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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第4章 決めた想い -棘科輝羽-
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 身体を底から揺らす、執事の愛車が奏でるエキゾーストノート。心地よい音を聞きながら、サイドミラーに映った守るべき人の姿を見つめていた。彼女の姿は見えなくなるまで駅前から動かなかった。初めて一緒に帰った日と比べたら劇的な変化だ。あの日は挨拶も返さず、親友の神城先輩すら置いて先に立ち去ってしまったくらいなのに。図書館で見た弱々しくつらい姿も忘れられない。私に触れるだけで声を上げ、冷静を装っている横顔には緊張と焦りが浮かんでいた。いつも眠たそうに細められていた瞳はしっかり私を捉えて、潤んでいた。

 求めるように。

「つらそうにしてたな」

 棒つきキャンディーを咥えたまま、ハンドルを握る執事が寂しそうにつぶやいた。短めの金髪に碧眼の長身美女、居谷里いやりあやめ。姉と私が絶大な信頼を寄せる棘科家の執事だ。一見、服装も言葉遣いもラフで全然執事とは思えない彼女だが、仕事は正確で繊細なところがある。今も遠く離れたふみの姿をしっかり観察していたみたいだし。

「多分、葛藤してるの」

「葛藤?」

「私を信じていいのかどうか。私に救いを求めることが許されるのかどうか」

 深呼吸をして目を閉じた。

 ふみは今、自分の過去と行為を振り返って悩んでいる。私に投げかけられた問いがそれをよく感じさせた。「軽蔑しないか」という問いは、歩み寄った人々を突き放してきた行為を省みて言ったこと。「手を引いてくれるか」という問いについては、彼女が周囲を疎むようになった原因を思い返して言っているのではないだろうか。その原因が一体何なのかはまだつかめていないが、信頼という要素は絡んでいると思う。根拠は神城先輩の存在だった。神城先輩は周囲を突き放すふみが認めた唯一の親友だ。幼馴染かつ、親友としての絆を紡ぐには当然、互いの信頼が必要不可欠になる。

 では、神城先輩が信頼された理由とは?

 文芸部での問題は最近起こったことだ。幼馴染の親友として確固たる絆を作り出すためには長い時間が必要になるから、最近発生した文芸部の問題は直接の理由ではない。となれば、神城先輩が信頼されたきっかけはもっと過去にあるはずだ。

 あやめに調べてもらった資料を思い返す。

 昔から生活態度や人間関係で揉め事を起こしていたという、ふみの姉を思い出した。彼女はふみの創作した作品を明町に見せられて辛辣に批判し、両親と共にコンテストへの応募を取り下げさせていた。

 ふみの姉が幼い頃にふみの心へ深い傷を残している?

 そのときに手を引いた存在が神城先輩だったということ?

 目を開けた。

「あやめ。帰ったらふみの姉について情報を集めてほしい。急ぎで」

「ふみって?」

「桜沢先輩。今日、少し仲良くなったの」

「おっ! だから『ふみ』ってか。オーケー、任せとけ」

 アクセルを踏み込む。車が応えて、背中がぐっとシートに押しつけられた。

 ふみに突き刺さった棘について少し近づけた気はするが、全貌はまだ見えておらず、今巡らせた考えは推測に過ぎない。棘の蔦は複雑に絡み合い、ふみを閉じ込めている。少しでも動こうとすれば彼女を傷つけ、刺そうとして、ますます彼女を縮こまらせてしまう。

 私が救い出そうとしているお姫様は、厄介な森に捕らわれていた。

「私の姉は自慢の姉。でも、ふみの姉は違うかもしれない。姉は姉でも、ね」

「奴さん、ガキの頃から問題児だったらしいからな。情報は紅羽にも共有させていいか?」

「いいよ。紅羽にも姉妹で解決しましょうって言われてるから」

 車が片側二車線の道路を離れて、北西へ向かう道路に入った。見通しのいい、まっすぐな道路は私たちの領域である棘の森へ続いている。車窓の向こう、街の方では灰色の塔がそびえ、様々な色の光が瞬いていた。あの輝きの向こうで、ふみが私の知らない道を歩いている。私が見たことのない景色、帰り道を歩き、見たことのない生家へ帰り着く。

 ふみが、手の届かない、見えない場所にいる。

 手が届く距離に近づいたせいか、不安で放っておけなかった。

 放課後は何があってもふみに会いに行こう。休日も、時間を作ってふみのそばにいられるように――いや、休日は相手の都合もあるか。私と一緒に過ごすことが必ずしも平穏とは限らない。今日は私を引き留めて必要としてくれたが、毎日というわけにはいかないだろう。一人になりたい日や時間は誰にでもある。

