16.イセのシンクロウ様
今回がイズモ編の最終話です。
イセのシンクロウ様が、うぃー、とか唸りながら、風呂の反対側の縁で落ち着いておられる。
「前から疑問に思うておったが、スルガの国でイマガワでござる。カイの国でタケダにござる。なにゆえ、サガミの国でイセでござるかな? 北条はどこへ行った?」
ミウラにだけ聞こえるよう、口に手を当てて小声で聞いた。
『それが……わたしが詳しいのは織田信長公や家康公のあたりからでして、そもそも今がいつの時代なのか、分かんないんですよ。将軍家がアシカガを名乗ってますから、室町時代後期だと思うんですがねぇ。神獣が存在するだけで、前前世の歴史とズレが生じていてあたりまえな世界です。むしろ、よくぞここまで歴史をなぞったな、と感心しますよ』
神が側にいて、魔獣より守ってくれている。そもそも、仏が現世におられない事を前提とした世であるからな。某らが知っている世とは。
「イセのシンクロウで心当たりは? 北条氏へ養子にはいったとか、聞いたことはござらぬか?」
『お名前が「イセの早雲」なんかでしたら、想像が付くんですが。イセだのシンクロウだのハチロウだのは、割とその辺に転がってる名前ですから』
新とか孫とか数字だとか一郎二郎などは、掃いて捨てても再利用されるくらいの部品でござる。
「北条早雲様ならお近づきになりたいでござる!」
『わたしもサインが欲しいです!』
ミウラの言う「さいん」とは花押の事らしい。そんなのもらえるわけ無かろうに。
「まさか、シンクロウ様が北条早雲ではござらぬかな?」
『えー! まっさかー! だって北条早雲って最初の戦国武将って呼ばれてる人ですよ! 素浪人からのし上がった下克上の神様ですよ! シンちゃんは京都でも由緒あるイセ家の血筋で、お父さんは幕府の重臣だった人で本人も幕臣らしいですよ! 出自が真逆でしょう?』
「それもそうでござるな。まさか北条早雲ともあろうお方が混浴露天風呂に入ってくるスケベオヤジなわけあるまいて!」
『ですよねー!』
「でござるよー! あっはっはっは!」
二人して大笑いにござる。
そんなつまらなくて下らぬ夢の戯れ言はさておき――
「えーっと、イセ家の先代当主、シンクロウ様でございますか?」
「おお!? おお! これは綺麗なお嬢! いかにも、儂はイセのシンクロウ。よくご存じで」
今気付いた風を装われたでござる。先ほどから、チラリチラリと某の胸を見ておった癖に。
「今、ミウラの主から紹介されたのでござる」
ミウラはそれを肯定するかのようにチャプチャプと湯面をゆらした。
「それで、お嬢は、えーっと、神獣の巫女様でイオタ殿であるかな?」
『知っているのに知らんぷり。なーぜ、なーぜなのー?』
「ミウラの主、専属の巫女でイオタでござる。以後宜しくお見知りおきを」
「こちらこそ」
なんか、のんびりとした会話が続く。
「一つお聞きして宜しいでしょうか?」
「なんなりと」
某、シンクロウ様に対し、姿勢を正す。湯の中で。
「なぜ、裸の女が入っている湯に、堂々と入れるのでござるかな?」
「……おお! これは気がつきませんで、申し訳ない。されど、儂は、あと数年でポックリ逝く予定の人畜無害な老人。儂のモノははもう役に立たん。だから儂は安全な人物だ」
「心眼!」
ギ……ギギ……。
反応しておるが、役に立っておらぬご様子。つまり無害。つまり……
「お可愛そうに……」
「哀れみの目で見ないでくれますかね」
『見るなと言われると見たくなるのがネコの本能。あんな事いってますが、今年も軍を率いて東の方へ出ておられましたよ』
ミウラも眼を細めてござる。
サガミの権力者が自らの意思で尊厳を台無しにしておられる。まこと、おいたわしや。
「お話が有るのでござしましょうか?」
「特に、無いな」
無いのに来るはずなかろうに。へそ曲がりにござる。
『或いは、じれさせている』
かもしれぬ。だいたい、年寄りは搦め手しか使わないと相場が決まっておる。
ならばこの手でござる。
「お話があるのでしたら、お背中をお流しながらお聞きいたしますが、いかに?」
「お願いしよう」
言うなり、ざばりと湯から体を出された。
ミウラと顔を見合わせる。仕方ないなぁ、って顔をしていた。
石鹸で泡を立てた手ぬぐいを老人の背中に押し当てる。
ゴシゴシと擦りつけた。
「これは何じゃ?」
「名は石鹸。体の垢や汚れを簡単に落とすための便利な衛生品にござる」
『この時代、衛生なんて概念はありませんけどね』
「専門家であるミウラの主の厳重な管理と指示の元、某が作りました。理屈はよく分かりませんが、垢を浮かせたり、油分を溶かしたりして水と混ぜることが出来る作用があるとのこと」
理屈はミウラから説明を受けた。某、完全に理解しておるのでござるよ。アレでござる。「有り係」でござる。
『アルカリです』
そうそれ。酸は分かるのでござるよ。酸っぱい酢でござろう? ならば反対の極地であるアルカリは、甘い砂糖ではござらぬのかな? それが油分と灰を混ぜてアルカリとはこれ如何に?
