第五章
景都が初めて泊まりに来て以来、天春家ではその人気が炸裂していた。
この世に恐犬がいる事をまだ知らないピンク肌の残る仔犬のように、景都は一般家庭の中ではまるで無垢な瞳をしていた。
早い者勝ちの世界、押し付けあいの世界、整理が追いつかない世界が存在することなど知らないパピーは、怖ろしい長子や両親という大人族に緊張もせず、嬉しそうに日本人離れした親愛の情を持って挨拶をする。
思春期で多感な華子を持て余す晶の両親は、まずその岬を渡る春風のような広やか笑顔に只者ではない事を悟り、それでいて檜の香りでもしそうな落ち着いた態度、山麓の湖のような深く澄んだ眼差し、その綿密そうな感性が醸す雰囲気に圧倒されてしまった。
他ならぬ華子でさえも、訝しがる隙も与えられぬ程あっという間に、景都の放つ満開のバラ園のような愛らしさに魅了されてしまった。
「景都、今頃何してるのかなあ」と、母はたまに夕飯時に呟いた。そうすると、皆、景都が泊まりに来た時の事やそれぞれとした会話を話し出す。
この前までは、玄関を通りがかりに遠くから挨拶をするだけの娘の友達だったのに。
始めは自分の友達と自分の家族が仲良くなった事を晶は嬉しく思った。しかし、段々と様子が変わってきていることを感じ始めると、否が応でも気にかかるようになった。
自分の知らない所で姉と景都が本の貸し借りをすでに三回もしていたり、母と二人で外でお茶をしていたり、自分が居ない日に手作りのよもぎ団子を両親が届けに行ったりしていると、今までの関係が急に変わっていくみたいで、まるで晶の地位を揺るがすようだった。
「だって、お団子固くなっちゃうんだから仕方ないでしょ」
と、晶が居ないところでのやり取りでも、最もらしい事を言われると、納得してしまう所がある。
しかし、晶の動揺は収まらず、心の中で自問自答が始まってしまう。
たった数回会っただけの人たちが、我らの関係を揺るがす事なんてあり得るのだろか?――そんなバカなっ、有り得ない。おら達なら噛みかけのガムだって交換できるし。それにそれに、私に批判でも何でも言っていいのは景都だけなんだから。この関係は、にわかとは違う。そうに決まってるでしょう?なんで決まってるの?決まってはいないよね?は?――まさか、自分だけがそう思ってるなんて事があ……?やめて。怖い。
晶は、相手ありきの不確実さに突き当たって、もう自分だけでは葛藤を抱えていられなくなっていた。
夕方、自転車で景都の家へ向かった。通い慣れた道、風の中で、
「あのさ、景都の一番仲良い友達って誰?」――傍目から野暮だと思っていた質問が頭に浮かんでくる。
こういう痛々しいことを、誰かに聞きたくなる時が来るなんて思ってもみなかったから、晶は自分の感情の正体に軽くショックを受けた。だけど、それでも、どうしても確かめたい欲求に駆られてしまう。聞く勇気もないのに、道を引き返そうとすると、イラついて顔が熱くなる。
皆、自分の自由があって、誰とどれくらい仲良くなろうとそれは思いのままなのです。――念のため道理を確認してみるが、全然説得はされない。
「天ちゃんにやきもち妬いて欲しいな」って、昔言ってた子たち。その時は、何言ってんのかなって思ってたけど、色んな感情を表現できる方が落ち着いていられるって、今思い知ってる。
本当に思ってる時に限って初めてで、どう差し出していいのか分からない。
景都の家の門扉を開けて、自転車を入れると庭から水の出る音が聞こえてくる。晶は温室のある方へ進み、辺りを見回したけど誰もいない。
温室の中は夕暮れの暖かい光と植物の静けさで満ちている。芝生を歩く音がして振り返ると、景都が細いジョウロを持って立っていた。
「わ、びっくりした」と微笑むと、景都は小さな鉢植えに水を撒いて回る。
晶は後を付いて歩いて言う。
「どうしても。なんとなく。話したくて」
景都は最近撒いた花の種を観察するのが楽しいとか、野菜の種も幾つか撒いてみたとか、そんな話をしていた。一緒にいると、それだけで楽しい。
「私も今日会いたいと思ってたの。そしたら庭にいたんだよ。嬉しいな」
景都は植物を見ながら、自然体で自分のタイミングで言う。