砂の都のサフィ ⑤
日も傾き、そろそろ夕刻の鐘という頃。
サフィは、奴隷小屋の小さな裏庭いた。
奴隷三十人が生活するという日乾しレンガの小屋は、シドルクとジュニが寝泊まりしている地下物置から遠くない。シドルクやジュニも、朝と夕の食事時だけは奴隷小屋の方に来るらしい。
サフィが今すべきは、「世話焼き婆さんの孫娘」として、帰ってくる奴隷三十人分の夕食を用意すること。
しかし――――それは死闘の連続だった。
「えほッ……! こっ、この窯、ほんとに使ってた……⁉」
裏庭で見つけたのは古びた切石積みのパン窯。その内側は灰まみれで、とても使える状態ではなかった。サフィは意を決すると、その窯の中に箒を突っこんだ。
サフィの死闘は、今に始まったわけではない。
遡ること六時間前。
なんとか市場で買い物を終えて、ここに着いた頃。
戸のない入口に立った瞬間、筆舌に尽くしがたい悪臭が鼻を襲った。
言ってしまえば、それは家畜小屋のニオイだった。もともと馬の厩舎か何からしい。奴隷たちの寝床らしい敷き藁は、最後にいつ替えたかも分からない。土間にも汚いものが染みつき、いやに湿っている。
次に、土間の片すみに積まれた物体。酸っぱい激臭を放つそれは、腰布のカタマリだった。汚れ物なのは分かるが、下手すると数か月は洗ってない。上の方が汚れ具合が酷いのを見るに、比較的ましな下の方から引っぱり出しては着て、汚れてきたら上に乗せるという地獄の輪廻を繰り返していたのだろう。
今まで、誰がどんな管理をしていたかは知らない。
サフィから見て、そこが人の暮らせる場所でないのは確かだった。
極めつけに、土間に散らばった素焼きの器が、「ここで食事をする」という事実をサフィに突きつける。
「う、く………………ええい、まとめて片付けてやるっ!」
買ってきたチュニックに着替え、サフィは汚濁の巣窟へと踏みこんだ。
まずは近所の井戸から水を汲み、市場で買ってきたヤシ油の石鹸を溶かす。一つかみの腰布を洗い鉢にぶち込んで、水が一瞬で濁るのも構わずに手揉み足揉み。何十回と水換えが必要だったが、昼過ぎには、裏庭に張り巡らせた吊り紐を腰布でいっぱいにした。
休む暇もなく掃除にかかる。まずは土間。汚物の染みついた表面を、近所で借りてきた鉄刃の鋤で削っては掃き出す。敷き藁は燃やして、新しい寝床として亜麻の一枚布を人数分だけ買ってきた。仕上げに強めの没薬を焚きしめ、家畜小屋のニオイを徹底的に追い払う。
そして、日が傾き始める頃。
夕食を焼こうと石窯のふたを開いた時、あわれ、サフィは灰かぶりと化した。
――――――死闘を終え、夕刻の鐘が鳴った。
どうにか捏ねあげた円盤状の生地が、熱のこもった焼成室で焼けていく。「世話焼き婆さん」の使い残しだという大麦の粉は、慣れない手触りなうえ固まりにくく難儀した。それでも形にできたのは、王宮で厨房係の手伝いをしてきた賜物だ。
「……………………おわっ、たぁ…………」
弱弱しい炎をのぼらせる石窯を見つめながら、サフィはぐったりと裏庭の壁に寄りかかる。夜どおし踊っても疲れ知らずな彼女にとって、人生で初めて味わう疲労困憊だった。
ふつふつと煮詰まっていくザクロの果汁。石を並べただけの即席の焜炉に小ぶりな銅なべを置き、粒々の果実と赤砂糖をからめて煮込んでいる。
夕刻の鐘が鳴ってしばらく後、入口の方から声が聞こえてきた。
「……………帰ってきたっ!」
ローブをかぶって顔を隠すのを忘れず、裏庭から正面の方に回り込んでいく。
見ると、奴隷小屋の入口には奇妙な光景が広がっていた。腰布を巻いた半裸の男たちが十数人、玄関先で棒立ちしているのだ。
サフィがそっと近づくと、そのうち一人が気づいた。
「あぁ……? おい、誰だ、この娘っこ」
「アレだろ……? ジュニの小僧が言ってた…………婆さんの孫」
奴隷たちが「世話焼き婆さんの孫娘」に注目する。サフィは大勢に詰め寄られる形になるが、なぜかあまり怖くない。彼らの眼には覇気を感じなかった。
「なあ、嬢ちゃん…………俺らの家がよぉ、なんか人ん家みたいでよ」
奴隷の一人がぶっきらぼうに尋ねた。彼らは一様に、すっかり様変わりした小屋に当惑している。帰る場所を間違えたと言い出す者もいた。
「え、えっと……お掃除、しましたけど……?」
その奴隷は、なおも生気のない瞳でサフィを見下ろしていた。
(………………うっ、よくも勝手なことを…………ってこと?)
