EP32 生存競争
神原は生きていた。依然として首から血を流しているものの、その量は予想外に少ない。
足取りもしっかりしており、その赤い血が無ければとても重傷だとは思えないほどだ。
「痛かったよ。君。まさか、人の首を掻っ切るなんてね。正気の沙汰じゃない。僕は真面目な取引をするつもりだったのに」
喉を損傷しているためさすがに声は擦れている。だが、口調ははっきりしたものだ。
「なんだ、なんだお前! 化物!」
「化物はこっちの天使の方だよ。僕は人間さ」
「嘘だ。なぜ、そんな状態で立ってられる!」
「僕らの技術さ。そして、僕の存在意義」
「説明になってない」
「じゃあ教えて上げるよ」
そう言うと神原は首元から手を離す。
いつの間にか出血が止まっていた。切断面が焼けたようになっていた。首の骨が少しだけ見えてしまっている。
真人はそれを見て、思わず口を押さえる。激しい吐き気に襲われる。
「超再生技術だ。いや、どちらかと言えば超自己応急治療能力ってとこかな。まず、僕の細胞は普通じゃないんだ。大量に失血してしまった場合に備え、酸素を蓄える力が普通の人間の数百倍ある。そして、出血ヶ所を速やかに自己止血する。腕が切断されたとしても数十秒で血が止まるくらいだ。また、急激な血圧低下によるショック死を押さえるため、血管自体に多少の循環機能が備えられている。だが、まぁ、これだけ優れていても一時的な措置だ。このままだとさすがに死ぬ」
神原は淡々と言う。もし、言っていることが本当だとしても、この冷静さは異常だ。
アキラはもう一度ナイフを構え、なんとか立ち上がる。
「本当、惜しかったと思うよ、首を切断されていたら間違いなく死んでいたね。切断とはいわずとも脊髄を損傷出来れば動けなくはできたのにさ。血管を狙ったのは君のミスだ。で、またそのナイフで僕を刺すつもりかい? ピストルに適うとでも? まぁ、いいけどね。でも、よく考えてよ? 僕は正当防衛しただけなんだ。君に恨まれる筋合いはない。君が、悪いんだ」
「黙れ、化物! こんな女の子を監禁していたくせに、なにを言うか」
「監禁? 確かに、実験に参加してもらっていたし、彼女にはいくらかの負担を掛けてはいたつもりだけど、その代わりに裕福な生活をさせていたつもりだ。食事は好きなものを与えたし、部屋は快適に感じられるよう最善の努力をした。お互い様、なんだよ。君にはまったく関係ない。それに、誘拐したようなヤツが言えた口かな? しかも僕を殺そうとしてさ」
「だ、黙れ!」
「ふん。口喧嘩は弱いみたいだね。まぁ、簡単に言いくるめられるのはそれなりに理由があるから、だけど。今回は君に否がありすぎるよ。今、殺されても仕方ないくらいにね。だけど――」
神原は、距離を詰めていく。アキラは逃げられない。ただ、ナイフを向けるだけだ。
アキラの目の前に立つと、見下ろしながら言う。
「僕は君を殺さない。殺人は犯罪だからね。それに、銃刀法違反だ。案外お互い様だ」
「なに?」
「それでだ。またまた取引をしよう。まぁ、どのみち天使の取引は成立させるけど」
「なんだ」
「君も僕の元へ来るんだ。僕を殺そうとしたこと、君を撃ったことをイコールとした上で、取引を破棄させようとしたことを許してあげよう」
「馬鹿馬鹿しい!」
アキラは神原を一蹴する。身体を引き摺り、神原から距離を取る。神原は追い掛けない。
「馬鹿馬鹿しい? 酷いなぁ。君にとってこれ以上とない対応だと思うけど。食事には困らないし、高級なホテルに住まわせてあげられるし、そんな小汚い着衣だっておさらばだよ?」
「騙されるか! お前たちにとって女は丁度いい研究材料なだけだろう! 私はそんなものに成り下がるくらいなら死を選ぶ!」
「死を選ぶって……大袈裟な。別に僕はこれ以上発砲する気はないよ。君が死ぬとしたら、失血死だろうね。やれやれ――」
