。何も悪くない。あきちゃんはこれっぽっちも悪くない。あなたは私の心を支えてくれた。だからこそ私は、こうして生きているのだ。
「……あきちゃんは、何も、悪くないです……」
『違う、私が悪いんだ……。ふみがつらい環境にいたのに、私は何もしなかった。君を恋人にすることばかり考えて、一人で舞い上がってた! 君を救うための行動を何も起こさなかったんだ!』
あきちゃんは何度もしゃくり上げて泣いていた。
私を恋人にしたい。私を強く望んでくれたのが嬉しかった。その上であきちゃんは私の環境を変えようと、家族から救い出そうと、こうやって苦しんでくれていた。私を想い、悩んでくれていたのに、責められるはずがない。
「いいえ、あなたは私の心を確かに救ってくれました。こうして雪の家に逃れたのも、あなたが心の中で手を引いてくれたからなのです……」
『でも……』
「あきちゃん、あなたは間違っていません……。棘の巫女は私に勇気をくださいました。恐怖に抗え、生きろと、私の手を取ってくれた。だから、泣かないで、あきちゃん……」
そう。あなたのおかげで戦えた。
あなたと一緒に生きたいと願い、その願いのために戦って、逃げのびた。
姉に襲われたのは怖かったけど、愛しい人や親友に想われていることはそれ以上に幸福だった。恐怖と戦い、打ち勝ったその果てにある温もり。恋人と親友の温もりに包まれ、身に染みる想いを痛いほどに感じている今、私は、胸を張って幸せだと言える。
だから、泣かないで。泣かないで――。
電話の向こうで愛しい人が沈黙した。しゃくり上げる声も聞こえない。隣の雪も鼻をすすりながら、黙って見守ってくれている。
『……桜沢文音。君を我が家に迎える。もう少しだけ、待っていて』
声が変わった。図書館で部長を退けたときと似ている。
あきちゃんが『戦い』を決めたのだと、そう感じた。
「はい。雪と、待っています……」
通話はそこで切れた。頼りになるあの声を、耳の中に残して。
「あっきーも泣いてたの? 大丈夫だった?」
「大丈夫です。あきちゃんも雪も、泣き虫さんで仕方のない子です……」
スマートフォンを返すと、雪がまた涙を拭った。
「ぐすっ。くそう! それなら笑ってやるってばぁ」
目元を赤くしたままにっこりと笑ってみせた。
両親や姉がここに確認に来る恐れもあったから、おばさんが雪のお父さんや厨房で働く従業員の人に私がいることは内緒にするように話してくれた。電話がきても突っ返してあげるとおばさんが笑い飛ばしてくれて嬉しかった。
「――今まであきちゃんを突き放したことを当主様に謝って、きちんと頭も下げました」
休ませてもらって落ち着いたのか、吐き気が失せて食欲も少し出てきた。もらったリングドーナツをゆっくり食べて、ホットミルクで疲れた身体を温めながら恋人の到着を待った。
「むむむ。ハラハラする展開! 当主様はふーみんを許してくれたのかっ」
あきちゃんを待っている間、今日のランチタイムについて雪に報告をしていた。目元は赤く晴らしていたけど、いつも通りの明るさで話を聞いてくれる。
「許してくれましたよ。『歓迎するわ』と」
「いよっしゃあっ! ふーみん大勝利!」
「大勝利だなんて……。勝ち負けなんてないですよ」
「えっ、そ、そう? じゃあ、ふーみん大好きにしようかなぁ」
でへへ~、と照れくさそうに頭をかく。
雪からは告白だとか、結婚しようとか、大好きだとか、そういった類の言葉をたくさんもらった気がする。そっけなく返したり聞かなかったふりをしてきたけど、あきちゃんと恋人同士になった今は、音が違って聞こえる。たとえ冗談だとしても、雪の想いが嬉しくて、ちょっぴり寂しい。それは、雪の気持ちに応えられないから。二人とも大切な存在であることには変わりなくとも、私の恋人はあきちゃんであって、雪は親友だ。
でも、お礼くらい言っても、罰は当たらないよね。
「……ありがとう。嬉しい、です」
「ぐはあああっ」
雪が顔を真っ赤にしたと思ったら、両手を上げて仰向けに倒れた。
「あ、あの……。雪?」
「ヤバい。ふーみん可愛いから襲いたい。襲っていい?」
「だめです」
「即答ぐはっ。じゃあこれだけ許してっ」
雪が勢いよく身体を起こす。その勢いのまま、私の頬に迫って――。
「え――」
雪の唇が、柔らかく触れた。
