「また妹を優先するのですか?」と言うのをやめた日、王太子から婚約破棄されました――では、あなたを守っていた私の加護もお返しします
「セラフィーナ・エルグランデ。お前との婚約を、今この場で破棄する」
王宮舞踏会の中央で、王太子レオンハルト殿下は高らかにそう告げた。
眩いシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に落ちている。弦楽の調べはいつの間にか止み、広間に集まった貴族たちは皆、息を潜めてこちらを見つめていた。
殿下の腕に寄り添っているのは、私の異母妹リリア。
薄桃色のドレスを震わせ、今にも泣き出しそうな顔をしている。柔らかな金の髪に、大きな青い瞳。庇護欲を誘う仕草をさせれば、彼女の右に出る者はいない。
けれど私は知っていた。
その震えが恐怖ではなく、歓喜によるものだということを。
「理由をお聞かせいただいても?」
私が静かに尋ねると、殿下は眉をひそめた。
「この期に及んでしらを切るつもりか。お前はリリアに嫉妬し、彼女のドレスを破り、守護石を盗み、私との仲を裂こうとした。王太子妃となるべき者が、そのような卑劣な行いをするなど許されない」
「お姉様……私、何度もお話ししようと思ったのです。でも、お姉様が怖くて……」
リリアは殿下の袖をきゅっと握り、涙を浮かべた。
周囲から小さなどよめきが起こる。
「まあ、セラフィーナ様が?」 「たしかに厳しい方ではあったけれど……」 「リリア様がお可哀想に」
聞こえるように囁かれる声に、私は目を伏せた。
昔の私なら、ここで胸を痛めていたかもしれない。誤解を解こうと必死になっていたかもしれない。殿下に信じてほしいと願い、リリアにどうしてそんなことを言うのかと問うていたかもしれない。
けれど、もう疲れてしまった。
「殿下」
私は顔を上げる。
「その婚約破棄は、王家としての正式なご決定でよろしいのですね?」
「当然だ。私がこの場で宣言したのだぞ」
「国王陛下のご裁可は?」
レオンハルト殿下の顔に苛立ちが走った。
「細かいことを。父上には後ほど私から申し上げる」
「では、現時点では殿下の独断ということでしょうか」
「お前は私を愚弄しているのか!」
「確認しているだけでございます」
私が淡々と答えると、殿下はリリアの肩を抱く腕に力を込めた。
「そういうところだ、セラフィーナ。お前はいつも冷たい。リリアはこんなにも怯えているというのに、姉として思いやることもできないのか」
姉として。
その言葉を、私は何度聞いただろう。
リリアが私のために仕立てられたドレスを欲しがった時、殿下は言った。
『姉なのだから譲ってやれ』
リリアが私の誕生日に贈られた宝石をつけたいと泣いた時、父は言った。
『リリアは母を亡くして寂しいのだ。姉なら分かるだろう』
王宮の夜会で、殿下の隣に立つはずだった私の場所にリリアが入り込んだ時も、殿下は笑って言った。
『お前は強いから一人でも平気だろう。リリアは繊細なんだ』
私は譲った。
ドレスも、宝石も、招待状も、社交の功績も、父の関心も、婚約者の隣の席でさえも。
それでも足りなかったらしい。
リリアはとうとう、私の婚約者まで欲しがった。
そして殿下は、それを愛だと呼んだ。
「セラフィーナ」
殿下が勝ち誇ったように私を見る。
「お前には王太子妃の資格がない。私が真に愛するのはリリアだ。彼女こそ、私の隣にふさわしい」
「そうですか」
私は小さく息を吐いた。
「それでは、婚約破棄をお受けいたします」
広間がしんと静まり返った。
レオンハルト殿下がわずかに目を見開く。リリアも、涙に濡れた顔のまま固まっていた。
私が泣き喚くとでも思っていたのだろう。すがりつくとでも思っていたのだろう。
けれど残念ながら、そんな気力はもう残っていない。
「な、何だ。その態度は」
「婚約を破棄なさりたいのでしょう? 承りました」
「待て。謝罪はないのか。リリアにした仕打ちを認め、許しを乞うべきだろう」