 しかし、それでもだ。それでも、君を近くに感じないと落ち着かない。

 ブレザーのポケットから黒いスマートフォンを取り出した。

〈ゴールデンウィーク中、会える?〉

 素早く打ち込んで、ためらわず送信した。

 こうして距離が縮まった今となっては、文明が生み出した技術の結晶が非常に頼もしかった。今すぐ会いたい人に文面だけでも繋がれる。その気になれば端末を通して声だって聴ける。科学の進歩とは何と素晴らしいのだろう。

「しっかし、大したもんだな。ついに先輩の心を開かせたのか」

 前を見たまま、あやめは明るい調子で言った。

 あれは、心を開かせたと言えたものではない。今までふみが見せていた、触れることのできない『先輩』とあまりにも違い過ぎて踏み込めなかった。私がそばにいると本当につらそうにして、ひび割れた角砂糖のように崩れてしまいそうだった。見ていられなくて、落ち着いてもらいたくて、ただ帰ろうとしただけだ。

 そうしたら、ふみが。

 私を、抱き寄せて――。

『お願い、行かないで、ください……』

 小さい私を包み込んだ、温かくて柔らかいふみの()()()。ほのかに感じた石鹸の香り。今までと違う、初めて聞いたか弱い声。胸が締めつけられて、熱くなる。まだ、私の芯に熱が宿っていた。

 ふみに抱きしめられたとき、幸福だった。

 桜沢文音という人に必要とされたことが、たまらなく嬉しかった。

 私に向けられた潤んだ瞳、頬を撫でるしなやかな指、私を求めるその姿。

 君だって、私をおかしくさせる。

 こんなにも、私を熱くさせるじゃないか。

 獣みたいな熱い欲求が、私の奥底を燃やしていた。

「……私が心を開いたとは言えないよ」

 ふみに対して燃える熱い気持ちを気取られないように、窓の外を眺めたまま、素っ気なく返事をした。夜の帳が落ちた棘の森、漆黒の翼が向かう先にライトアップされた石碑が見えた。大きな観光バスや車が停まる、棘の森温泉街の入り口だ。森の中は暗くなっても、私の小さな温泉街は温かい光に包まれていて、人々が行き交っているのが見えた。

「どういうことだ?」

「図書館に着いたときから、ずっとつらそうにしてたんだよ。本当につらそうだったから、今日は先に帰ろうとしたの。そうしたら、行かないでって引き留められて……」

「今まで突き放してた後輩を引き留めるほど、つらいことがあったってことか」

「多分。何があったのかまでは聞けなかったんだ」

「なるほど、ふみちゃんの姉さんを調べたいのはそれが理由か」

 今日の帰り道では結局、何があったのか聞くことができなかった。もし、ゴールデンウィーク中に会えるのなら、二人きりになれる場所でふみのことを聞かせてもらおう。いきなり全部を聞くつもりはない。ふみの話せる範囲で、無理なく私に教えてほしい。

 距離を縮められたとはいえ、まだ深い関係ではないから、大切に接したい。

 でも。

 いつまで我慢できるだろう。

 この燃え盛る、煮えたぎるふみへの想いを、いつまで抑えられるだろう。

 膝枕ですら、危うい気がする。

 黒いスマートフォンをブレザーのポケットに戻し、腕組みをした。

 車は棘の森温泉街入り口を通り過ぎて、街灯のない広い舗装道路に入っていった。ここから先は車のヘッドライトだけが頼りになる。滅多に人の訪れない、静かで深い、私たちの森に、代々の棘科一族が生きてきたとされる館があった。木々に囲まれて不気味にそびえ立つシルエットが見える。飛び出した四つの尖塔が、中央の館を守るように天へ伸びていた。人々が『とげやかた』と呼ぶ、私の帰る家だ。

 道の途中、一か所だけ質素な電灯がついた電柱があった。その手前を左へ曲がると、我が家へ続く並木道に入る。漆黒の翼は速度を落とし、緩やかに並木道を進んでいった。

「ふみちゃんの姉さんについては、帰ったらすぐに調査の手配をする。早く情報を渡せるようにしよう」

「忙しいのにごめんね。いつもありがとう」

「なんの、優秀な調査員たちもいるから朝飯前だぜ。本当はお前の身支度とか諸々、ぜーんぶ面倒見てやりたいくらいなんだ」

 私も紅羽も、正直言ってあやめに甘え過ぎている。広大な館の留守を任せ、私たちのスケジュールも管理して、調査の手配なども頼みっぱなし。だから、彼女の負担が少しでも減るように、私ができることは自分でするようにしている。あやめにしてみれば、執事がやるべき主人の身支度等をやらせてもらえないわけだから、あまりいい気持ちはしないらしい。

