もっと西へ
5.
ヒコボシを追って、更に西へ。
やってきたのは“睡蓮沼”でした。
対岸まで百メートルほどの沼地で、その名の通り、水面を覆う睡蓮が見事です。夜目にも鮮やかな白は、しとやかな淑女にも似て、可憐ながらも凜とした佇まいで咲き誇っていました。溜息の出そうな光景です。
ただし、それは水面から上だけの話。
実はこの沼、底なし沼なのです。
水面下はすぐ柔らかい泥土となっており、うっかり足を取られれば、もう逃れることはできません。ずぶずぶと為す術もなく沈み、呑み込まれ、睡蓮の養分となる末路が待っています。美しい外観からは想像も付かない、森でも有数の危険地帯。悪夢の二世帯住宅なのでした。
これは慎重に進まねばなりません。
ムゥは“照明”を四方へ飛ばし、照射範囲を広げました。それからブーツの羽根を調整します。地面に対して、ほぼ平行の角度へ。速度は落ちますが、浮力を最大まで高めました。少しずつでも着実に渡るのが賢明でしょう。
地を蹴ったムゥの身体が、ふわりと浮きました。
手近な睡蓮へと降り、その葉を蹴って、次の葉へと映ります。フェザーブーツの効果により、体重は最小限にまで殺され、小鳥が留まったほどの衝撃が、優しく葉を揺らすのみです。
仄白い睡蓮が微かな波紋を描けば、水面は星を宿して、細波を打ちます。鏡映しになったムゥの姿は、まるで星から星へと飛び回る、青い鳥でした。
ところが、沼の半分を過ぎた頃です。
「……!?」
突然、身体の自由が利かなくなりました。
かと思えば、しゅるん。何かに足元を掬い上げられ、宙に浮きます。しまったと咄嗟に身構えますが、ムゥは転ぶことも、水没することもありませんでした。浮いたままです。フェザーブーツの故障でしょうか? いいえ。
手を伸ばして探ると、薄い透明な球が、金魚鉢のように自分を閉じ込めていると知れました。
「結界か!」
振り返れば、沼の畔で、腕を組んだセヴァが此方を睨んでいました。
上半身は半裸、下半身も結構ギリギリです。長い金髪は寝起きよりも酷く乱れ、尻尾はささくれて、使い古した歯ブラシ状態。丹念に施した化粧も剥げて、真っ白な肌には、いかがわしい青痣がいくつも刻印されていました。
玉虫前は見当たりません。今は回収を諦めたようです。
「よくも見捨てやがったな。おかげで勝負服が台無しだぜ」
セヴァが憎々しげに顎をしゃくると、ムゥを格納した結界が、すぅと水面を滑って彼の元へ引き寄せられます。
「ずいぶんと色男になったじゃないか」
「おうよ。触手プレイなんざ初体験だ」
結界に飛び乗り、セヴァは対岸を見据えます。
術者の意に従い、結界は移動を始めました。
「くそっ、出せ!」
「ヤなこった。俺様のケツでも見てな」
ムゥがいくら喚いても、セヴァは知らん顔です。当て付けか、脚を組んで鼻歌まで歌っています。
あっという間に沼を越えると、セヴァは、尻尾を振って駆け出しました。
「待てこの! セクハラ狐!」
「ははァーん、あばよ!」
怒りに任せてブン殴ってみましたが、結界はびくともしませんでした。
妙に弾力のある、分厚いシャボン玉のような感触です。これが衝撃を吸収、分散してしまうのでしょう。押しても引いても、手応えがありません。人力で割ることは不可能らしい。
何か使える物はなかっただろうか。ムゥは、バッグを引っ掻き回します。
頼みの魔道具は、ヌシに絡まれて、だいぶ減ってしまいました。
これじゃない、あれも違う、それも駄目……。
「あ」
ありました。イェーガーの欠片が、ひとつ紛れ込んでいたのです。
「しめたぞ!」
ムゥは欠片を手にして、結界を削ります。
ざくざくかりかり。一心不乱にやっていると、意外に薄かったのか、じきパンと音がして、結界が割れました。
セヴァは?
地面に尻餅を突きつつ前方を見れば、もう親指ほどの大きさになっています。
「だが……まだ届く」
追い風を確認したムゥは、しっかりとゴーグルを填め直し、塗薬を鼻の穴に詰めます。そして取り出した小瓶の栓を抜き、中の粉を撒きました。
「へっくしょい!」
すん、と洟を啜り、セヴァは剥き出しの肩を擦ります。
「着物が破れちまッたからなァ……夏でも夜の森はちと冷え、いっくし!」
なんでしょう。やけに鼻がムズムズします。
それだけではありません。眼も痒い。
「何……っくし! はっくし! っきょし! んぐっく!」
というか、クシャミが止まりません。
というか、眼が。眼が痒い。擦っても擦っても、余計に痒みが増すだけで、一向に収まらない。いくら夜目の利くセヴァでも、堪りませんでした。滲んだ涙で、己の手も見えなくなってゆきます。鼻水は流れっぱなし、クシャミも出っぱなしで、まさに息吐く暇もなく、とても走ってなどいられません。
セヴァはその場に蹲り、膝を着きます。
そこへ、ムゥがフェザーブーツで駆けてきました。
「ムゥ……っく! てめ、っきし! ふっく!」
「クシャミ花粉だ。悪く思うな」
ムゥが散布したのは、クシャミ花粉です。
人体には無害な、ただの花粉なのですが、吸い込むと花粉症に似た症状が現れ、これがまた辛いのです。くしゃみ、鼻水、眼の痒み。数分で収まるものの、その間ちょっとした地獄を味わう羽目になります。
感覚器官の優れたセヴァならば、尚のこと。
「いっきし! はくしょい! っぷほ! はっぷ! うなっ!」
奇妙なクシャミを連発するセヴァを後に、ムゥは先を急ぎました。
ヒコボシは、まだまだ西へ。




