恐怖! 触手地獄!
4.
「ひえぇええぇええ」
地獄庭園へ辿り着いたムゥが見たのは、大層シュールな光景でした。
数本の触手に絡まれ、空中で綱引きされている哀れなセヴァです。下駄は脱げ、袴は破廉恥に捲れ、豪奢な金髪はざんばらに乱れて、四肢を操り人形のように弄ばれています。
触手の先には、一抱えもある巨大な紫色の花が、毒々しく口を開けて、涎めいた液体を垂らしていました。
しかも、一体や二体ではありません。
いるわいるわ。彼方にも此方にも、ざっと十体前後が蠢いています。
「オニカヅラか!」
森で最大の食虫植物であるオニカヅラは、その巨体もさることながら、硬い外皮と凶暴な性質を併せ持つ、極めて危険な存在です。
一応は植物らしいのですが、これが下手な獣よりも厄介です。食欲旺盛で、傍を通りかかるものは、兎だろうと鹿だろうと、お構いなしに捕食します。つまり厳密に言えば、食虫植物という呼称は間違っているのですが、この際そんなことは些事でしょう。
怖ろしいのは、その触手です。
棘のある触手は怪力を持っており、絡まれたが最後、ちょっとやそっとの抵抗では抜け出せません。獲物は、藻掻くうちに体力を奪われ、弱ったところで、花弁の中心にある大きな口に放り込まれてしまうのです。
しかも困ったことに、連中は、植物のくせに地面に根を張らない。六本の触手を脚として使い、好き勝手に移動しやがります。
普段は、森の最も深い場所で、魚などを捕食しているはずなのですが……。
「こんなところに出るなんて……珍しいな」
「呑気なこと言ってンじゃねェ! 早くなんとかしろい!」
ムゥが言うと、さっきからヒィヒィ喚いていたセヴァが吼えました。
あれ、玉虫前は何処へ行ったのでしょう。
見上げると、美しい夜空に七色の羽衣を纏ったオニカヅラが一体、足取りも軽やかに浮かんでいます。
盗られてやんの!
「…………」
「おいムゥ! 聞いてンのかこらァ!」
「…………」
「なんとか言いやがれゴルァ!」
ラッキー。
ぼそっと呟いて、ムゥは、何も見なかったことにしました。
オニカヅラも厄介ですが、セヴァはセヴァで脅威に違いありません。此処で退場してくれるなら、願ったり叶ったり。万々歳です。間抜けに踊り続けるセヴァの脇を素通りし、うるさい罵声を背に、ムゥは脚を踏み出し……
たのですが、果たして、そうはいきませんでした。
素晴らしく空気の読める触手が、その脚に、がっつり絡み付いたのです。
「くそ、やっぱりか!」
まぁ、そうなりますよね。
構いません。しょせん植物、さっさと片付けてヒコボシを探さなくては。
半ば苛立ちつつ、ムゥは振り返ります。
「えっ」
そして、絶句しました。
ムゥの脚を捉えていた触手の主は、想像を遙かに超える問題児。花弁だけで直径二メートルはあろうかという、馬鹿げたサイズの個体だったのです。
「“追い剥ぎ妖精”!」
ムゥは、すぐさま指輪を翳しました。
ムゥの指先に生じた微風は、たちまち突風となって、辺りの小石や葉を巻き上げます。まさしく掌に濃縮された台風でした。その風速、風圧を以てすれば、小石の一つでも立派な武器、見えない刃です。
しかし、相手も然る者でした。素早く伸びた別の触手が、ぶんと一振り撓れば、刃と化した突風が、いとも簡単に振り払われてしまいました。
「なッ……うぁ!」
地面へ叩き付けられ、バッグの中身をぶちまけます。
強かに背中を打ち、衝撃で息が詰まりました。星の爆ぜる瞼を持ち上げ、どうにか薄目を開くと、ぐらぐら頼りない視界に、紫色の顔面凶器が揺れています。
「ムゥ! ヌシだぜ!」
セヴァの叫ぶ声が、頭の中でガンガン響きました。
「……だろうな。こんなの久し振りに見た」
「油断すんな! その大きさはマズい! 本気で食われるぞ!」
「言われなくてもわかってる!」
ムゥは再び指輪に魔力を込めます。