思わず一歩退いてしまう。しかし、いつの間にか奴隷の一人が宿舎に入っていた。それを皮切りに、次々と中に踏み込んでいく。
小屋をのぞくと、みんな土間の上に寝転がっていた。安らいだ顔で、まるで春の草原に寝そべる馬のように。
「はあぁぁぁぁ…………なんだこりゃ、ああぁぁ……」
「おれよぉぉ、もっと臭っせえ所じゃねえと寝れねえよぉぉ」
「おぉい、この畳んである布っきれ、こんな色だったかぁ……?」
満たされた様子の彼らを見て、サフィは少々複雑な面持ちを浮かべた。
今の状態でも、せいぜい新しめの馬小屋という程度。王宮の牢獄である折檻部屋ですら、これよりは立派な「人の家」だ。
「すっげえ! これも姉さ…………孫さんがやったんすか⁉」
ジュニの声がした。振り返ると、興奮気味のジュニと、その後ろにシドルクが立っている。
「………………すごいな、きれいだ」
ふと、シドルクが誰に聞かせるでもない声量で呟いた。
「兄貴…………知ってたんすね、そんな言葉」
「…………? 何か言ったか?」
ややあって、絨毯がわりの長い一枚布が敷かれて、夕食が並んだ。
今日の献立。
サフランの香る発酵パン「シルマル」が一人一個。ドロドロに煮詰まったザクロが銅鍋一杯分。大の男の食事量としては心許ないが、午後いっぱいを掃除と洗濯に費やしたので、これが用意できた最大限だ。壺に残っていた大麦の粉は、全部シルマルにしてある。
「…………あ?」「…………」「…………?」
奴隷たちは全員、食事を囲むように座ったきり、一向に手を出そうとしなかった。ちらちらと彼らの顔色を伺い、サフィはまた心配になる。
(こんな甘いのじゃ食事にならない……とか?)
しかし、最年少のジュニがそろりと動き出す。
黄色っぽいシルマルをちぎり、大鍋のザクロにつけ、口に運ぶ。
「う…………っめえええぇっ!」
それを合図に、奴隷たちの手が一斉に殺到した。
指ごとジャムに浸し、次々と口に運ぶ。みるみるザクロが減っていき、しまいには鍋そでの焦げまで拭い取られた。
「こ、こりゃあ何だ? あの婆さん、こんなもん残していったんか?」
「んなわきゃねえだろ! 昔から有名なドケチ婆だぜ⁉」
「何でもいいじゃねえか! こんな美味えもん初めてだぜ、孫ちゃん!」
名残惜しそうに指を舐めて、口々に感謝を叫ぶ奴隷たち。ジャムまみれの笑顔は、さっきまでとは違い、いくらか生気が戻っていた。
「あ、あはは…………おかわりが無くてごめんなさいね……?」
予想を超える誉め言葉にたじろぎながら、サフィは妙に心が温まるのを感じていた。
王宮で作っていた大量の「まかない」は不特定多数の口に入るので、いちいち味の感想を聞くこともない。だからこの温かさは、サフィにとって初めての経験だった。
「…………美味いな」
騒がしい晩餐会の中、なぜかその一言は聞こえた。
口元にザクロの種をくっつけた無表情の青年。切れ長の眼は、シルマルを持っていた手の指をじーっと見つめていた。
「兄貴、目ぇ向けるとこが違うっすよ」
「…………?」
弟分の言っている意味が分からず、シドルクは首を傾げた。
食べ終えた奴隷たちは気分が乗ったのか、誰からともなく歌を歌いだした。だみ声の合唱にまぎれ、サフィはこっそりと奴隷宿舎を出ていく。
「…………ふふふ、そっかそっか♪」
裏庭に回ると、壁に背をもたれて腰を下ろす。
涼しい夜風が吹いて、火照った肌を心地よく冷ました。屋内から聞こえる歌声が、だんだん陽気で盛大になっていく。
「どれどれ、わたしもいただきましょうかね」
サフィは自分のシルマルを取り出す。
実を言うと、焼き上がりが遅かったせいで味見をできていない。それでも好評だったので、内心ほっとしていた。
さっそく一口嚙みちぎって、咀嚼する。
赤砂糖の甘み、サフランの香りが口いっぱいに――――
「……………………??」
一口目を齧ったまま、サフィは固まった。
あまりの美味しさにとか、そんな茶番ではない。
噛むごとに返ってくるのは、ザリザリとした不快な食感。
(………………砂……⁉ うそ、どうして……⁉)
捏ねている間に混ざった――――という程度ではない。
その大元は、壺に残されていた白い麦粉。そのうち実に三割が、麦粉に似ている色味なだけの「砂」だった。
単なる不快感が、嫌悪になり、吐き気に変わる。
奴隷たちは今まで何を食べていたのか?
世話焼き婆さんのものだという着古したローブ。擦り切れた袖には、なぜ砂粒がこびりついていたのか?
寄りかかる壁の向こうから、底抜けに明るい歌が聞こえた。