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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
夏の夜の夢! ヒコボシきらきら☆争奪戦!
39/97

もっと西へ

5.






 ヒコボシを追って、更に西へ。

 やってきたのは“睡蓮沼”でした。

 対岸まで百メートルほどの沼地で、その名の通り、水面を覆う睡蓮が見事です。夜目にも鮮やかな白は、しとやかな淑女にも似て、可憐ながらも凜とした佇まいで咲き誇っていました。溜息の出そうな光景です。

 ただし、それは水面から上だけの話。

 実はこの沼、底なし沼なのです。

 水面下はすぐ柔らかい泥土となっており、うっかり足を取られれば、もう逃れることはできません。ずぶずぶと為す術もなく沈み、呑み込まれ、睡蓮の養分となる末路が待っています。美しい外観からは想像も付かない、森でも有数の危険地帯。悪夢の二世帯住宅なのでした。

 これは慎重に進まねばなりません。

 ムゥは“照明(ライト)”を四方へ飛ばし、照射範囲を広げました。それからブーツの羽根を調整します。地面に対して、ほぼ平行の角度へ。速度は落ちますが、浮力を最大まで高めました。少しずつでも着実に渡るのが賢明でしょう。

 地を蹴ったムゥの身体が、ふわりと浮きました。

 手近な睡蓮へと降り、その葉を蹴って、次の葉へと映ります。フェザーブーツの効果により、体重は最小限にまで殺され、小鳥が留まったほどの衝撃が、優しく葉を揺らすのみです。

 仄白い睡蓮が微かな波紋を描けば、水面は星を宿して、細波を打ちます。鏡映しになったムゥの姿は、まるで星から星へと飛び回る、青い鳥でした。

 ところが、沼の半分を過ぎた頃です。


「……!?」


 突然、身体の自由が利かなくなりました。

 かと思えば、しゅるん。何かに足元を掬い上げられ、宙に浮きます。しまったと咄嗟に身構えますが、ムゥは転ぶことも、水没することもありませんでした。浮いたままです。フェザーブーツの故障でしょうか? いいえ。

 手を伸ばして探ると、薄い透明な球が、金魚鉢のように自分を閉じ込めていると知れました。


「結界か!」


 振り返れば、沼の畔で、腕を組んだセヴァが此方を睨んでいました。

 上半身は半裸、下半身も結構ギリギリです。長い金髪は寝起きよりも酷く乱れ、尻尾はささくれて、使い古した歯ブラシ状態。丹念に施した化粧も剥げて、真っ白な肌には、いかがわしい青痣がいくつも刻印されていました。

 玉虫前は見当たりません。今は回収を諦めたようです。


「よくも見捨てやがったな。おかげで勝負服が台無しだぜ」


 セヴァが憎々しげに顎をしゃくると、ムゥを格納した結界が、すぅと水面を滑って彼の元へ引き寄せられます。


「ずいぶんと色男になったじゃないか」

「おうよ。触手プレイなんざ初体験だ」


 結界に飛び乗り、セヴァは対岸を見据えます。

 術者の意に従い、結界は移動を始めました。


「くそっ、出せ!」

「ヤなこった。俺様のケツでも見てな」


 ムゥがいくら喚いても、セヴァは知らん顔です。当て付けか、脚を組んで鼻歌まで歌っています。

 あっという間に沼を越えると、セヴァは、尻尾を振って駆け出しました。


「待てこの! セクハラ狐!」

「ははァーん、あばよ!」


 怒りに任せてブン殴ってみましたが、結界はびくともしませんでした。

 妙に弾力のある、分厚いシャボン玉のような感触です。これが衝撃を吸収、分散してしまうのでしょう。押しても引いても、手応えがありません。人力で割ることは不可能らしい。

 何か使える物はなかっただろうか。ムゥは、バッグを引っ掻き回します。

 頼みの魔道具は、ヌシに絡まれて、だいぶ減ってしまいました。

 これじゃない、あれも違う、それも駄目……。


「あ」


 ありました。イェーガーの欠片が、ひとつ紛れ込んでいたのです。


「しめたぞ!」


 ムゥは欠片を手にして、結界を削ります。

 ざくざくかりかり。一心不乱にやっていると、意外に薄かったのか、じきパンと音がして、結界が割れました。

 セヴァは?

 地面に尻餅を突きつつ前方を見れば、もう親指ほどの大きさになっています。


「だが……まだ届く」


 追い風を確認したムゥは、しっかりとゴーグルを填め直し、塗薬を鼻の穴に詰めます。そして取り出した小瓶の栓を抜き、中の粉を撒きました。









「へっくしょい!」


 すん、と洟を啜り、セヴァは剥き出しの肩を擦ります。


「着物が破れちまッたからなァ……夏でも夜の森はちと冷え、いっくし!」


 なんでしょう。やけに鼻がムズムズします。

 それだけではありません。眼も痒い。


「何……っくし! はっくし! っきょし! んぐっく!」


 というか、クシャミが止まりません。

 というか、眼が。眼が痒い。擦っても擦っても、余計に痒みが増すだけで、一向に収まらない。いくら夜目の利くセヴァでも、堪りませんでした。滲んだ涙で、己の手も見えなくなってゆきます。鼻水は流れっぱなし、クシャミも出っぱなしで、まさに息吐く暇もなく、とても走ってなどいられません。

 セヴァはその場に蹲り、膝を着きます。

 そこへ、ムゥがフェザーブーツで駆けてきました。


「ムゥ……っく! てめ、っきし! ふっく!」

「クシャミ花粉だ。悪く思うな」


 ムゥが散布したのは、クシャミ花粉です。

 人体には無害な、ただの花粉なのですが、吸い込むと花粉症に似た症状が現れ、これがまた辛いのです。くしゃみ、鼻水、眼の痒み。数分で収まるものの、その間ちょっとした地獄を味わう羽目になります。

 感覚器官の優れたセヴァならば、尚のこと。


「いっきし! はくしょい! っぷほ! はっぷ! うなっ!」


 奇妙なクシャミを連発するセヴァを後に、ムゥは先を急ぎました。

 ヒコボシは、まだまだ西へ。







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