「セッケンか。面白そうじゃな。あ、前は儂がする。手ぬぐいを貸してくれ」
振り向きながら、某のオッパイを見ながら、偶然を装い触ってこようとする手を避けながら、手ぬぐいを渡した。
心眼に反応はあったが、シンクロウ様の股間はピクリともしない。本気で可哀想に思えてきた。
一通り洗われて、湯を掛け汚れを落とす。
「これは! また見事に落ちるのう!」
泡を落とした後のお肌を擦られてからの感想にござる。
「神獣様秘伝のセッケンかのう……サガミでも作られんかのう?」
ミウラとチラリ目を合わせる。
「まだ試験段階でござる。それに売り出すとしたら、まずは御屋形様と相談のうえ、最初はスルガでござろう。隣国へ回すにはそれからにござる」
「うーむむむ……」
シンクロウ殿は、垢が形となって浮いている手桶を眺めておられる。珍しい物好きでござるかな?
『セッケンは戦略物資ですからね。これがあって、体を洗う水場があれば、かなりの確立で疫病や皮膚病を防げますから。シンちゃんは戦場に出ること数えきれぬほど。衛生と病気の関係をご存じなのでしょう』
「そうなのか?」
ミウラはウンウンと頷いておる。……ちょっと、はやまったでござるかな?
して――
日の高い内から、宿の一室で宴会にござる。
海が近いので、魚が旨い! お酒も旨い!
『イオタの旦那、あなたはまだ未成年ですよ』
ミウラは縁側で日向ぼっこにござる。
「この世界では十五にもなると大人扱いにござる。九つで元服した男の子が酒を飲んでおる世界にござるよ」
「酒の話かな? よう言われた! その通りじゃ! うわははは!」
歴戦の侍、イセのシンクロウ様はお酒に弱いご様子。三杯も乾すと、顔を真っ赤にされて陽気になられた。
「しかしのう、ミウラの主に神獣の巫女様がお付きになったとは! 世が太平になる吉祥にござろうな! わははは! クイッ!」
四杯目にござる。空の杯に酒をついでおく。
某も酔うのでござるが、直に醒める。ミウラが言うには、毒無効化の影響だとのこと。くっそ! でござる!
「わははは! かえすがえすも、ミウラの主がスルガへお渡りになったのが悔やまれる! うわははは! クイッ!」
どこまで飲めるか、面白くなってきたので、酒を継ぎ足しておく。
ここで発生する疑問点。
「何故、ミウラ……の主は、スルガへ来られたのでござるかな?」
「さて-……」
老人は小首をかしげた。可愛くはない。
『サガミの人は、ってか、シンちゃんは戦争ばっかやっててさー』
サガミを取り巻く情勢を見れば、戦の連発も仕方無しでござるし、サガミが戦ってくれるから、スルガは東に戦力や金を使わなくて済むのでござるから、某としては何とも言えぬ。
が! 神獣にとってそれはどうでも良いこと。人の営みなど関係ない。
『血なまぐさい光景ばかり見るから、嫌気がさしてね。で、逃げるようにしてイズの山を越えて、スルガに来たのよ』
……先日までの某と同じ気の病をミウラも病んでいたのでござるか。だから、某を温泉に……。
『サガミに神獣はいないからね。二カ国の責任持つから、ってイズモの会議で陳情したら許可が出てね。で、現在にいたるなんですよ。で、シンちゃんは、もともとイマガワの御屋形の部下だったらしいんですよ。シンちゃんのお姉さんが、イマガワの御屋形様のお母さんでね。シンちゃんと御屋形は叔父・甥の関係なんです。昔、御屋形様が小さい頃、跡取り問題でお家騒動があって、姉と甥っ子を助けるためにシンちゃんが一肌脱いでくれたんですよ。だから、今はイセ氏として独立してますけど、イマガワとイセは、この殺伐とした時代にしては仲が良いんです』
長文解説ご苦労にござる。
「イオタ殿、ミウラの主は何を言っておいでですかな? 差し障りがなければ、教えていただきたい」
酔ってるのに目だけギラついてござる。
「はい。昔はサガミにいたのだけれど、引っ越ししてスルガに来たと仰せでございます」
シンクロウ様は、某の目をじっと見ておられる。何でござるかな? 某、男は守備範囲外にござるよ?
