29. 始まりの儀
くかー、くかーと鼾をかき、ゆるんだ口の端からよだれを垂らして紫髪の少女が眠っている。
空中にぷかぷかと浮きながら。
「起きよ。起きるのだシーベル」
「ん~、んひひひ……」
寝ていてもなお奇妙な笑い声を絶やさない。ため息をついたロワーフがひと睨みすると、シーベルが――彼女の入った泡が上下に激しく揺れた。
「んがっ? ぐへっ、ゴホッゴホッ」
突然起こされた驚きのあまりか少女は咳き込み、首を振って周囲を見回す。何度か瞬きして、呑気に笑った。
「ああ、おはよ~……んんっ?」
そして凍り付く。置かれた状況に気づいたらしい。
シーベルはロワーフの泡によって囚われ、何もない小屋の中でマイスとぼく、ロワーフの三人に見上げられていた。
シーベルは起き上がると、慌てて泡に拳を叩きつける。泡は震えるばかりで壊れる気配は全くなかった。
「ロワっ? ロワーフお前ぇ! 裏切るんかよっ? うおおお許さねえ! いっしょに潰してやっからなぁ!」
シーベルは宝石を光らせた。けどここに魔法陣はない。唯一使えるのだという巨人の魔術を封じられた今、彼女にできることはなかった。
「待て、話を聞くのだ。それだから拘束などせねばならぬのだろう」
「んなっ、なんだよぉ! ウチが悪いみたいな言い方してさー!」
「マイス、話してやれ」
「承知しました」
マイスが進み出る。気を失う前の盛大な転倒を思い出してか、シーベルの肩がびくりと跳ねる。
「先ほども言ったが、私たちに敵対の意思はない」
「は? そんなの初耳なんですけど?」
「……」
マイスが黙る。
やっぱり聞いていなかった。たったいま反応があったから良しとするべきだろうか。
「ならば今言おう。私たちに敵対の意思はない」
「いやおかしいでしょ! ウチらの味方ならなんで移民を止めろなんて言い出すんだよー!」
「今から説明してやる」
マイスは冷静に返すと、先ほど聞かせたはずの事情をもう一度、今度はさらに丁寧に話し始める。
魔王が強者との戦いを好むこと。その根拠として、戦場において自ら先頭に立つばかりか、『扉』を世界中に配置することで常に魔王城を攻められる隙を作っていること。
前回の戦争からあまりにも長く戦いが起こっていないこと。これまでと比較すれば遅すぎるのは明らかで、何かを待っているとしか思えないこと。
移民を急速に早めるシーベルの存在を知りながら放置していること。魔王が魔族たちに移民を襲うなとの命令を出していること。
そしてそのほか様々な点から推測できるのが――魔王は最後の戦争を楽しむため、ネアリーへの戦力集結を心待ちにしているということ。
「――へ? あー……へぇ……ふーん?」
シーベルは話を聞くうち、みるみるうちに顔色を悪くしていった。最初に話を聞いた時は半信半疑だったロワーフも、彼らの持っていた情報と合わせて納得できることが多かったらしく、口を出さずにいてくれた。
最後にマイスは締めくくる。
「ゆえに私たちは考えたのだ。移民が完了すれば魔王はすぐにでも戦を始めるに違いないと。それを少しでも遅らせるため、こうしてお前に接触した」
「な…………なるほどぉ」
へなへなに萎れた花のように力のない声を漏らすと、シーベルは泡の中でひざを折る。泡に手をつき、瞳を震わせた。
「そ、それじゃあ、ウチのしてたことって」
ようやく事情を飲み込んでくれたようだけど、見ていて居たたまれないというか、気楽に答えられる空気ではなかった。皆を守るために身を粉にして働いてくれた人を相手に責めるようなことは言えない。
「えええ……ウチ、自分のこと女傑とか言っちゃってたんですけど」
気にするところ、そこなのか。
「で、でも間に合ってよかったよ。これで戦争を始めさせないで済むね」
気まずくなってきたので無理やり話を戻す。残りの移民には全速力でも数日以上はかかるらしい。戦力集結という意味ではまだまだ道半ばだ。移民のペースが緩んでも痺れを切らした魔王が戦を始めることもないだろう。……多分。
移民を完全に止めたら魔王にちょっかいをかけられそうだから、こちらの意図に気づかせないよう誤魔化す必要はあるだろうけど……。
ともあれ時間稼ぎができるのは間違いない。やっと本来の目的に戻り、味方を集めることができる。
そして今度こそ、総力戦に持ち込まれる前に魔王を倒すのだ。もしその後強引に戦争へ持ち込まれることがあっても、頭を潰しているかいないかでは戦況が全く違ってくるはずだ。
さて、問題は味方集めのほうだけど。
「それで、実はもう一つお願いが――」
「ん? あれ、待てよ?」
前に門前払いをくらったコードガンと再び交渉をすべく、シーベルに仲介を頼もうとしたときだった。
「手遅れかも」
「え?」
シーベルが妙なことを言い出した。
「移民、ある意味じゃ終わっちゃってるから」
ロワーフが息を飲むのが聞こえた。ぼくが理解できずに瞬きをしているのを見て、ロワーフが説明してくれる。
「戦力として数えられる町の移民は、今回で最後だったのだ」
「今回、で……?」
「そして戦力の要である騎士たちは、一足先にネアリーへ向かってしまった。既に到着してしまっているであろうな。その意味では、移民は完了したと言って良かろう」
「……そんな」
どうしようもなく情けない声が漏れた。
受け入れがたい事実に頭が理解を拒もうとする。でも無駄だった。
移民は終わっている――冷酷に過ぎる言い方だけど、魔王ならば確かにそう考えるだろう。
魔王が戦力の集結に気づいているとは限らない。重要な戦力を全て分析するなんて並大抵のことではないのだから。
けど。
けどもし、全部ばれてしまっていたら。
戦争が、始まる――?
*
その頃。ネアリーの地に一本の石柱が落ちた。
それは直ちに女王の元へ届けられた。
柱の中からは骨となった遺体が取り出され、その形からケンペラードの前王ミアージュのものであることが判った。現女王の母である。
骨の頭蓋には文字が彫られており、それは至極簡潔な宣言であった。
『十日後、ネアリーへ攻め込む』と。
宣戦布告だ。魔王ブラムスがついに戦争を起こすと宣言したのである。
玩具にされた母の亡骸を目にしてもネアリー・コードガンは動じなかった。『氷の女王』の名にふさわしく冷たく笑み、柱の飛んできたという方角へ視線を返す。
「少し遅かったようですね、魔王」
そこに恐怖はなく、驕りもなく。
絶対に世界を守り抜くという揺るがぬ覚悟のもと、女王は言ってのけた。
「戦力は揃いました。人類に敗北はありません」