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後日譚・2

 翌正月、鎌足のいない寂しさを紛らわすかのように、正月行事の舞や賭弓のりゆみが派手に行なわれた。


 周りの人間は、近江帝のように鎌足の死をただ悲しんではいられなかった。いつまでも政に力が入らない近江帝を見て、側近たちは不安に感じていた。

 これまでずっと、百済の役の後は特に、国の政策は鎌足が中心となって考え群卿会議をまとめていた。鎌足がいないと方向が定まらない状態だ。


 正月行事が終わると、蘇我赤兄臣は近江宮に出向いて言った。

「早々に内大臣の後継をお決めくださいませ」

「いえ、私がどうとかというのではございません。皇太子の件もありますし、このところ、半島の国々に不穏な空気が流れているとの噂も聞きます。ここは、国内をまとめておきませんと」


 あいかわらず白衣に身を包んだ近江帝が、物憂げに答えた。

「ああ、わかっておる。鎌足の喪が明けたら、決める」

「内大臣の喪が明けたら、と仰言いますと」

「だから、十三ヶ月を過ぎたら、だ」

「十三ヶ月」

「前も言ったであろう。鎌足は我の師であり父であり兄であるのだ。父母同然の喪に服すのは当然であろう」

「……」



「はあ? 十三ヶ月? 」

 赤兄臣の邸に集まった群卿は、赤兄臣から話を聞いて騒ぎ出した。


「天皇の喪に等しいではないか。何を仰言っているのだ、陛下は」

「私には、どう申し上げたらよろしかったのか、わかりませぬ」

「大海人皇子から言っていただくのはどうでしょうか」

「しかし、また以前のようなことになったら」


 以前、酒の席で大海人皇子が長槍を振り回し、怒った近江帝が大海人皇子の処刑を命じたことがあった。鎌足が近江帝を宥めなんとかその場は収まったが、鎌足がいない今、近江帝を止める人間は誰もいない。


「もし、私にできることならば」

 近江帝の長男大友皇子の教育を任されている学士の沙宅紹明さたくじょうみょうが言い出した。


 百済が新羅に占領された後、多くの百済人が日本に亡命してきた。高等教育を受けた王族貴族、学者なども数多く来日した。

 紹明も日本に亡命してきた貴族のひとりだった。豊かな学識を評価され、学士として大友皇子の教師となった。


「私なら、国が滅んだ時に無くしたも同然の命、惜しくはありませぬ」

「いや、その、」

 赤兄臣は口籠った。


「私は仮にも大友皇子の教育を任されている身。皇子のためにと申し上げれば、陛下も本気でお考えなされましょう」


 群卿会議は日本古来の豪族の集まりである。百済の亡命貴族の沙宅紹明が、鎌足亡き後の内大臣の座を狙っているのではないかと警戒するところもある。

 しかし、今はそうも言っていられない。


「それもやむなし、か」



 近江帝の説得に向かった紹明は、情に訴えかけるように言った。

「陛下がいつまでも嘆き悲しんでおられたら、内大臣も極楽浄土で心配なさることでしょう。大友皇子の将来のために、早いうちに政治体制をしっかりお作りなさいませ」


 近江帝は、またか、と言いたげな顔をした。

「わかっておる。前々から鎌足が考えていた策がある」

「内大臣が。やはり先のことをお考えだったのですね。それはいったいどのような策でしたのか、私がお聞きしてもよろしゅうございますか」

「ああ……。鎌足は、左右大臣を決め、その上に太政大臣として大友皇子を据えるように、と遺した。本来なら我が即位した時に決めるはずだったのだが」

「なるほど。大友皇子を内大臣のようなお立場になさるのですね。で、左右大臣にはどなたを、と? 」

「我の思う人材に、と言っておった」

 現在、群卿の最高位は大錦上たいきんじょう蘇我赤兄臣である。


「では、赤兄臣」

「……鎌足は、口には出さなかったが、赤兄を心から信用していなかった。鎌足が先皇から託された有間皇子ありまのみこを唆し、悪い考えを植え付けたのは赤兄ではないかとずっと疑っていた。もしかしたら恨んでいたのかも知れぬ」

「でしたら……」

「いや、我は、赤兄を大臣にしようと思う。だが鎌足の殯が終わるまで任命は控えたい。それが鎌足へのせめてもの礼儀だと思っておる」

 近江帝は寂しそうな顔をした。


「陛下……」

 紹明は、近江帝の情に心動かされた。だが、自分がここに来た目的を忘れてはいけない、と思い直した。


「お気持ちはよくわかります。ですが……、長期間の大臣の空位は政情を不安定なものにします。十三ヶ月という時間をもう少々短くなされませんか。内大臣も、この国の行く末を誰よりも案じておられたはずです。大友皇子のためにも、万全とした体制を今のうちに作っておくべきかと」

