第21話・請安先生との別れ
その後、僕は病気を理由に神祇伯を断った手前、病の療養という名目で飛鳥の京を離れなくちゃならなくなって、摂津三島の僕の別荘に行った。
摂津三島は大阪の難波津近く、川沿いの平野である。川を舟で行けば難波にもすぐ出られる。
大阪は子供の頃に家族旅行で来たことがあるから知ってるが、全く印象が違う。当たり前だけど大阪城がない。道頓堀のあのゴチャゴチャ感がない。
海が近く、二十一世紀より川がたくさんあって、河口には葦が生い茂ってる。港の桟橋にはたくさんの舟。港も河岸もコンクリートで固めてないせいか、風情があって面白い。
「難波の行宮に来たついでに、見舞いに来たぞ、鎌子。どうじゃ、身体の具合は」
別荘に軽皇子が見舞いと称して遊びにきた。
「ふふ、この通り、ピンピンしておりますよ、殿下」
「んふふ、そうじゃろうと思って、そちの好きな肉を持ってきた」
「おお、ありがたきお心遣い」
「病人は精をつけなければな、ふぁふぁふぁ」
軽皇子が難波にいる数日間、僕らは囲碁を打ったり、のびのびと過ごした。寒い夜は軽皇子が持ってきた肉で作ったシシ汁で温まり、穏やかな日には河原で釣りをしながらかぶら寿司を食べた。
「ここは、広々として気持ちがいいのぉ」
遮るものが何もない平野で、川がゆるやかに流れている。周囲を山々に囲まれている盆地の飛鳥の地とは大違いだ。
「飛鳥は雪が積もって寒くて困る。ここに大きな宮城を作って、京にしたいのぉ」
「とてもいいお考えかと。ここなら古いしがらみもなく、殿下が新しい世を作るにピッタリな場所だと思います」
本当に穏やかでいいところだ。今度、妻たちを連れてこよう。そうだ、またみんなを誘ってホームパーティーをここでやるのも悪くない。
こうして楽しんでいると、このまま革命など起こさなくてもいいのではないかという気分にさえなる。
僕らはしばらく別荘に滞在し、作戦会議をした。
「いよいよ次の作戦、これからが本番です」
僕は請安先生と練った作戦を話した。
請安先生が考えた革命の作戦は、やはり蘇我入鹿を殺害するものだった。
僕が「できるだけ人を殺さずに革命を成功させたい」と言ったら「甘い」と却下された。
先生なりに「極力死人を少なくするようにした」らしいが、結局、乙巳の変はやらなきゃいけないようだ。しんどい。
「山背大兄の時と同じと思ってください。鞍作臣を捕らえ、天皇の御前で断罪し処罰を要求します」
「姉上が拒んだら」
「拒むことはないでしょう。そのために葛城皇子を利用するのですから。本当に殿下はよろしいのですか」
「もちろん。最初に利用しようと言ったのは我じゃ。我が息子が一番可愛いからの。甥っ子など、所詮他人じゃ」
「殿下のご覚悟を知って安心しました。心置きなく作戦を実行できます」
「で、我は何をすればいい」
「殿下は、事が終わってから活躍していただきますので、それまでは、安全な場所におられるよう、お願いします。場合によっては飛鳥を離れ、ここ難波におられるのもよろしいかもしれません。この件には何も関わりのないような顔をしてお過ごしください」
「うむ。わかった」
「それから協力者ですが」
「誰か、心当たりはあるのか」
「まず、殿下の岳父にあたられる御二方、阿倍臣と蘇我倉山田臣。蘇我大臣家の毛人臣や入鹿臣に対し、日頃から不満を持っておられます」
「うむ」
「それから実行役として何人か、口の硬い仲間を誘うことをお許しください」
「任せた。あとは、うまく葛城皇子が動いてくれることだな、ふぁふぁふぁ」
軽皇子は意地悪い笑いを浮かべた。
しばらく後、飛鳥京に戻った僕が、一足先に戻っていた軽皇子の宮へ挨拶に行くと、皇子は声を顰めて言った。
「ここだけの話だが」
「我らが京を離れている間に、葛城皇子が間人皇女とできてしまったそうじゃ」
「? 間人皇女とは」
「姉上と亡き天皇との娘、葛城皇子の同母妹じゃ」
「それは……」
めちゃくちゃヤバいんじゃ……?
