砂の都のサフィ ③
サフィは、フード越しに背後の人物をうかがった。
立っていたのは、獅尾刀をベルトに佩いた兵士。
この街の市場では交渉のもつれや窃盗事件が絶えないため、マーハ国王軍から選ばれた「巡邏兵」が配置されている。彼らがトラブルを嗅ぎつける感覚は一流。客と行商人でごった返す大通りにいようと、些細な言い争いを見逃さない。
「これは…………見事な宝石飾りのようだが、お前の物か? どこの家の娘だ?」
巡邏兵が、ローブ越しにサフィを値踏みしていく。
ローブの下には今、サフィが王宮の踊り子だという証拠品が全身に飾られている。それらの宝飾品や衣装は、いつ王宮に戻るチャンスがあるか分からないので肌身離さず持っていたのだが、こういう危険性は甘く見積もっていた。
「よもや盗品ではなかろうな? 疚しい所がなくば申してみよ」
「う、う………えっと…………」
巡邏兵は圧力をかけて詰問する。店主の方はといえば我関せずとばかりに明後日の方を向いていた。
もし連行されたら…………というより、ローブを捲られただけで全てが露見してしまう。
一か八かで逃走してみるにも、勝手を知らない街中で、まして鍛錬された兵士の足腰に敵うはずがない。きっと増援だって呼ばれる。
巡邏兵の右手が伸びてくる。
一向に脱ごうとしないフードを剥ぎ、泥棒女の素顔を暴くために。
(う、うう……! でも、逃げるっきゃない……っ!)
心臓は暴れるように脈を刻み、口内が乾く。
サフィは覚悟を決めた。
活路は一つしかない。市場を流れていく人波に逃げこみ、姿をくらます。人混みに空いた隙間を待って、一気に――――――
ふわっ……と、サフィの脚が浮いた。
「えっ――――――」
見える景色が流れはじめる。フードに縁取られた視野の中で、あの巡邏兵の顔がみるみる小さくなっていく。
そこで、サフィは気づく。
誰かが自分を抱きかかえ、疾走しているのだと。
「…………シドルクさん⁉」
上を見れば、あの表情の乏しい顔立ちが逆光に陰っている。間違いなく、あの青年奴隷シドルクだった。
呆気にとられた巡邏兵をよそに、市場の雑踏をすり抜けていく。
「サファルケリア」
シドルクは、腕の中のサフィが無事なのを確かめ、話しかけた。
「今朝も言った。なんで奴隷相手に畏まるんだ」
「へっ……⁉ え、えっと…………歳上だから?」
「…………今年で十七」
「え、うそっ⁉ 一つ違い⁉」
緊迫した逃走劇の最中だというのに、どこか二人の問答は呑気だった。
通りをにぎわす買い物客が、爆走するシドルクに怯んで道を開けていく。人混みをかわし、羊の群れをかき分け、荷車を踏み台にして跳び越える。
後ろから怒鳴り声が聞こえた。あの巡邏兵が増援を呼び、追ってきている。
「止まれ、そこの女! その奴隷を止めさせろ!」
「…………っ!」
次第に近づく警告の声。シドルクがいかに俊足でも、人ひとりを抱えたままでは結果は知れている。追跡者との距離は徐々に詰まっていった。
がくんっ……! 突如、シドルクが巨躯を右に傾けた。足の指が地面を抉り、慣性を押し殺す。
ほとんど直角に右に曲がり、大通りから路地裏へ飛びこんでいく。
そこは、土壁に挟まれた狭隘な裏道だった。
どこまでも先に続くばかりで、追っ手をまける脇道も、身を隠せるような場所もない。
「ハァ……ハァ……あてが外れたな⁉ 縄につけ、いい加減に……!」
背後には、数歩で詰まる距離にまで巡邏兵が迫っていた。いずれも訓練を積んだ兵士。息を切らしても、明らかに怪しい女を取り逃がすほど甘くはない。
無論、ここまで手を焼かせた共犯者のことも。
「…………シドルク、もういいから! 置いてって!」
サフィは、シドルクの腕から降りようと身をよじった。だがシドルクは逆に、一層しっかりとサフィを両腕で包みこむ。
追跡者が手を伸ばし、ついにシドルクの肩をつかむ――――が。
「………………なに?」
その手は虚しく空を切った。
奇妙だった。距離的には追いついたと言えるはずなのに、その手が届いていない。
シドルクは知っていた。この路地が、なんの障害物もない、ひたすらな直線路であることを。
「牡牛」の豪脚が、その真価を発揮する。
ドウッッッ! 瞬間、踏み固められた土が爆散した。
「むっぐ……⁉」
顔面ごとシドルクの胸に埋もれる。泥と汗のニオイが鼻腔を抜けた。
暴力的な加速だった。火を噴くように、風の薄壁を突き破るように。シドルクの足指が大地を蹴り散らし、またたく間に突き当たりに到達する。勢いのままに左旋回、またすぐに突き当たり、今度は右へ。
「ふお、おおおぉぉ……⁉」
サフィは、されるがまま慣性に振り回された。
シドルクは速度を緩めない。ギュアッ!と直角に曲がり、細道だらけの裏通りを走破していく。
詰めたはずの距離はみるみる開き、巡邏兵が次々に脱落していった。
「ぜぇッ………ぜぇッ…………何なんだ、あの奴隷…………」
やがて、最後の一人が力尽きる。
白昼の逃走劇に、あろうことか、シドルクは脚力一つで決着をつけた。
「しど…………るくぅ……も、もぉいいから…………!」
「まだだ。このまま街を半周して反対側に行く」
「は、はんしゅうぅ……⁉」
目に見える追跡者が絶えても安心はできない。
サフィを安全圏に届けるべく、猛牛シドルクの爆走は続いた。