「していないことを認めることはできません」
「まだ言うか!」
殿下が声を荒らげる。
私は胸元に手を当てた。
そこには、青白く澄んだ石の首飾りがある。王家との婚約の証として、十年前に与えられた誓約石。
いいえ、正確には与えられたのではない。
これは私が、殿下を守るために作ったものだ。
王族の血に刻まれる聖印は、強大な魔力を宿す代わりに、幼少期には暴走しやすい。特にレオンハルト殿下の聖印は不安定で、熱を出すたびに黒く濁り、周囲の魔導具を狂わせた。
十年前、王家は私に頼んだ。
希少な結界の加護を持つ私に、殿下の聖印を鎮めてほしいと。
けれど、その事実は公表されなかった。王太子が婚約者の加護に守られているなど、王家の威信に関わるから。
だから私は黙って支えた。
殿下が眠れぬ夜には祈り、発作を起こせば加護を送り、王宮の結界が揺らげば一人で補修した。誰にも知られず、誰にも褒められず、それでも婚約者としての務めだと思ってきた。
でも、その務めも今日で終わりだ。
「では、こちらもお返しいたします」
私は首飾りを外した。
その瞬間、レオンハルト殿下の顔色が変わった。
「何をしている?」
「婚約の証でございます。婚約破棄された以上、私が持っているわけにはまいりません」
私は誓約石を両手で差し出した。
「同時に、これまで殿下をお守りしていた私の加護も、本日をもってお返しいたします」
広間の空気が凍りついた。
レオンハルト殿下は一瞬、意味が分からないという顔をした。次いで、馬鹿にしたように笑う。
「加護? お前が、私を守っていた? 何を馬鹿なことを言っている」
「馬鹿なことかどうかは、すぐに分かります」
言い終えた直後、殿下の右手がびくりと震えた。
白い手袋の下から、黒い光が滲み出す。王族の証である聖印が、まるで濁った水のように揺らぎ始めていた。
「う、ぐ……っ?」
「レオンハルト様!」
リリアが悲鳴を上げる。
同時に、王宮の魔導灯が一斉にちらついた。窓の外で、王都を覆う薄金の結界が波打つのが見える。
貴族たちが一斉にざわめいた。
「何だ、今の揺れは」 「王宮結界が乱れているぞ」 「まさか、本当にセラフィーナ様が……?」
殿下は右手を押さえ、苦しげに私を睨んだ。
「セラフィーナ、何をした!」
「何もしておりません。ただ、私の加護を止めただけです」
「戻せ。今すぐ戻せ!」
「なぜでしょうか」
「なぜ、だと?」
「私はもう殿下の婚約者ではございません。殿下がそうお決めになりました」
殿下の唇が震えた。
リリアは慌てて胸元の守護石を握りしめる。淡い桃色のリボンで飾られたそれは、かつて私が彼女のために作ったものだった。
幼い頃、リリアは魔力が弱く、少し強い魔導具の近くにいるだけで体調を崩した。だから私は彼女の健康を案じ、小さな守護石を作って渡した。
それを、彼女はいつの間にか「聖女の証」と呼ばせるようになっていた。
「大丈夫です、レオンハルト様。私が、私の聖女の力で……!」
リリアが守護石に魔力を込めようとする。
しかし石は光らなかった。
当然だ。あれはリリアの力を増幅するものではない。私が込めた加護を一時的に蓄えていただけの器だ。
私が加護を引いた今、ただの美しい石に戻っている。
「どうして……?」
リリアが呆然と呟いた。
「どうして光らないの? 昨日まではちゃんと……!」
「昨日までは私の加護が残っていたからよ」
私が答えると、リリアは弾かれたように顔を上げた。
「嘘! 嘘です! お姉様が私の力を奪ったんでしょう! いつもそう、私から何でも奪って……!」
「リリア」
私は彼女を見つめた。
「私から奪っていたのは、あなたの方でしょう」
リリアの顔が歪む。
「ひどい……お姉様、ひどいわ。私がどれだけ我慢してきたか知らないくせに。お姉様は公爵令嬢で、王太子殿下の婚約者で、皆に期待されて。私はいつも二番目だった。少しくらい譲ってくれてもいいじゃない!」
「少し?」
思わず笑いそうになった。
