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後日譚・5

 十月に入ると、近江帝の病いの状態が良くないらしいという噂が近江京中に広がるようになり、大海人皇子の元に近江帝の使いとして蘇我安麻呂が現れた。


「陛下が皇太子に是非お願いしたいことがあるとのことです。近江宮にお出でくださいますよう」

「いったい何のお話でしょう」

 横に並ぶ皇太子妃、鸕野讃良皇女うのさららのひめみこが怪訝な顔をした。

 安麻呂はひと膝分、前に出て、小声で言った。

「良からぬ予感がいたします。陛下に何を言われても、どうか、くれぐれも慎重にご返答なさいませ」



 大海人皇子が近江帝の寝所に案内されると、近江帝は力無く寝床に横たわっていた。

 近江帝は肩で息をしながら近習に申し付けて、ゆっくりと身体を起こさせた。

「我の病いは重い。今後、政をそなたに任せたいと思う」

「え」


 大海人皇子は背後の衝立の向こう側に人の気配を感じた。皇子の背中に汗が伝った。


「私は、元来身体が弱く病気がちでございます。そのような大業をお受けすることはかないません。どうか、皇后にお譲りください。皇后と大友皇子で政を行ないくださいますよう」

「我は皇太子のそなたに譲りたいのだ」

「では、私は皇太子の位を辞すことにいたします。これから仏堂に入り、陛下の御為に病気快癒を御仏に祈りたく存じます」

 大海人皇子は頭を深く下げた。



 大海人皇子が退室した後、戸の影から刀を携えた赤兄臣と家臣たちが出てきた。

「残念ですな。はいとおっしゃったら、謀反としてこれで終わりにできましたものを」

 と、赤兄臣は腰の刀に手を触れた。



 その二日後、皇后倭姫王の宮に報せが届いた。

「皇太子が出家なされた? 」

「はい。大海人皇子は皇太子を辞して出家なされ、吉野にて隠棲なさると」

「吉野」

 倭姫王は、青ざめた。


 かつて、大臣蘇我毛人、入鹿父子が葛城皇子らによって滅ぼされた後、当時皇太子であった倭姫王の父親古人大兄皇子は、皇太子の位を辞し出家して吉野離宮に移り住んだ。しかしまもなく葛城皇子から謀反の疑いをかけられ、吉野離宮で命を落としたのだ。


「あの時と同じ……。なりません、吉野へ行かせてはなりません」

「もう出立されたと」

「何ですって」



 倭姫王が侍女竹原を伴って宮を訪ねると、寝所に近江帝の姿はなく、庭先にあった。


「ああ? 病いなら、良くなった」

 近江帝は、庭の小菊の花を手折りながら、白々しく言った。


「それは、ようございました。ならば、大海人皇子のことは」

「我は位を譲ると言ったのだ。そうしたらあの者が、自分から太子を辞して仏道の修行をすると言ったのだ。次の世はそなたと大友皇子に政を任せてほしいと。だから、気の変わらぬうちにと思って袈裟を贈ってやった。先ほど吉野へ旅立ったようだが」