シンクロウ様は、杯を口に持っていく手を止めた。
「……なぜ、サガミを出て行ったか。お聞きしたかのう?」
あれ、知らないんだ。……ミウラの言葉を人では理解できないからか?
「えーっと、戦続きで気が重くなったとミウラの主は仰せでございました。スルガからでも、サガミを守れるから問題はないとの事でござる」
「ふむ……これは儂が至らなかったか……」
手の中の杯を膳に置かれた。
それは仕方ないと思うのでござるが。甥っ子の御屋形様を守るためでもあるのでしょう?
シンクロウ様は、ミウラに向かって正面になるよう向き直された。
頭を深く下げる。
「儂のせいで、ミウラの主に不快を与えたこと、誠にもって申し訳なく、この通りにございます。斯様な事をしておきながら、サガミの国を魔獣より守護していただいている事、誠に有りがたく思うております。ミウラの主のご温情、イセの家、末代まで忘れることなく崇め奉りまする」
もう一度、頭を下げられた。今度は額が床に着いた。
ずっと、額を付けたまま、動こうとしない。
『わたしの許しが得られるまで、そのままでしょうね。逆を言うと許すまで顔を上げないぞ。上げて欲しかったら許せと、わたしを脅してますね。ふん! そう言うところが気に入らないんですよ。出て行った理由の一つがそれだって事に気付いてない!』
やれやれ、ミウラもへそ曲がりにござる。武人の頭はミウラが思うておるほど軽くないぞ。
「シンクロウ様。無駄でござるよ。ミウラの主の勘気は解けぬ。いつまでもそのままでござると、永遠に許しは得られぬ。されど、サガミは守うてくだされる。それでお互いよしと致しませぬか? なあ、ミウラの主? シンクロウ様? 頭をお上げくだされ」
仲介案にござる。
シンクロウ様は、クイッ、クィッと何段階かに分けて、頭を上げられた。目はミウラの前足に向けられておる。
「イオタ殿、その方、ミウラ様の勘気を解く方法をご存じであろう?」
こっちに来たでござる!
「いかにも聞かされておる。されど、御自らのお力だけで解に辿り着けと。第一関門にござる」
「……」
無言にござる。怖いのでござる。
「あ、あの、シンクロウ様。実質、ミウラの主はスルガを守っておられる事でござるし、その事をとやかくはおっしゃってない。ならば問題ないのでは?」
「そう言うわけには行きませぬ!」
だから、そう言うところでございますよ。元々頑固だったのでござろうが、年取って余計に融通が利かなくなってきたのでござるかな?
「シンクロウ様も頑固でございますなぁ」
仕方ないので、こっそり答えを教えてやった……つもり。
「頑固ではござらぬ! むしろ意地にござる!」
……この老人、頭良いのか悪いのか、分からなくなってきたでござる。
『百円ほどの価値しかない意地のために、もっと大事な物を失っても気がつかな人なのでしょう』
「シンクロウ様は難儀な性格でござるが、武人とはこういう生き物でござる」
某、さじを投げたでござるよ
帰られると仰せになられたので、玄関までお見送りにござる。
「世話になった。ここは長いことおられるのかな?」
「もう少ししたら戻ろうかと思っております」
体調は万全。気持ちも落ち着いた。ミウラが抜けたイマガワ館が心配になってくるほど。
外へ出ると、武装した方々が二十人ばかり待っておられた。護衛の人でござろう。
そして、シンクロウ様は、温泉宿を去られた。
φωφ φωφ φωφ
アタ川の温泉宿を後にしたシンクロウ氏は、護衛を率いる長と話をしていた。
「新しく付かれた神獣様の巫女をどう見られました?」
「……変わったお方だった」
長は、めずらしく主が言い淀んだことに、珍しいモノを見る様な目をした。
「若くて綺麗な女だった。女なのだが、自分の裸を見られても平然としておった。出来たお方なのか……」
「或いは変わったお方?」
うん、そっちだろう。と一つ頷かれた。
「忍べたか?」
「いいえ。近づくだけで、神獣様の警告らしき攻撃が入りました」
気取られたか、ふうむ、と唸られる。
「どれだけ大事にされているか、これだけでも分かる。イズモに集まられた神獣様方がイオタ殿を厚く信任しておったという報告の件だが、疑ったこと、許せ」
「もったいなきお言葉」
コタロウの返答は心がこもっていた。
「イマガワ館に増員だ。ただし、絶対に敵対するなよ、コタロウ」
「おまかせを。ソウウン庵様」
――イズモ編・完――
次回、キョウ編を誠意執筆中!
カミングスーンですので、しばらくお待ちください。




