EP31 圧倒的な正義
「こちらの要件は一億だ。それで天使と引き換えに取引してやる。お前たちに選択肢はない。このまま天使を取り戻せないなら、お前たちの組織は呆気なく崩れ去るだろう。よく考えるんだな」
天使が神原のもとから逃走して数日、彼は電話を受け取った。特に取り乱すこともなく、神原は話を聞く。ただただ、相手の要求を聞き入れ、相槌を打つだけ。
「ああ。わかったよ。――で、その金はどう渡せばいい?」
「――確認しなくていいのか? 本物かどうか」
「取引を行う時で十分だよ。で、どうするんだい?」
「――お前たちの会社の近くにある港、わかるだろう。そこの二番ポートの赤いコンテナの近くまで来い」
「確認した。いいだろう。すぐか?」
「いいや、明日だ。早朝に来い」
「――まあいいだろう。わかった。では切らせてもらう」
相手が返事する間も与えず電話を切る。そして子機を元の位置に戻すと、何事もなかったかのように仕事に戻った。
その様子を見ていた榊が話しかける。
「神原様、なぜそのように平静でいられるのでしょうか? 天使をわがものにしようと勢い込んでいる者たちも、さすがに幾日も待たされて気を荒げているようですが……」
「ん? いや、彼らのことなんか知ったこっちゃないよ。それに、今は天使はお休みだって書いてあるじゃない。そんなことも理解できない連中が種を残そうなんておこがましいにもほどがある。そう思わない?」
「はあ」
しかし、榊の心配はそこではない。なぜ、貴重な研究材料であるだろう天使が、手のもとから離れたと言うのにここまで平然としているのか。天使がいた時は率先して実験を行っていたことも榊がそう思う理由の一つだ。少なくとも、天使を見つける前よりも生き生きしているように見えたのには間違いない。
そんな榊の内情を見透かすかのように神原は不敵な笑みを浮かべ答えた。
「確かに、天使はいい道具だ。おそらく、彼女がいればこの国を支配することも可能だろうね。でも、それは僕の力じゃない。彼女は二次的な存在である必要がある。彼女を頼るんじゃなくて、彼女が僕を頼るようになる。それが一番の理想さ。努力が、一番美しいんだよ。彼女は運よく手に入ったおまけ、なのさ」
「ですが、われわれの実験はもはや手詰まりでは――」
「だれが、そんなこと言ったんだい?」
神原は山のような実験書を榊に見せつける。榊はそれを受け取ると読み流していく。
「榊、君は何を見てたんだい?」
神原は立上り、一つの写真を取り出すと指でぴんと弾いて見せる。
「僕らの実験は成功していた。まったく、飛んだじゃじゃ馬を育てたもんだよ」
「これは十二年目の写真だったかな」と言い捨てると、写真を机の上に流す。榊はどういうことか、思案に耽る。神原の言うことを理解すると、眼を剥き写真を見つめる。
「まさか!」
「いや、問題なのは、君だったかな? 榊? まあいいよ。とりあえず、僕たちは選択肢がまだあるってことだ。天使、それに――」
電話を終えたアキラは一仕事済ませた感覚で、ペットボトルのお茶を飲む。横目で眺めていた真人は電話の内容について聞いた。
「どう、なりましたか」
「取引には応じる見たいだよ。つまり第一段階は成功ってところかな」
「それは……よかったですね」
「ただ」
妙に冷静だった、電話越しの声を思えだし身震いする。まだ、明日まで油断は出来ない。
「神原って、どんなひと?」
アキラは真人に聞く。少し考えた後に真人は答えた。
「あんまりわかりません。いや、まったくわからない人です」
「だからこそ危ない、か。よし、わかった。もう気にするのはやめ。早く寝て、明日に備えよう」
「備えるもなにも何するか聞かされてないんですが」
「そうだったね。まぁ気にしない。じゃあ灯り消すよ」
アキラは懐中電灯を消した。
臭いのキツい毛布に身を包み、眠りに落ちる。
「おやすみ」
アキラは言った。
真人は返さなかった。
夜が明けると、二人は指定した場所に来ていた。まだ、神原の方は来ていない。
潮風が肌を撫で、真人は身震いをする。
それを見ていたアキラは自分の上着を貸した。
「なんで、そんな寒い格好してるかなぁ」
「いや、たぶん大丈夫です。それよりも……アキラさんの方が寒いんじゃないですか?」
上着を来ていた下には、生地の薄そうなシャツしか着ていないのだ。
「大丈夫。中にもう一枚着てるから。最近のあったかい奴」
「そうですか」
別に気に掛ける理由はないので、真人は口を閉ざす。そして来るべき者を待った。
数分後、靄の向こうから人影が現れる。
「奴?」
アキラは真人に聞く。
「まだ、わかりません」
