何か変だ
6.
「此処を通るのか……」
ムゥは溜息を吐き、眉を寄せました。
見上げた巨木の幹には、穴が空いています。ほんの指先ほどの直径ですが、その数が、ちょっと正気ではありません。ムゥの目線の高さから樹の天辺まで。等間隔にびっしり穿たれて、ドングリの嵐でも吹き抜けたようでした。
なんとこれ、蜂の巣なのです。
この辺り、半径先数百メートルの区間は“軍隊蜂”の縄張りです。
彼等は樹の幹に穴を開けて巣を作り、集団で生活しています。普段は花の蜜などを集めている、ごくごく大人しい昆虫なのですが、縄張りへの侵入者を発見すると俄然、戦闘モードへ移行。猛然と襲い掛かってくるのです。
毒こそありませんが、何度でも生え替わる針と完璧な統率が脅威で、ときに大型動物の群れでさえ、一分足らずで駆逐してしまうことがあります。
幸い今は夜。よく眠っているようです。
起こさないよう、静かに通り抜けなければ。
静かに……。
「……! …………、……!」
と、そのとき、後方から、何やらドタドタと足音が近付いてきました。
振り返れば、セヴァが物凄い形相で走ってきます。
端正な美貌は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに崩壊しており、あまつさえ怒りに満ちて、原型が来い状態。雅だの風流だのという概念は昇天したのか、長い金髪を振り乱して暴走する有様は、さながら怒り狂った鬼婆でした。
「ムゥてめェやりやがったな許さねェーーー!」
「しっ、黙れ! 軍隊蜂の縄張りだぞ!」
「知るかァーーー!」
セヴァは、ムゥが口元に指を当てるのも構わず、勢いに任せてドロップキックを放ちました。
食らったムゥは吹っ飛ばされ、樹の幹に激突して、ずるずると頽れます。
「…………」
数秒の沈黙の後、おもむろに片手を突き、ムゥが顔を上げました。
歪められた唇には、うっすらと血が滲んでいます。けれどムゥは、それを拭おうともせず、上目遣いにセヴァを睨み付けました。その眼輪筋が、ぴくぴくと小刻みに痙攣しています。
「やったな……」
立ち上がったムゥは、バッグから小豆ほどの粒を出して、口に放り込みました。
続き、大きく息を吸って吐くと、セヴァが鼻を押さえ、上体を折ります。
「臭ッ……臭っせ! う゛ぉえ! 何食ったんだよ!」
「“グロレ○ツ”」
一粒で息びっくり。お口の迷惑な隣人グロレ○ツは、噛み潰すことで、生物兵器並の激臭を発する丸薬です。風味は保証しかねますが、召し上がっても使用者本人の健康には、たぶん問題ありません。
尚、実在の商品とは一切関係ございませんので、悪しからず。
「野郎ォ!」
セヴァが指先で印を結びました。
途端、足元が爆ぜ、ムゥは咄嗟に跳び退ります。
これは結界術を応用したもので、任意の場所の空気を圧縮し、破裂させるという物騒な術です。主にリア充などに使用すると良いですね。
「こいつ! つるっパゲにしてやる! ロイヴァ!」
「効くかよンなモンが!」
セヴァは瞬時にして結界を張りました。
ムゥの放った術は、弾かれて四方へ散り、消滅します。
「人間風情が……俺様に敵うと思うのか?」
「甘く見てもらっては困る。私とて、かつて帝国一と言われた魔術士だ」
「はッ。魔力をなくした魔術士に何ができるよ?」
「できるさ。今の私には、目的がある。そのためなら!」
対峙していた二人は、攻撃に移るべく、同時に間合いを取りました。
と、ぶぅん。
この忙しいのに、誰かムゥの耳元で唸る者があります。
ぶぅんぶぅん。後ろ手で払っても、離れません。
なんだ、鬱陶しい。
「おい、後にしてくれ。今取り込み中……」
言いながら、振り向いたムゥの顔が引き攣りました。
「あ……」
そこには、迷彩柄の大きな蜂!