「あなたに譲ったものを、一つずつ数えましょうか?」
「やめて!」
リリアが叫ぶ。
その時、広間の扉が重々しく開いた。
「そこまでにしていただこう」
低く落ち着いた声が響く。
振り返ると、黒い礼装をまとった長身の男性が立っていた。夜のような黒髪に、氷を思わせる銀灰色の瞳。隣国クラウゼン公爵家の当主、アルヴィス・クラウゼン卿だった。
彼は今夜、外交使節として王宮に招かれていたはずだ。
アルヴィス卿は静かに歩み寄り、私の隣で足を止めた。
「セラフィーナ嬢。ご無事ですか」
「はい。ありがとうございます」
彼の声には、奇妙なほど自然な気遣いがあった。私はわずかに目を瞬かせる。
レオンハルト殿下が苦痛に顔を歪めながら叫んだ。
「クラウゼン卿、これは我が国の問題だ。口を挟まないでいただきたい」
「そうしたかったのですが、今の発言は看過できません。セラフィーナ嬢に対し、冤罪を着せて婚約破棄を行った。しかも、それが我が国との外交舞踏会の場で起きている以上、無関係とは言えない」
「冤罪だと?」
「ええ」
アルヴィス卿は懐から透明な水晶を取り出した。
「こちらをご覧ください」
水晶が光を放ち、空中に映像を映し出す。
そこに映っていたのは、リリアだった。
夜更け、私の部屋に忍び込み、机の引き出しから守護石の予備を盗み出す姿。さらに別の映像では、彼女が侍女に命じて自分のドレスの裾を切らせている。
『これでいいわ。あとは、お姉様がやったことにすればいいの』 『ですが、リリア様……』 『大丈夫よ。レオンハルト様は私を信じるもの』
広間が騒然となった。
リリアは真っ青になり、首を振る。
「違うの! これは、これは魔術で作られた偽物です!」
「記録水晶は王宮の廊下に設置されていたものです。王宮警備隊の管理下にありますので、改ざんの有無はすぐに調べられるでしょう」
アルヴィス卿は淡々と言った。
「さらに、王宮文書院には十年前の契約書が保管されています。セラフィーナ・エルグランデ嬢が、王太子殿下の聖印安定化と王宮結界の補助を担うこと。その対価として、正式な婚約者の地位と将来の王太子妃教育を受けること。王家の印章つきで」
レオンハルト殿下が息を呑んだ。
「そんなもの……私は知らない」
「知らなかったとしても、なかったことにはなりません」
アルヴィス卿の声が冷える。
「あなたは、自分を十年間守っていた女性を侮辱し、彼女の功績を奪った者を真実の愛と呼び、その場の感情で婚約破棄を宣言した。王太子として、あまりにも軽率です」
「貴様……!」
レオンハルト殿下が何かを言い返そうとした時、再び扉が開いた。
今度現れたのは、国王陛下と宰相だった。陛下は近年体調を崩され、公の場に出ることが減っていた。けれど今、その顔には明確な怒りが浮かんでいる。
「レオンハルト」
「父上……これは、その」
「真実の愛で国は守れぬ」
陛下の一言に、殿下は凍りついた。
国王陛下はゆっくりと広間を見渡し、それから私に向き直る。
「セラフィーナ嬢。此度のこと、王家として深く詫びる。そなたの献身を正しく扱わず、愚息の暴走を許した責任は私にある」
「陛下……」
「婚約破棄は、そなたの意思をもって正式に受理する。王家は慰謝料と謝罪をもって償おう。そなたに再びレオンハルトを支えよなどとは言わぬ」
「お待ちください、父上!」
レオンハルト殿下が叫んだ。
「セラフィーナの加護がなければ、私は……王宮結界も……!」
「それを失う選択をしたのはお前だ」
「違います! 私は知らなかったのです。知っていれば、このようなことは……!」
私は静かに彼を見た。
知っていれば、婚約破棄しなかった。
つまり、私が役に立つと知っていれば捨てなかった、ということ。
その言葉は、私の中にわずかに残っていた未練を、完全に消してくれた。
「セラフィーナ」
殿下がこちらに手を伸ばす。
「今なら許してやる。リリアのことは……その、少し誤解があったのだろう。だが、お前が望むなら再び婚約者に戻してやる。だから加護を――」
