第332話『見えないものと見えないもの③ 時代』
美しさの影には、見えない時間や歴史の重さが潜む。
その陰影をそっと感じ取ることができる目が、世界を深く味わうことを教えてくれる。
みきさんの注文した珈琲が運ばれてきた。
湯気の向こうでほろ苦い香りが立ちのぼり、カップをそっと口に運ぶたびに、
「苦……苦……」と、みきさんが小さく呟く。
その声に、湯気が震えたようにも見えた。
露葉は、テーブルに開いたまま置かれている上村松園の《雪吹美人図》へ静かに視線を落とした。
絵の中の二人の女性が、まるで風の中からこちらへ歩いてくるように見える。
露葉が言う。
「さっきアスくんと、この作品こんな悪天候でも気品があるねって話してて。」
みきさんはゆっくりと微笑み、話に耳を傾ける。
アスは自分の紅茶を手のひらで包みながら、絵を見て言った。
「裾が風に揺れて、風の形まで見えるような気がする。」
「解説にね、裾を翻していながら卑俗に陥らないのはさすが松園って書いてあったけど、
確かにって感じたの。どんな時も上品で。
上村松園の凛とした佇まいとか、所作の美しさの描きが好き。」
露葉は絵の女性たちにそっと寄り添うように、静かに言葉を紡ぐ。
みきさんは、二人の言葉の一つ一つに頷きながら、
目を細め、絵をじっと見つめていた。
まるで絵の奥へ身を沈めていくように、
しばらく何も言わない。
アスと露葉はケーキをフォークで小さく切り分け、
「美味しいね」と囁きながら、ほわりとした甘さを口に運ぶ。
その時間の隙間に、みきさんの声が静かに落ちた。
「――裾を翻していながら卑俗に陥らない……」
アスと露葉が顔を見合わせる。露葉が少し首をかしげた。
みきさんは店内をゆっくり見回し、
落ち着いた声で語り出す。
「見方を変えたら、ただ裾が翻されただけで“いやらしい!”ってなってた時代があった。
外での動きも、表情も制限されて、
女性は常に“品格”を保つことを求められていた……そんな時代が確かにあった。」
その言葉は、店内の静かなジャズの音よりもずっと静かに、
でも深く響いた。
二人はみきさんをじっと見る。
みきさんは、カウンター横に置かれた小さな裸婦像に目を向ける。
「美しい……。でもそれは窮屈だったことの表れかもしれませんね。」
露葉は絵の女性の視線を落とす顔を見つめ、
「窮屈…考えたことなかった……」と小さく呟いた。
アスは、みきさんの横顔を見る。
そのやさしい気配の向こうに、
かすかな翳りのようなものが揺れているのを感じる。
美しさの裏にある窮屈さ。
時代がそうさせたのか、社会がそうさせたのか。
誰も気づかないところで押しつぶされていく“品格”という名の重さ――
彼女はその裏側まで、そっと見ている人。
翳りのないやさしさこそ、
いちばん深い翳りを抱えている。
みきさんはアスの視線に気づき、ふっと微笑む。
「珈琲が苦すぎて……胃に穴があきそう……」
思わず露葉が吹き出し、笑い声がふわりと広がる。
みきさんは露葉の笑顔を見て、同じように嬉しそうに微笑んだ。
バッグから画集を取り出し、含み笑いしながら言う。
「おつゆさんと和風の画集にしようって指定しただけでしたので……また画集が被ってる。」
「うそー」
露葉が声を上げて笑う。
みきさんはしばらくページをぱらぱらとめくり、
「……とりあえず、交換しますか〜」と画集を差し出す。
「交換する意味ないよ」
露葉は笑いながら受け取るふりをして、また笑う。
そのやり取りを見ながらアスは、
二人の手元にある“同じ画集”の重なりの奥に、
みきさんの深い想いが静かに沈んでいるのを感じていた。
静かな喫茶店の中で交わされる言葉や笑いの端々に、時代を超えた感覚が交錯する。
見えるものだけでなく、見えないものに耳を澄ませることで、心の奥に新しい余韻が生まれる。