「その分、紅羽のことを手伝ってあげてよ。私はまだ学生だし、平気だから」

「んじゃあ、輝羽が社会人になったら身支度諸々、手を出してもいいんだな?」

「むー。結局あやめの負担が増えちゃうじゃん」

「それが執事の仕事だ。お前は気にし過ぎなんだよ。ったく、可愛いやつめ」

 ぽすっ、とあやめの手が頭に降ってきて、力強く乱暴に撫でられた。

 館の手前に設けられた黒い格子状の門扉を通り抜け、オレンジ色のランプに照らされた大きな玄関扉の前に車を横づけにする。私の身長よりもはるかに高い板チョコレートみたいな両開きの扉。夕飯前で少し空腹なせいか、かじったら美味しいだろうか、なんてくだらないことを考えてしまった。

 車を停めると、あやめがさっと車を降りて助手席のドアを開けてくれた。私もゆっくり車を降りて、板チョコレート扉の前に立つ。館に入ろうと扉に手を伸ばしたら、頼れる執事がドアノブをつかんで母親みたいな小言を言い出した。

「手洗い、うがい。着替えはベッドの上。もうすぐ夕飯だから間食するなよ」

「はいはい」

「宿題は?」

「図書館でやっつけたよ」

「よろしい。弁当箱を預かろう」

 今日一日の役目を終えたランチバッグをあやめに渡す。受け取った彼女は「行ってよし」というように玄関扉を開けてくれた。


 円卓かと見紛う巨大なシャンデリアが、純白のエントランスホールを照らしつくしていた。洋館である我が家のエントランスホールに靴箱はない。土足で歩いていいのは玄関扉から延びる灰色のタイルまでで、玄関マット代わりに敷かれている長方形の赤絨毯からは家に上がることになる。ここで靴を脱げ、というわけだ。絨毯の上にはウサギの形をした私のスリッパが置かれていた。ローファーを脱いで揃え、スリッパに履き替えると、正面にある階段へ向かった。横に十人は並べそうな広い階段から、途中で左右に分かれ、二階へのびている。私の部屋は中央の館、その二階にある。本当は四つの塔のどこかに部屋を置いて欲しかったが、我らの当主様が「あなたも棘科一族なんだから」と、わざわざ主寝室と同じ作りの部屋を同じ階に作ってくれた。

 部屋に入って、左手で部屋の電気を点ける。暖色の光がふわっと広がり、私の部屋を映し出した。紅羽が海外から注文したという、天蓋つきの巨大ベッドが目に入り、ベッドの上に綺麗に畳まれた着替えが置かれているのを確認する。勉強机にしているアンティークデスクに鞄を置くと同時に、ブレザーのポケットに入っているスマートフォンが振動した。

 脳裏に過ぎったのは、私を求めるふみの切ない瞳だった。

「……ふみ」

 黒いスマートフォンを取り出すと、予想通りふみから返信が来ていた。

〈今日は本当にごめんなさい。それから、ありがとうございました。ゴールデンウィークの件ですが、予定は入っていないので大丈夫です。あきちゃんに合わせます。誘ってくださってありがとうございます。私も会いたいです〉

 絵文字も顔文字もなく、飾り気のない、文章だけの返信だった。非常に整然としているが、繰り返される感謝の言葉からふみの真剣な想いがにじんでいた。一行だけで伝えた用件だというのに、深い心を込めて返信された気がする。

「私も会いたい、か」

 やはり、少し前までのふみとは違う。私を内側へ受け入れてくれたのだろうか。

 どこかもどかしさも覚えるが、焦りは禁物だ。

 壊れてしまわぬように守らなくては。

〈謝らなくていいんだよ。連休中の予定を確認したらすぐに連絡するからね〉

 私の言葉は文章だけだとふみのような想いが感じられない。絵文字で着飾って、ようやく文章に血が通った。本人と向き合えばしっかり言葉を伝えられるのに、文章を書くと冷たくなる。この違いは何なのだろう。微かな罪悪感を覚えながら返信をして、服を着替えることにした。手も洗って、うがいもしよう。

 そういえば、ふみの使っている石鹸はどこのメーカーなのかな。

 何となく、そんなことを思った。

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