神原は携帯を取出し誰かに掛ける。
「もしもし。あぁ、やっぱりダメだった。強奪を考えるようなろくな人間じゃなかったよ。まぁ、この世の中ならごく普通なのかもしれないけど。うん。じゃあ予定通りに頼むよ」
会話を終えると携帯を切り、地面に座り込んだ。少々息が荒くなっている。いくら普通ではないとは言え、かなりのダメージなのだ。ずっと動いているとそれなりに体力を消耗する。
「今から僕の迎えがくる。会社からだ。ここまでは本当に一人で来たよ。でも、さすがに歩いて帰るのはいろいろとキツいからね」
「だからなんだ」
「猶予を上げよう。逃げるなら、今のうちだよ。もちろん天使は置いていってもらうけど」
真人はそんな神原の発言を聞いて自分がモノのように扱われていると感じた。だが、反論はしない。実際自分自身自らの身体をまだ、自分のものとは認識出来ていないからだ。それに、この間には入り込めない、完全に蚊帳の外だ。
一人はナイフを構え、もう一人は銃を持っている。いくら、荒れていた暁といたとは言え、ここまでリアルな血の臭いが広がる空間には慣れていなかった。
アキラはと言えば真人を一瞥する。真人の見た顔は諦めた表情だった。せっかく、一山稼げると思っていたのに、こんな結果になるとは思っていなかったのだろう。
相手が悪かった。
アキラは撃たれていない方の足を軸にして立ち上がる。そして、神原から、真人から、背を向けた。
「そうかい。いいよ。見上げた根性だ。好きにするといい。実際君には感謝してるんだ。天使を確保してくれてたわけだしね。本当は、その傷を見てあげてもいいけど……何せ自分の撃ったものだからね。そうはいかない。そこまで優しくはしてあげられないよ」
「言われなくても……自分でどうにかする」
アキラは腰のベルトを外し、傷口に巻いた。そして、そのまま歩きだす。
無言で、その場を去る。真人は、ただ見送るだけだ。別に彼女に恩はないし、情もない。ただ、一日過ごしただけだ。
しかし、その寂しそうな……どうしようもないほどに小さく見える背中は、痛々しく感じた。
「俺の所為で……」
人が傷ついた。
神原はその呟きを聞いていた。
そして真人に言う。
「君の所為ではないよ。この世の中の空気に当てられた人間の一人だっただけさ。それに、悪いことを考えれば罰が与えられるものだよ」
「あなたは……罰を受けないんですか」
「なんで?」
「なんでって……人を撃っておいて……それに、俺を――」
「戦争ってのは、なんのためにする?」
質問に答えず、いきなり質問で返してくる。さすがに真人も苛つく。だが、黙っていても話は続かない。適当に応えることにする。
「知りませんよ。国を豊かにするとか、土地を奪うとか、そうじゃないんですか」
「そうだよ。国のため。じゃあ戦争に善悪はあると思う?」
「良いことではないです」
「確かにそうだろう。だが、国を守るための戦争ならどうだい」
「仕方ないとは思います。でも……」
「彼女は違うよ、個人の利益のために僕を殺そうとしたんだ。庇う必要性はない。正当化して善いわけではないけど、僕は国を守るために彼女を撃った。それだけの話。絶対生存機構。僕は死んじゃいけない。君をなるべく手放してはいけない」
「でも、だけど……」
「……確かに、君を蔑ろにし過ぎていたことは認める。だけど……もう少しなんだ。この国の復活が」
「国の復活……」
「僕たちはきっと、この国を支配することになるだろう。その代わり……間違いなく、明日を迎えられるようになる――少し休ませてもらうよ。あとで、話をしてあげるから」
神原は横になった。大きく大の字に。
逃げるのはたやすいだろうが、真人は逃げなかった。神原のとなりにちょこんと座る。
利用されたいわけではない。ただ、気になったのだ。神原の話そうとしていることが。
国の運命が。
自分のすべきことが――。