50話 救いの手
人間は、生きとし生きるもの達は神によって創造された存在である。
神の掌に居れば、生物は飢えも外敵の心配もなく、終わりのない安寧を得るだろう。
だが、それは自由に選択する意思、心、延いては魂そのものの否定に繋がる。
神の有する強大な力は、星を巡る命の源流そのものと言っても過言ではない。
誤った道を進む子供を神の力で無理やり正せば、余波を受け心が破壊される。心無き存在はただの操り人形であり、〈生物〉ではない。
神々は、小さな手で握り返してくれた我が子が自らの足で立ち上がり、大地を踏みしめる姿に愛を贈り、そして離した。
生々の路を進む子供達が迷わぬよう灯となり、見守る選択をした。
たとえ大陸が業火に呑み込まれ、数多の魂が塵芥と化そうとも。
たとえ子供達が自身の所業を悔い、血涙を流す程に慟哭しようとも。
絶滅を迎えようとした妖精樹に対する殻の神の介入。それは、誰からも助けてもらえない少女に救いの手を差し伸べ、神としての矛盾を両立させる為のぎりぎりの選択であった。
そして、長い年月を経て、再び選択が迫られた。
恋に壊れた女王の精神に、太古の本能が目覚めてしまった。
それは心を蝕み、腐らせ、崩落する劇場の上で血を啜る悪鬼羅刹へと堕とした。
極氷の民。極北の大陸に住まう獣人族の原住民。殻の神と眷属を認識する数少ない存在。彼らは、魔女達とは違い〈雄〉と〈雌〉が存在した。
忌まわしき、獣。穢れた愚か者。
壊れた女王は妄信し、彼らの集落や村に次々と兵士を嗾け、蹂躙し、捕獲した。
彼らは城の中へと押し込められ、女王の遊び道具となった。
いや、遊びではない。底の抜けた欲望と憎悪を満たす拠り所だった。
生きるために見知らぬ雌と性交させ、次の瞬間に雄は首を落とした。
子を身籠った雌は両手足を縛りつけられ、口に餌を次々と押し込められた。
腕を捥がれ、足を潰され、目を貫かれ、切り裂かれた腹から胎児が引き摺り出される。
腐敗する肉。垂れ流したままの糞尿。増え続ける毛皮と牙と爪の山。
異臭は城を包み込むが、城下町は絵本の世界の様に華やかで可愛らしい光を放っていた。
全てが、見て見ぬふりをしていた。
悲鳴を、血を、積み上がる山を、存在しないと言い聞かせ、耳を塞いだ。
そうしなければ、自分達の首が飛ぶから。
贄にされてしまうから。
誰もが終わりを待った。次の犠牲は自分達とも知らず、ただ時間が過ぎるのを待った。
けれど、けれど、一人の少女だけは立ち上がった。
女王の妹として召し上げられてしまった哀れで、勇敢で、幼い魔女。
歩くのも困難な程に布地が広がるレースのドレスを身に纏い、死体が大量に転がる廊下を進む。
白は赤く、黒く、染まる。
そして、思い出の沢山詰まっていたはずの部屋へと辿り着いた。
〈お姉さま〉
最後の呼びかけだ。
綺麗だった黄昏色の長い髪は軋み、青かった瞳は黒く淀み、白い肌は濁りきり、あの日の大好きな人はもういない。
まるで幼子のように口を赤く汚した女王は、その呼びかけに嬉しそうに笑顔を見せた。
昔のように〈おいで〉と両手を広げる。
少女は駆け寄り、そして―――――――――
女王の胸にナイフを突き刺した。
〈ごめんなさい。ごめんなさい。産まれて、ごめんなさい。こんな罪深い私達を生かしてくださって、感謝の言葉もございません〉
悲鳴を上げもがき苦しむ〈其れ〉ではない尊き存在へと、少女は呼びかける。
〈国を滅ぼしてくださって構いません。大樹を枯らしても誰も何も言いません。我々の命を全て捧げます〉
零れ落ちる温かい雨は、何も救えない。
絶命を迎え、倒れ墜ちる其れの周りから、氷河に似た色合いの結晶体が増殖を始める。
まるで生き物のように、急速に拡大する。
〈だから、だから、どうか〉
どうする事も出来ない少女は、愛する女王の暴虐を見て見ぬふりをして、避け続けた。
けれど、城の窓から小さな子供が外を見ているのに気づいてしまった。
あれは魔女の罪と罰。
見捨てた者達が最後まで抗い、守り抜こうとした尊き存在。
〈あの子を、助けてください〉
とうの昔に天秤は壊れていた。罪は贖わねばならない。
もはや一つの命を救うには、国民全員の魂を捧げなければならない。
城の中で産まれ落ち、女王の〈ペット〉として育てられ、家族の肉を喰らいながら生き長らえていたその小さな命。
腐敗する家族の中で、生きることを辞めなかった男の子。
ネフィリアードと自らを名乗る獣人である。
「だが、あえて言わせてもらおう。2つの人種の命運を小さな我が子に握らせる程、我々は愚かな親では無いよ」