「お断りいたします」
私の声は、自分でも驚くほど澄んでいた。
殿下が目を見開く。
「何だと?」
「私はもう、殿下の婚約者ではございません。戻るつもりもございません」
「お前はそれでいいのか? 王太子妃になれなくなるのだぞ」
「はい」
私ははっきりと頷いた。
「王太子妃になれないことより、自分を踏みにじる方の隣に戻ることの方が、私には耐えられません」
殿下の顔が赤くなり、次いで青ざめた。
リリアが私に駆け寄ろうとする。
「お姉様! お願い、助けて。私たち家族でしょう? 私、少し寂しかっただけなの。お姉様なら分かってくれるでしょう?」
私は一歩下がった。
「家族だからといって、何を奪っても許されるわけではないわ」
「お姉様……!」
「あなたに譲るのは、もう終わり」
リリアの瞳から、今度こそ本物の涙がこぼれた。
けれど、それを拭ってあげる役目は、もう私ではない。
国王陛下の命により、リリアは聖女詐称と虚偽告発の疑いで連れて行かれた。レオンハルト殿下は王位継承権を一時停止され、聖印制御のため神殿で謹慎することが決まった。
私の父であるエルグランデ公爵もまた、娘の功績を王家に差し出しながら守らなかった責任を問われることになるだろう。少なくとも、これまでのようにリリアを庇って社交界を渡ることはできない。
騒ぎが落ち着き始めた頃、私は広間の端に立ち、窓の外を見ていた。
王都の結界はまだ揺らいでいる。けれど完全には崩れていない。王宮にも神官や魔術師はいる。私一人がいなければ何もできない国であってはならない。
私は長い間、自分が支えなければすべてが壊れると思い込んでいた。
けれど本当は、私が壊れかけていたのだ。
「セラフィーナ嬢」
声をかけられて振り向くと、アルヴィス卿が立っていた。
「先ほどはありがとうございました。おかげで助かりました」
「当然のことをしたまでです。むしろ、もっと早く動くべきでした」
「アルヴィス卿が?」
私が首を傾げると、彼は少しだけ表情を和らげた。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、三年前の春、国境沿いの式典で魔物が暴れたことがありました」
「……ああ」
思い出した。
隣国の使節団を迎えた式典で、封じられていた魔物が暴走した。私は咄嗟に結界を張ったが、王家からは「混乱を避けるため黙っているように」と言われた。
結局、公式には王宮魔術師団の功績になったはずだ。
「あの時、使節団の馬車を守ってくださったのは、あなたでしたね」
「お気づきだったのですか」
「ええ。私の目の前に、淡い銀色の結界が現れた。その向こうで、あなたが倒れそうになりながら杖を握っていたのを見ました」
アルヴィス卿は静かに続ける。
「それ以来、私はあなたを忘れられなかった。誰にも称賛されず、名乗りもせず、それでも人を守るあなたを」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
見てくれていた人がいた。
それだけのことが、こんなにも心を揺らすなんて知らなかった。
「セラフィーナ嬢。これから、どうなさるおつもりですか」
「……分かりません」
私は正直に答えた。
「今まで、王家のため、殿下のため、家のために生きてきました。自分がどこへ行きたいのか、何をしたいのか、考えたことがなかったのです」
「では、もし行く場所が決まっていないのなら」
アルヴィス卿は真っ直ぐに私を見た。
「我がクラウゼン公爵領へお越しになりませんか」
私は思わず身構えた。
「私の加護が必要なのですか?」
「必要ないと言えば嘘になります。優れた結界術師は、どの国でも喉から手が出るほど欲しい人材です」
彼は率直に言った。
けれどすぐに、ゆっくりと首を振る。
「ですが、私が迎えたいのは結界術師ではありません。セラフィーナ、あなた自身です。あなたが誰かに奪われず、正当に敬われ、自分の意思で生きられる場所を用意したい」
