後日譚・1
木枯らしが宮の庭の落ち葉を吹き飛ばした朝、近江帝こと葛城皇子がいつものように顔を洗い、着替えようとすると、采女の手に薄墨色の衣があった。
近江帝はハッとして、側に控えていた侍女頭の顔を見た。
「先ほど遣いが参りました。昨夜半過ぎに、藤原内大臣が息を引き取られたそうです」
近江帝はそのまま、動かなかった。
「陛下……」
しばらくの沈黙の後、近江帝は急に立ち上がると立て続けに言った。
「そうだ、喪の儀礼の手配をしなければ。赤兄を呼べ。殯はどこに設ける。何を準備すればいいのだったか。いや、弔問に行こう。いつにする。赤兄はまだか。早く皆にも知らせねば」
ウロウロと忙しなく部屋を歩き回る近江帝に、侍女頭が言った。
「陛下。落ち着きなさいませ。とにかくお着替えなさいますよう」
近江帝は、薄墨色の衣に目をやった。
「白衣を持って来い」
「陛下、臣下のために白衣は必要ありません」
侍女頭の言葉に、近江帝はポツリと言った。
「鎌足は臣下などではない」
「鎌足は……」
そこまで言うと声を詰まらせ、両目からぼろぼろと涙を溢れさせた。
鎌足が死んだ報は近江京中に広まった。
「内大臣が薨去したと! 」
「まだ跡取りの息子も幼いというのに」
「大君もさぞお嘆きのことだろう」
「しかし、この先どうなるのだろうか」
「ああ、これまでほとんどの政を内大臣に任せていた。いったい誰が代わりをできるというのだ? 」
「国内だけではない。対外政策だって」
「大海人皇子との仲もうまくいくだろうか」
「そうだ、何かあっても仲裁する人間がいない」
「また諍いが起きねば良いが」
人々からは、鎌足の死を悼む声より、今後の政情に不安を抱く言葉が多く聞かれた。
弔問の打ち合わせのために宮を訪れた蘇我赤兄臣に、近江近江帝は言った。
「我も行く」
「は? 」
「この目で確かめるまでは、我は信じぬ」
弔問には、天皇の弔意の言葉を代理の蘇我赤兄臣が持って行く予定であった。天皇は『死の穢れ』に近付いてはならないのだ。
「それはおやめください。陛下」
「我は行かねばならぬ」
「いいえ、陛下が臣下の弔問など、あってはならないことにございます」
「鎌足は臣下などではない。我の師であり父であり兄であるのだ」
「しかし」
「行かせておやりなさい」
「皇后! 」
皇后・倭姫王が部屋に入ってきた。
倭姫王は近江帝葛城皇子の異母兄の古人大兄皇子の娘である。古人大兄皇子は元々、舒明天皇の皇太子であったが、あの乙巳の変で滅ぼされた大臣蘇我毛人と入鹿の血縁であったため、乙巳の変の直後に妃妾と共に死に追いやられた。
葛城皇子が即位するにあたって皇后を立てる必要に迫られた時、両親もなく祖父方の蘇我宗家も滅び有力な後見がいない倭姫王に白羽の矢が立ったのだった。
父親が死んだ時は幼女だった倭姫王も、今では立派な大人となり皇后としての威厳も身につけた。
「それで大君の気が済むのなら、行かせておやりなさい」
「しかし、そのようなことは前例が」
「大君は今までも型破りなことばかりなされてきた御方。今更言っても変わりません。責任は私が持ちます」
「皇后……」
近江帝はひと回り以上も年下の、若い倭姫王の顔を仰ぎ見た。
倭姫王は、近江帝の着ている白い衣をチラと見て言った。
「先ほど大君の采女たちが困っていたと耳にしました。大君が白い喪服を望んだと。どんなことでしょうと思って来てみれば案の定」
「鎌足は、特別なのだ」
「ええ、存じておりますとも」
倭姫王は無表情な顔で言った。
「ずっと」
倭姫王の父親が滅ぼされた時、公には「古人皇子が謀反を企てた」とされていたが、古人大兄皇子に代わって皇太子となった葛城皇子による策謀だとも噂されていた。
もちろん、そういった話は幼かった倭姫王の耳には入らないようにしていた。だが、周囲には噂話をする人間も多い。倭姫王が知っていても不思議はない。