童顔は一瞬の温もりを頬に残して、すぐに背中を向けた。
パーカーのフードを被り、膝を抱えて背中を丸くする。
「やっちゃったぁ!」
言葉が、出なかった。呆然としたまま、身体が固まった。
親友が言葉にしてくれた気持ちはすべて本物だったと、身を持って知った瞬間だった。
頬に残る甘美な感触は、あきちゃんと雪、二人に対する二つの罪悪感を浮かばせる。あきちゃんには、頬とはいえ恋人以外にキスを許してしまった罪悪感。雪に対しては、想いに応えられない罪悪感。二人とも大切な存在だからこそ、困惑してしまった。
「……本当はね。ボクも、ふーみんのヒーローになりたかったんだ」
背中を向けたまま、雪の身体が左、右へ緩やかに揺れる。
「お姉さんをぶっ飛ばして、ふーみんを颯爽と助けたかったなぁ。……結局、ボクは敵わなくて、ふーみんを引っ張って逃げることしかできなかった」
「雪……」
「魔王を倒せない勇者が、お姫様をもらえるわけないよね。それなのに、ほっぺにちゅーとかしちゃってさ。はは……、ボク、カッコ悪いなぁ」
泥の中から手を取って救い上げてくれただけでも感謝しきれないほどなのに、雪はまだ私の力になろうとしてくれていた。
よく考えてみれば、いや、よく考えなくても分かることだった。雪は登校中も、下校中も、学校でもずっと私のそばにいて、私を守ってくれていた。小学校のあの日から高校の今日になるまで、ずっと。雪の想いは昔から行動を伴って続いていたのに、私は心を閉ざしてしまったから、雪の気持ちに気づけなかった。あきちゃんに心を開かれ、あきちゃんへの愛しさを知って初めて、親友が私に向け続けた想いに気がついたのだ。
罪悪感がより重たく、私の胸に落ちていく。
ごめんなさい、雪。そしてありがとう。
雪の想いに返事をしなくちゃ。
桜沢文音は、はっきりと言葉にして生きてきた。
愛する人は違っても、大切な存在であることには変わりない。応えられない想いがあっても、私があなたに抱く親愛は変わらないと伝えよう。
「でも、でもさ! 今日は、あっきーよりも先にボクを頼ってくれたんだ。それだけでも、ボクはすごく幸せだよ。お姉さんたちには敵わないけど、ふーみんを匿うくらいはできたから――」
「こっちを向いて話しなさい」
「うえっ!」
少し怒った風な口調で言うと、雪がびくっと身体を震わせて、おずおずと顔だけをこちらへ向けてきた。
「背中を向けて想いを伝えるなんて。そんな寂しいこと、しないで」
「……はぃ」
消え入りそうな返事をして、雪が私に向き合って正座をした。雪は叱られている幼子のように顔を伏せ、上目遣いで私を見ていた。顔は伏せていてもしっかり私の目は見ていたから、よしとした。
「もっと近くに」
「あうう、お、怒らないでってばぁ」
腕を使って、正座したまま距離を詰めてくる。雪の童顔がすぐ近くにきたら、彼女の被っていたフードを取って、前髪をかき上げた。
「怒ってなんか、いませんよ」
そっと、雪の白い額に口づけをした。
「はうっ!? ふーみんっ!?」
私からできる精一杯。精一杯のお礼と、感謝と、親愛を込めて。
唇を離して、雪の瞳を見つめた。
「あなたの望む形では応えられないかもしれません。でも、あきちゃんも雪も、二人とも私にとって大切な存在で、私の英雄です。それぞれに抱く想いは違っても、二人とも私の勇者なのです」
「……勇者」
「胸を張ってください。あなたは無力なんかじゃない。棘科一族に負けない、勇者です」
言い切ったその瞬間、雪が私の手を取って、強く握りしめた。歯を食いしばって、目を閉じて、ただ静かに涙を流す。今まで見たことのない泣き方だった。雪が泣くときはいつも声を上げて泣いていたのに。
「ホントに? ホントに、ボクはふーみんのヒーローになれた?」
「はい。だからこそ私は、あなたの親友として生き続けてこられたのですよ」
死ぬまでずっと、親友だから。
いつかの放課後に、雪へ伝えた言葉。
私が雪の親友でいられたのは、彼女が私を守り、支え続けてくれたおかげ。
神城雪は、紛れもない勇者だ。
「これからもずっと、親友でいてください。お願いします」
「もちろんだよ! ふーみんはいつまでもずっと、ボクのお姫様なんだから!」
私の手を離して、両手で必死に涙を拭う。
拭った顔は赤かったけど、やっぱり、まぶしい笑顔が咲いていた。