「なぜ、そこまで」
「あなたが、そうされるべき人だからです」
その言葉は、甘い愛の囁きではなかった。
けれど私には、どんな宝石よりも尊く感じられた。
誰かに必要とされるために、自分を削らなくていい。
誰かの隣に立つために、黙って我慢しなくていい。
私自身が、私のままで尊重されていい。
そんな当たり前のことを、私は十九年かけて初めて知った。
「すぐにお返事はできません」
「もちろんです。あなたが選んでください」
アルヴィス卿は穏やかに微笑んだ。
「今度こそ、あなた自身のために」
その言葉に、私は初めて小さく笑った。
数か月後、私はクラウゼン公爵領の白い館にいた。
北方に位置するその地は、王都よりも空気が澄み、朝には銀色の霧が森を包む。冬は厳しいが、人々は温かく、私を王太子の元婚約者としてではなく、一人の結界術師として迎えてくれた。
私はここで、領民を守るための結界を整えている。
けれどそれは、かつてのように義務として命じられたものではない。私が望み、契約を交わし、正当な報酬と休息を得ながら行う仕事だった。
不思議なことに、私の加護は以前よりもずっと安定していた。
無理に搾り取られていた頃より、誰かに感謝され、労わられながら使う力の方が、ずっと強く澄んでいる。
そして毎朝、アルヴィス卿は私の執務室に花を一輪届けに来る。
領民からは冷徹公爵と恐れられているらしい彼は、私の前ではなぜか少し不器用だ。
「今日は温室の白薔薇が咲いていました」
「ありがとうございます。昨日は青いリンドウでしたね」
「迷惑ではありませんか」
「いいえ。毎日、楽しみにしています」
そう答えると、彼はわずかに耳を赤くした。
その反応が何だか可愛らしくて、私はそっと笑う。
ある日、春の終わりの庭園で、アルヴィス卿は私に小さな箱を差し出した。
中には、銀細工の指輪が入っていた。中央には淡い月光色の石が嵌め込まれている。
私は息を止める。
「これは……」
「誓約石ではありません」
彼はすぐに言った。
「あなたの加護を縛るものではない。あなたから何かを奪うものでもない。ただ、私の想いを形にしたものです」
春風が、庭の花を揺らした。
アルヴィス卿は私の前に立ち、真摯な目で告げる。
「セラフィーナ。あなたが誰かに譲られる人生は、もう終わりです。これからは、あなたが望むものを選んでください。その選択肢の中に、私がいられたら嬉しい」
胸がいっぱいになった。
かつて私は、王太子妃になることが幸せなのだと思っていた。家のため、王家のため、妹のため、婚約者のために我慢することが正しいのだと思っていた。
でも今は違う。
私は私の幸せを、私の手で選んでいい。
「アルヴィス様」
私は彼の名を呼んだ。
「私はもう、誰かに言われたからではなく、自分の意思で選びたいのです」
「はい」
「なら、選びます」
私は微笑み、彼の差し出した指輪に手を伸ばした。
「私は、あなたの隣で生きたい」
アルヴィス様の瞳が、驚きと喜びに揺れた。
彼はまるで壊れ物に触れるように、そっと私の指に指輪を嵌める。冷たいはずの銀は、不思議と温かかった。
「必ず幸せにします」
「私も、あなたを幸せにしたいです」
そう言うと、彼は一瞬言葉を失い、それから本当に嬉しそうに笑った。
遠く離れた王都では、レオンハルト元王太子が神殿で聖印制御の修行に苦戦していると聞く。リリアは修道院で、自分の力で働くことを学んでいるらしい。
もう、私には関係のないことだ。
恨みがまったくないと言えば嘘になる。傷つかなかったわけでもない。
けれど私はもう、過去に縛られてはいない。
庭園の向こうで、クラウゼンの街を守る結界が淡く輝いている。それは誰かに搾取された力ではなく、私が守りたいと願ったものを守るための光だ。
アルヴィス様が私の手を取る。
私はその手を、今度は自分の意思で握り返した。
もう二度と、誰かに譲れと言われても差し出さない。
私の幸せは、私自身が選ぶのだから。
終幕