皇后に立てられる時、彼女がどのような気持ちで話を受けたかは誰にもわからない。
それから二日後、近江帝と蘇我赤兄臣は近江の鎌足の邸を訪問し弔問の儀を行なった。
そして鎌足の死から九日後、鎌足の別宅である山科の陶原館で殯を行なうため、鎌足の棺は近江京を出立した。
「この度は、わが姉、鏡王女のためにお心遣いを賜り、ありがとうございました」
倭姫王の宮を訪れた額田王が言った。
額田王は近江帝の妃のひとりであり、姉の鏡王女は鎌足の正妻である。
「大変でしたね。鏡王女はどうなさっていますか」
「今は山科で殯を行っております。京からも弔問に訪れる人がいて、お陰で寂しくないと申しておりました」
「そう、大君が皆に命じておられたようですね」
「大君のご様子はいかがですか。先日も大変だったと聞きました」
「ええ、またわがままを言って、葬列を宮の前の道を通るように指示していましたが……」
皇后も含め、近江帝の妃たちは、常日頃から近江帝に振り回され苦労をさせられているせいか妙な連帯感がある。況して、自分の意思に関係なく近江帝の妻となった倭姫王と額田王は、互いに同情の念を抱いていた。
「棺の見送りするために門前に出てきて、皆が止めなければ、棺に縋り付いて号泣しそうな勢いでしたわ」
「まあ」
「それだけではありませんけれどね。弔問の時も」
「ええ、ちらと耳に挟みました。大君自ら、発哀の礼を行われたとか」
発哀の礼とは喪の儀礼のひとつで、死者を悼み弔意を表して慟哭する儀式である。儀礼的なものであり、多くの場合は泣くふりをして声を上げるだけのものだ。
前天皇の宝皇女が崩御した際には、息子である葛城皇子や臣下が行なったが、天皇が臣下に対して行なうことは無い。本来なら、臣下である蘇我赤兄臣が天皇の代理として行なうはずであった。
「赤兄臣が言うには、喪屋に入られ、内臣のお顔に触れて、冷たい、冷たい、と涙を流されたそうです」
「なんと、お手を触れられるとは」
「ええ、赤兄臣が声をかけても、ずっと泣き喚くのを止めず、周りの皆が無理やり立ち上がらせて、ようやく」
「まあ……、それほど情の深い御方だとは存じませんでした」
額田王は大袈裟に少し皮肉めいた口調で言った。
「ええ、私もちっとも存じませんでした。その情を他の者にもかけてくださればよろしいものを」
倭姫王は、静かに呟いた。
しばらくすると、近江宮では、毎夜のように宴が開かれるようになった。踊り子を呼んでは舞を、俳優には劇を、気晴らしに興じていた。
「いくら内大臣が亡くなられて寂しいからって、毎日このようなことではお身体に障りましょうに」
「全く、付き合うこっちが参ってしまいますわ」
部屋の片隅では、貴族たちがぼやきながら酒を飲んでいる。
「ははは、もっと踊れ。さあ、飲め飲め」
「もう飲めませぬ」
「おお、これは干し柿か。美味しいな、なあ、鎌足」
近江帝はそう言って右側を見た。
場がしんと静まった。
「……もうよい、我は寝る」
近江帝は、傍にいた采女の腕を掴んで奥へ消えた。
「女を抱いている時だけは忘れられる」
そう思っていたが、近江帝は行為の最中に思いだした。
「なぜあの時、毒酒を渡してしまったのだろう」
「毎日毎日、衰えていく鎌足を見るのが辛かった。このまま鎌足を失うのかと思うと苦しかった。苦しみがいつまで続くのか耐えられなかった。我の苦しみを終わりにしたかったのだ」
「もしかしたら、毒を飲まなければ治癒したのかも知れない。いや、」
「鎌足は、酒に毒が入っていると分かっていたはずだ。でも鎌足は、飲んだ」
「そうだ、我のために毒を飲んだ。我の思いを、鎌足は受け入れたのだ」
「我のために」
近江帝の頬に赤みが差した。
「ああ、鎌足、なんと尊い」