「なぜそんな急に」

「で、そなたはどうする」

「何をでしょう」

「大海人皇子はそなたに譲るようにと言った」

「ええ? いえ、私にはそのような大役を務められません。それより、大君はもうお元気になられたではありませんか」

「そなたもそう言うか。仕方ない、しばらくは我が様子を見て続けよう、大友皇子を皇太子にするか」



「何が、仕方がない、ですか。初めからそのおつもりだったくせに」

 皇后の宮に帰ってくるなり、竹原は言った。


「仏の道に入ると仰言ったからと、すぐさま袈裟をお贈りになるなど、なんとも嫌味ったらしいこと」

「そなたが私の言いたいことを全部言ってくれるから、すっきりするわ」

 倭姫王は笑った。

「ええ、姫様のお口が汚れませんよう、私が代わりに申します」

「あの時、姫様が、はい、それでは私が立ちましょう、と仰言ったら、どんなお顔をなさったでしょうね」

「ほほ……」

「ええ、本当に、姫様が立たれればよろしいものを」


 竹原は誰にも聞こえないように呟いた。

「……そうですとも、たった今、あの御方に何かあれば」



 その頃、重臣のひとり、蘇我安麻呂の邸では、安麻呂が息子の石足と話していた。

「そなたは大海人皇子と大友皇子、どちらが次の世の王にふさわしいと思う? 」

 安麻呂が息子に訊いた。


「ふさわしいも何も、大海人皇子は皇太子の任を辞してご出家なされました」

「そうだな。いずれ陛下は大友皇子を皇太子に任命するだろうな。おそらくは来春あたり」

「ええ、そうですね」

「だがその前に……」

「陛下は動かれよう。今までの、謀反の罪を着せて兵を送る過去のやり口を見ていると、それは遠くない。しかし、大海人皇子も黙って従うとは思わぬ」

「でしたら、何らかの手を打つのではないでしょうか。兵を吉野で待ち伏せて返り討ちにするとか」

「天皇の兵に刃を向けたとなれば、それこそ偽りの謀反の罪が本物になってしまう。味方する人間もいなかろう。もし勝ったとしても大海人皇子は即位できまい。人民がついてゆかぬ。それはないだろう」

「ご自身のお命が危うい時に、そのようなことを言っていられないのではありませんか」

「白村江の敗北の後、人心が陛下から遠ざかり、国は混乱した。このようなことでは国はまとまらない。天皇の下に皆が心ひとつにならねばいかんのだ。だからこそワシは、大海人皇子に立って欲しかったのだ。大友皇子の即位には、反対する者が多すぎる」

「それは」

「ここだけの話だが」

 安麻呂が低い声で言った。


「もし今、陛下の御身に何かあったら、おそらく皇后を立てることになるだろう」

「そう、なのですか」

「うむ。大友皇子は若すぎる。それまでの中継ぎとして、皇后に立っていただく」

「なるほど」

「もし、その間に大海人皇子が大友皇子を滅ぼしたとして、それならどうだ」

「ええ? 」

「その後、皇后から位をお譲りいただき、大海人皇子が位に就く」

「そんな大それたこと」

「どちらにしても、じきに陛下は動く。その前になんとかしなければ」



 一方、近江京に住む豪族たちの間では、こんな話もされていた。

「また旧百済のことで軍事協力の要請があったらしい」


 唐・新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた後、唐は旧百済領に「熊津都督府ゆうしんととくふ」を設置し、唐の外藩とした。前太子・隆を熊津都督ゆうしんととくに任命し、かつての百済人からの反抗を抑えた。

 しかし近頃、その旧百済領に新羅が攻め入っているのである。これには唐も閉口しているようだった。唐は高句麗や北方民族との戦いに忙しく、旧百済領のことまで構っていられない。

 そこで、日本に唐から軍事支援の要請がきたのである。


「そうは言っても、兵を送るのは無理だ。前の時にどれだけ痛い目にあったと思っている。帰ってきた人間の話では、海は我が軍の死体で水面も見えないほどだったというではないか」