「姉上の宮へ行ったら、采女がこそこそ話しておった。姉上も頭が痛かろう」
この時代、兄妹でも、母親が違う異母兄妹ならば結婚できるのだが、同母兄妹の近親相姦は重罪になる。
軽皇子は自分の息子のライバルが自滅してくれてホッとしただろう。
「これで葛城皇子はもうおしまいじゃ。愚かなことをしたものじゃ」
「それなら」
「尚のこと、姉君に殿下に譲位していただきやすくなりますね」
「む? 」
「このまま葛城皇子に譲位しようと思った時に、群臣にそのことを問われたら譲位はうまくいかないでしょう。そこでいったん軽皇子に譲ってもらい、ほとぼりが冷めるまで待とう、という提案ができます」
「なあるほど。さすが、そなたは優秀な軍師じゃ」
「いやあ、それほどでも」
「ふぁふぁふぁ」
その数日後、請安先生の塾に行った時、葛城皇子から説明を受けた。
「皇子、おかしなことを聞きました。葛城皇子が間人皇女と……」
僕が全部言う前に、皇子は遮って言った。
「母上が悪いのだ。妹を古人大兄の妃にしようなどと言い出すから。そのようなことはさせまいと、我が妨害してやったのだ」
「なんと、本当だったのですか。皇子、同母兄妹の近親相姦は重罪ですよ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟ではありません。その昔、允恭天皇の皇太子、木梨軽皇子は」
僕は、歴史書で読んだ木梨軽皇子の話をして聞かせた。
「木梨軽皇子は允恭天皇と皇后との間に生まれた皇太子でした。しかし、同母妹の軽大娘皇女と関係を持ち、皇太子の地位を剥奪されたのです。二人は罪人として伊予国へ流され果てたのです」
「うっ」
「よいですか、他の人間に知られないうちに関係を断つのです。人に知られたら天皇になる資格を失うばかりではなく、皇子も皇女も罪人として処罰されるのですよ。これきりになさいませ」
「わかっておる、言われるまでもない」
二人の関係はいずれ采女の口から他人へ漏れるだろう。作戦が完遂するまでは表面化しないことを願う。
ところで、最近の僕は、暇ができると安媛の部屋に行き、赤ん坊のマヒトを眺めている。自分の子ではないが、見ていると楽しい。自分がこんなに子供好きになるとは思わなかった。
ある日の午後も、僕は安媛とマヒトのやりとりを寝転びながら見ていた。
「だー、だー」
そろそろ不思議な言語を喋り始めてる年齢だ。
「何て呼ばせましょうか。殿様、父上、それとも」
安媛が楽しそうに言う。
そうだな、やはり……。
「……とと様」
トメにも「とと様」と呼ばれたい! これは全父親の憧れだろう?
「ととさま」
安媛が僕を指差しゆっくり言う。
「とー」
「ととさま」
「とーとー」
そうだ、その調子!
「さま」
「ちゃまー」
うおおおお。
「聞いたか、聞いたか、今、とと様って言ったぞ! 言ったよな」
「ええ、ええ、言いました」
「もう一度、言ってくれ、ととさま」
「とー、とー、ぷにょ〜」
「ぷにょ〜、じゃない、ととさま」
「ぷにょ〜、ぷにょ〜、ぷにょ〜ん」
「もう飽きちゃったみたいですね」
安媛が笑いながらマヒトを抱き上げる。
ああもう、かわいいぞ、マヒト。こういうのを幸せと呼ぶのか。ジーン……。
そんな中、病を抱えていた請安先生の病状がいよいよ思わしくなくなった。
僕は他の弟子たちに先立って先生に呼ばれた。土気色の顔をした先生は、痩せ細った身体を半分起こし、言った。
「形見分けだ。書物を好きなだけ持っていくがいい」
「先生……」
僕は、それまで請安先生が書いた本、全てを選んだ。唐から持ち帰った他の本には目もくれず、先生の著書だけを選んだ。これらの本が僕に必要なのは確かだが、僕以外のおかしな人間がこれらの本を読んだら危険だと思うからだ。僕以外の誰の目にも触れさせてはいけない危険思想の本なのだ。
先生の著書全てを持ち帰ろうとする僕を、先生が満足げな目で見ていたように思えたのは気のせいだろうか。
「これから貴公が事を成し遂げ、世を変えるのが楽しみだな。俺が見ることができないのは残念だ」
程無い秋の日に、請安先生の命は散った。
稲淵の田舎道で弟子たちが野辺送りをするのを、葛城皇子と僕は遠くの土手から見ていた。僕らは埋葬には立ち会わなかった。
その帰り道、僕は皇子の後を黙々と歩いた。
突然、皇子が顔を上げた。
「おお、見てみよ、鎌足」
皇子の視線の先を見ると、水田の土手に咲き誇る曼珠沙華の群生だった。
「美しいな。我は曼珠沙華が好きだ。ああやって咲き誇っているのを見ると、血飛沫がそこいら中に飛び散っているようで妖しく見えないか、鎌足よ。まるで請安先生の吐いた血のようだ」
「血飛沫とは……、皇子は悪趣味ですね。私には美しい女人の紅に見えまする」
僕は不吉な予感が喉元に上がってきた。
天皇宝皇女が古人皇子へ譲位を約束した期日まで、残り二年を切った。
上宮一族が滅ぼされて以降、何かにつけて「上宮様の祟り」が囁かれるようになった。蘇我大臣に対して、豪族たちの気持ちもどこか以前とは違うような感じがする。
そんな空気のせいかどうかわからないが、蘇我大臣は甘橿岡に新しく作られた屋敷の周りに堅牢な柵を張り巡らし、武器庫を作るなど、警備を厳重にした。
京の人々は囁き合った。
「大臣の屋敷、あれはまるで要塞のようではないか」
「あのように堅固な防塞を作って、一体何に備えているのだろう」
「あれじゃないかな、『上宮様の祟り』」
「バカを言うなよ。祟りは柵で防げやしないぜ」
「でも、何かを恐れているのは確かだろう。何か良からぬことが起きるのだろうか」
スナック鎌足に集まるみんなの顔が真剣だった。
「いよいよか……」
「何があるかわからぬ。皆は妻子を京から遠ざけておいたほうがよいかもしれないな」
「俺もその日は妻を実家に行かせる」
僕も別荘に行かせられればよかったのだが、子供たちが幼く、無理だ。その日は家の警備を厳重にさせ、トヨには安媛と共に本宅で過ごすよう、言っておこう。
「本当にやるんだな、僕たち」
勝麻呂が青ざめた顔で言った。
いや、一番ビビってるのは僕だ。
大参謀、中臣鎌足、いよいよ動く。