真人は目を凝らした。だんだん、影は濃くなっていく――。
間違いない。神原であった。白衣に両腕を入れ、一人で歩いて来ている。
「……神原さん、です」
「そう」
一言だけ返事をすると、アキラも正面に向き直った。
「あれが、神原。なんとも若そうに見えるけどね。油断大敵か」
ニヤニヤ笑みを浮かべてと近づいてくる神原。その距離はもう無くなった。
「やあ、天使。久しぶりだな。こちらは君を探すのに手を妬いたよ」
「……」
「無言か。良いだろう。君にとって僕なんか害悪でしかないだろうからね。僕にとって君は大きなサプライだけど」
「ねぇ、彼女に話し掛けるのはいいけど、早く取引してくれない?」
「金か? それならこれだ」
大きな布のカバンを取り出す。
「ごめんね。僕アタッシュケースなんて持ってないから。少々見た目は汚いけど、勘弁してくれ」
「……開けて」
「はいはい」
神原は素直に従う。カバンを開けるといくつもの札束が目に入った。
しかし、アキラには一億がどれくらいかなんてわかるはずがない。
それを察してか、神原はニタリと笑う。
「一束が百万。見たことあるんじゃない? 本かなんかで。それが、百束あればいいだろ」
「いちにい……」一束ずつ丁寧に、アキラに見せながら数えていく。
「百っと、はい、一億」
「あ、あぁ」
初めて目にする大金に少し怖じ気付く。だが、気を持ちなおすと――。
「手を挙げろ」
ナイフを神原首元に向けた。
真人はなんとなくわかっていた。策とはこういうことだろうと。だからこそ、神原の考えがわからない。なぜ、一人で、本人が来たのか。
しかも、依然として笑顔のままだ。
「おう、恐ろしい! こんなのは予想外だ」
「天使ちゃん、今逃げるんだ」
「え、でも……はい」
行く宛てなどない。しかし、今は行かなければならなかった。
真人は従い、走り去る。
しかし、しばらく走ると声がした。
「もういいよ」
足を止める。振り替えるとアキラがカバンを持って歩いて来ていた。
体を真っ赤に染めて。
「……あ、あっ――」
声が出ない。真人も、そこまでするとは思っていなかったからだ。
アキラが一歩近づくごとに真人は一歩退く。
もはや、恐怖の対象だ。
「ごめんね。私、最初からこのつもりだった。策なんて嘘。どんな状況になろうと相手を殺すつもりだったんだ。だって、お金を手に入れても、顔がばれてちゃ意味ないからね、ははは」
力なく笑う。本人も乗り気ではなかったのだ。
仕方なく。こんな世の中だから。
「罰なんて当たるのかな? そうだとしたらちょっと不安」
「あ……あっ……」
「人を斬るとこなんて、見せたくなかったんだ。ちょっとした配慮だよ。だからさ、そんなに恐がらないでよ。君にはなんにもしないから――ほら」
カバンに手を突っ込むと札束をいくつか放り投げる。
「これでさ、好きなとこに逃げな。――よかったら私と一緒に暮らしてもいいけど」
「いや――いらない、です」
「……そうだよね。こんな汚れたお金は、貰えないよね。ごめん、酷いことした。もう、絶対関わらないから、安心して――」
「じゃあ」と、真人からの返事を聞かず、アキラは歩き出した。
もちろん真人はそれを止めない。もはや、思考も停止してしまっているぐらいだ。
恐る恐る向こうを見つめる。神原が先程までいた場所。
そこには、今――。
真人は責任を感じていた。多少なりとも、その殺人に加担したことに。
鼓動が早まる。立ち上がれない。ただ、ひたすら呼吸を整えることだけに集中した。
そのとき、靄の中から光るものが見えた。
そして、大きく銃声が轟いた。
神原のいた方向、そこから聞こえた。
なにが起こったかわからない。だがそれはすぐに明らかになった。
「ああぁ!!!」
背後、銃声とは真逆の位置から叫び声が聞こえた。もちろん真人にはそれが誰の声なのかわかった。
振り向く、アキラが足を押さえ蹲っていた。先程よりも、身体を血に染めて。
「あ、アキラさん!」
心配する義理はない。だが、反射的に駆け付けようとした。
しかし、それは制止される。
「おっと、天使、動かない方がいいよ。当たるかもしれないからな」
足音が近づいてくる。あり得ない。真人は思った。
だが、それよりも驚きを隠せないのはアキラだった。己自身が止めを差したのだ。死んだかどうかくらいわかる。
普通生きているはずなどないのだ。なぜなら――。
「なんで、首を切ったのに――」
アキラは呟いた。真人はそれを聞いた。そして、足音の主を見る。
靄によってぼやけていた像はもうはっきりしていた。
右手に銃を構え、左手は首を押さえ、その男、神原は立っていた。
笑顔で。