 白村江の敗戦は、今も根強く豪族たちの頭にこびりついている。


「本当に、あれは酷い戦さだった」

「ああ、あんなに死人が出て、命からがら逃げ帰ってきても、ろくに報償も出ないと」

「新羅に勝ったら賠償をたんまりせしめるという話だった。しかし、負けたじゃないか」

「上の方々はよい。安全な場所にいてあれこれ言うだけだからな」

「まさか、また新羅との戦さに駆り出されるのではなかろうな」

「もう、うんざりだ。海の向こうに行くのは」

「どうして陛下はそんな戦さに力を貸すのか。せめて大海人皇子なら、新羅と戦わずにやっていかれると思っていたのに」

「よせよせ、出家して吉野へ行かれた。古人大兄と同じ道を歩むだけだ。もう、大海人皇子には期待できない」

「いやいや、大海人皇子がこのまま大人しく吉野に隠棲するわけがない」

「ああ、きっと何かお考えがあられる」

「そうだ、虎に翼をつけて野に放ったようなものだ。このままでは済まされまい」

「大海人皇子がきっと世を変えてくださるに違いない」

「皆は、どちらにつく? 」

「それはもう、勝ち目があるほうだ」



 冬が訪れると近江帝は「病いが治った」として、山科へ出かけ陶原館を訪ねた。


 あいかわらず山科ののどかな里の風景は変わらない。

「鎌足が作ったこの里の温かさが、ここで鎌足と共に過ごす穏やかな時が、我はとても好きだった」

 山の木々の間を馬で歩きながら、近江帝は呟いた。

「こんな小春日和の中、冗談を言いながらふたりで笑ったものだ」


「陛下、そろそろ日が落ちまする。お戻りを」

 馬上の近江帝に、付き人が声をかける。

「ああ、もうひと回りして戻る」


 近江帝は、色付く空を仰ぎ見た。

「日が落ちゆく空が五色に変わるのを、二人で飽くることなく眺めていた」

「春は雪の消えかかった庭で若菜を摘み」

「夏は山へ入って野兎を狩り」

「秋は虫の音を聞きながら盃を傾けた」

 近江帝は突然、付き人を置き去りにして馬を走らせた。

 慌てて数人が走って後を追った。


「鎌足が逝って皆が悲しみ、我は泣き喚きながら高揚感に包まれた。しかしそんな一時の高揚感もすぐに消滅した。あとは喪失感に日々身体を蝕まれていくだけだ」


「景色は何も変わらないのに」


「それなのになぜ」


「鎌足がいない」


 近江帝は馬を走らせながら叫んだ。

「我には何もない」


「鎌足、お前はどこにいる」


「鎌足! 鎌足! 」



 その夜、近江宮は大騒ぎだった。

「陛下が山科でお姿をお隠しになられたと」

「狩の途中、陛下が急に馬を走らせ、供の者がついていけずに」

「そこら中探しても呼んでも陛下の姿はどこにもなく」

「崖の淵に、ただ片方の沓が見つかったと」

「夜通し捜させておりますが、何しろ山の中、辺りは暗く」

「まさか、陛下は」



 近江帝が目を覚ますと、そこは真っ暗な洞窟の中だった。


「ここは……どこだ? 」

 近江帝の身体には傷ひとつなく痛みもなかった。

「そうだ、急に馬が暴れて」

「我は、崖から落ちたのか? 」

 近江帝は起き上がり、周囲を見回した。洞窟の先に光が見える。

「出口が」

 出口ではなかった。洞窟の奥に、黄金に光り輝く観音菩薩像が立っていた。


「では、ここは、黄泉の国か……」

 近江帝は、仏像に問いかけるともなく呟いた。


 すると、仏像の口が開いた。

「黄泉ではないが、似たようなものだ」

「何者? 」


「そなたは崖から落ちて落命した。だが、我ならそなたを生き返らせることができるし、別の世界に送ることもできる。どうだ、選ばせてやろう。そなたは生き返り、元の世に戻り何事もなくこのまま元の生活を続ける」

「生き返ることができると」

「もうひとつは、見知らぬ場所で新しい世界に生まれ変わり、全く違う人生を歩む」

「なんだ、それは」

「元の生活に不満があるのだろう。しかし生き返れば、元のように平穏な暮らしができる。一方、未知の世界で暮らすのは困難が多い。その代わり、そなたの望みをただひとつだけ叶えてやろう。どうだ」

 光り輝く観音菩薩像の顔が笑ったように見えた。


「さあ、そなたはどちらを選ぶ」

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