すっかり忘れていました。軍隊蜂です。静かに眠っていたところへいきなり激突され、とんでもない悪臭を嗅がされ、終いに庭まで爆破されたのですから、無理もありません。彼等でなくとも、激おこ不可避の案件でした。
「やっべ!」
真っ先に逃げ出したのは、セヴァです。
それが合図だったかのように、樹の幹に空いた穴という穴から、一斉に軍隊蜂が出動しました。
どうやら指揮官の命は、全軍突撃。直ちにブチギレた蜂の部隊が、二人目掛けて襲い掛かります。蜂としては大きな体躯も、人間が捉えるには小さすぎました。身を捩り、腕を振り回しても、一匹として打ち落とすことができません。一方、彼等の方は刺し放題。
鼻といわず額といわず、露出している部分を狙って、降り注ぐ雨の如く容赦ない攻撃を加えてきます。ぶんぶんと唸る羽音は、まるで地鳴りでした。針の生えた雲に巻き込まれたようなものです。こうなると、もう収拾が付かない。
帝国一の魔術士だろうが、鉄壁使いの古狐だろうが、悲鳴を上げて逃げ惑うことしかできませんでした。
「痛い! 痛い!」
「いたたたた!」
「結界! 結界を張れ! 早く!」
「こんな状況で集中できるか! あ、痛ェ! 鼻! 耳!」
「死ぬ死ぬ死ぬ!」
「ぎゃあッ! ケツが!」
「痛い痛い痛い!」
「俺が悪かったァーーー!」
†
ざわり風が吹けば、群生した笹百合が、白く闇夜に揺れて、空を手招きます。
芳しくも悩ましい香りは、ゆらゆらと陽炎めいて意識を誘い、無防備な者の魂に直接、染み込むようでした。此岸とも彼岸ともつかぬ光景に紛れて、このまま何処かへ消えてしまいそうになります。
その幻想的な世界に、浮浪者然とした男が二人。
ムゥとセヴァは、這々の体で“笹百合の丘”へ辿り着きました。
なんとか軍隊蜂からは逃げ切ったものの、身体中に刺傷、創傷、擦過傷。瘤に痣にと、非常に勇ましい姿へと変わり果てています。余計な傷が多いのは、互いに足を引っ張り合った結果でした。それでもヒコボシを見失わなかったのは、さすがと言うべきでしょうか。
「酷ェ目に遭ったぜ……」
「まったくだ……」
もう二人とも疲れて、相手を罵る元気もありません。
各々、辺りを見回して、ヒコボシを探し始めました。確か此方の方へ飛んできたと思うのですが。
「……あ!」
十メートルほど先、笹百合の陰で、何かがキラリと光りました。
ムゥは、思わず脚を踏み出します。
その腕を、すかさずセヴァが掴みました。
「邪魔するな! それとも此処で決着を……」
けれども、セヴァの横顔は、ムゥを見てはいませんでした。
耳と尻尾をピンと張り、髪を僅かに逆立てて、ふすふすと鼻を鳴らしています。明らかな警戒心を含み、件の笹百合を見据える視線が、妙に険しく野性的で、ムゥは残りの台詞を呑み込みました。
「……どうした?」
「何か変だ」
「え?」
「静かすぎやしねェか」
本当でした。
先程まで、あれほどうるさく鳴いていた虫の声が、まるで聞えません。いつからでしょう。おそらく、この丘へ足を踏み入れてからです。
そして眼を凝らせば、光は、一つではありません。暗視ゴーグル越しにちらっと見ただけなので早とちりしましたが、鶏卵ほどの光が、二つ。ちょうど眼のように並んで、爛々と輝いているのです。
いいえ。正真正銘、あれは眼ではありませんか。
「!」
ムゥが気付いたのと同時、爬虫類特有の縦長の瞳が、ぎらり不気味に光ります。
その部分の闇が急激に膨張し、笹百合が震えたかと思うと、次の瞬間には大きく開いた口が、すぐ目の前まで迫っていました。