「もうどうだってかまわぬ。叔父上の時にそうであったように、我は鎌足と共に皇子を天皇にする策をめぐらせ、あれこれ楽しみたかった。だが、今はそれも叶わぬのだ」

「この紹明では力不足と思いますが、他の者もおります。皆で大友皇子を盛り上げていきましょう」

「鎌足がいなければ何をしてもつまらぬ。いっそ、退位して仏門に入ろうか」

「陛下、もっと真剣に大友皇子のことをお考えください。今、目の前にいる皇子と、薨去なされた内大臣と、いったいどちらが大切なのですか」

「そんなこと、聞くまでもない」

 紹明はほっと息をついた。


「鎌足に決まってるではないか。当然だろう」

 紹明の顔から血の気がひいた。

「鎌足は誰にも代え難い。わかりきったことだ」

 近江帝の瞳は、目の前の紹明を見ていなかった。



「陛下を説得できませんでした」

 赤兄臣の邸で、集まった群卿を前に紹明が言うと、皆それぞれ安堵と蔑みの表情を浮かべた。


「やはり沙宅様では内大臣の代わりはご無理のようですな」

 赤兄臣の言葉は微かに嘲りを含んでいた。

 紹明は、彼らの悪意に気付かぬふりをして続けた。


「ですが陛下は、来春に大臣の任命を行なうとのことで、もうお心はお決まりのようでした」

「何? 」

 一同の目の色が変わった。


「ゴホン。で、誰と宣われた? 」

「……いいえ。誰とは仰せになりませんでした」

「まあ、それはそうだろう」

「沙宅様にそう易々とお心を明かすとは思えぬもの」


 紹明は、日本の古い豪族たちと自分たち渡来系との間に溝があるのを以前から感じていた。

 突然よその国からやってきて高い冠位を与えられたのだ。よく思わないのは当然だろう。おそらくこの溝は、この先の政治運営に良い影響を及ぼさないだろうとも思っていた。


「内大臣がいなくなって、これほどに皆、頼りなくなってしまうとは」

 紹明はひとり、呟いた。

 


 そうして鎌足が死んで一年が過ぎた。


 秋の日、鏡王女は、白絹の裳に薄墨の上着を身にまとい、近江帝の御前に座っていた。顔を合わせるのは、この五月、鎌足の殯を行なった山科に近江帝が弔問に訪れて以来になる。


「大君におかれましてはごきげんよろしゅう。わが夫の儀に際しまして丁重なるご弔問並びに過分のご厚志を賜り、誠にありがとうございました。おかげさまをもちまして滞りなく埋葬できましたことをご報告に参りました。本日、忌明けにあたり、謹んでお礼を申し上げに参りました」


「今さらそのような挨拶は不要だ。わが夫、か。そなたはよいな。そのような絆があって」

「何をおっしゃられます。絆なら貴方様のほうが深い絆がおありでしょう。私などより長く一緒にいらっしゃった」

「我には何もない。そなた、妻が夫の供養をするのは世の理。だが我には許されぬ」

「……山科に寺を作ることにいたしました。陶原館すえはらのやかたはいずれ寺の僧たちに使わせましょう」

「陶原館を」

 近江帝は驚いた顔をした。


 山科にある陶原館は、鎌足が休暇を過ごしたり客を饗応したり私的な時間を過ごした別宅である。近江宮から山間の街道を馬でゆっくり行っても半刻(一時間)とかからない。

 近江帝も、山科で狩りをする時、散策をする時、いつも館に立ち寄り食事をし酒を酌み交わし、時には宿泊して楽しく過ごしたものだった。


「もうしばらく、あのままにしてはくれまいか。時折、立ち寄りたい」

「ええ、お望みならば」

「……しかし、そなたも寂しくなったな。いや、そなたには子がいるか。確か、女子二人」

「ええ」

「どうだ、鎌足に似ているか」

「そうですね、下の子のほうが似ているかもしれませんね」

「そうか、では、その子を我にくれぬか」

「どういう意味でしょう」

 鏡王女は慎重に答えた。近江帝の過去の例から、また非常識ことを言い出すのではないかと思っていた。


「そのままだ。我の養女にしたい」

「なぜそのようなことを仰せになります。陛下には皇女が何人もいらっしゃいましょう」

「数の問題ではない。我は鎌足の子を育てたいのだ。それに、父親がいない女子は将来が不安であろう」

 鏡王女は足元を見られた気がして不快に思った。


「私が育てますから大丈夫ですわ。それより、フヒトの行く末を考えてくださいません? 」

「フヒト? ああ、采女の子か。わかった、早晩なんとかしよう。その前に、そなたの子だ」

「私の子を陛下が養育し、将来どうなさるおつもりです。誰の妻にしようと考えておられますの」

「そなたは相変わらず厳しいな。誰の妻にって、我の皇子に決まってるではないか。まさか、おかしな想像をしているのではないか」

「ええ、大君が我が夫の代わりになさるのではないかと」

「ばかげたことを。そなたの杞憂に過ぎぬ。なあ、我に養育させてくれぬか」

「お断りします」

 鏡王女は済ました顔で言った。


 近江帝は、一瞬唖然とした顔をし、急に笑い出した。

「ははは、よくそうやって鎌足に断られたわ」

「……よほど無茶な要求をされていたのでしょう」

「いや、だが、間髪入れず断るのは鎌足だけだった。他の誰も拒むことのできない我の命令を、そうだ、鎌足だけが何の躊躇いもなく断るのだ、ああ、懐かしいな」

「まるで断られるのが嬉しかったようですね」

「鎌足は我を恐れないのだ、ははは」

 そう笑いながら近江帝は涙を流した。

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