刃物が効かないのなら。
「“女王の溜息”!」
瞬時にして、ヌシの周りの気温が下降しました。その寒さ、実に氷点下二十度。地面には霜が降り、水滴は氷となり、草は萎え、吐く息さえも凍て付きそうな極寒です。あまりの低温に、季節を間違えた雪が、それも結晶のまま、きらきらと舞い降りてきました。いわゆるダイヤモンドダストです。
並の植物、いや生物ならば、ひとたまりもありません。
吹雪に包まれたヌシが、ぴたり動きを止めました。
ぴしきしと、耳障りな音を立てて、その全身が氷の膜に覆われてゆきます。
けれど、駄目でした。
ぶるんと触手を振り回しがてら、大きく二三度身動ぎすると、ヌシに張り付いていた氷は、ことごとく剥がれて飛び散り、空中で溶けてしまったのでした。
「低温にも耐えられるのか……!」
ムゥが怯んだところを、ヌシは見逃しませんでした。
触手を強く引き、ムゥの身体を花弁へ運ぼうとします。信じられない力でした。大の男が両脚を踏ん張り、全力で抵抗しているのに、まるで犬の扱いです。一歩、二歩。ぐいぐいと引き摺られてゆきます。
「炎だ! 燃やしちまえ!」
「馬鹿……言うな! 大火事になるぞ!」
「ンなこと言ってる場合じゃァ……あっ、やめて! そこはやめてェ!」
こちらも尻尾を強く引っ張られたセヴァが、妙な声を上げました。
セヴァだって、好きで玩具にされているわけではないのです。手足の拘束程度を引き千切る腕力なら、あります。ただ弱点の尻尾をしっかり掴まれているために、身体に力が入らないのです。尻尾は彼の魔力の源でもあり、ここを攻められると、首筋を抓まれた猫も同然。きゅうと弱体化してしまうのでした。
セヴァに集るオニカヅラ達は、人間でも動物でもないセヴァの処置に困っているのか、なかなか口を付けようとはしません。中りそうだと思っているのかも。
セヴァは当てにならない。早急に悟ったムゥは、散らばったバッグの中身に目を走らせました。
魔力回復剤、結界石、撒菱。痺れ薬や爆薬もありますが、遠くて手が届きそうにありません。何か。何か使えそうな物は……!
「ぐっ……」
焦る間にも、ずるずると身体が引き寄せられてゆきます。足首が砕けそうです。痛みに歯を食い縛りながら、体重を後ろに掛けて抗いますが、そろそろ体力が限界でした。フェザーブーツは、身を軽くすることはできても、重くすることはできません。これ以上は、耐えられそうにない。
蠢く花弁の中心が、目と鼻の先で、ぐわりと開きました。歯牙こそないものの、上下に糸を引く粘液は、圧倒的な捕食者の垂涎です。
ひときわ強く引かれ、ブーツが地面を削りました。
と、爪先にカツン。ふと硬い感触が。
スパナでした。
そういえば今朝、道具の整理をしたとき、たまたま近くにあったのです。使えるかもしれないと、何気なく入れておいたのでした。
――もしかして……?
いや、迷っている暇はない!
ムゥは咄嗟にスパナを拾い上げ、それを握った拳ごと、目前に迫る巨大な口へと突っ込みました。
じゅっ、と消化液が、作業服を溶かします。構わず、更に奥へ。腕が呑み込まれてゆきます。肘。上腕。付け根まですっぽり収まって、ようやく届きました。口腔奥の、最も狭まった部分です。
ここだ!
手首を捻れば、案の定。上手い具合に、スパナが填まり込みました。
「!!!?」
驚いたのはヌシでした。
難なく一呑みだと思っていた獲物が、喉に支えてしまったのですから。
彼も植物として長いのでしょうが、さすがにこれは初体験だった模様。理解不能の事態に泡を食い、激しく身を捩ります。
吐き出される直前、ムゥは、指輪に込めた魔力を解き放ちました。
「“炎のワルツ”!」
生木の焦げる嫌な臭いと共に、ヌシの口内に、炎が充満しました。
よほど慌てたのか、それとも反射作用でしょうか。巨大な花弁がぎゅっと窄み、すぐさま開いて、黒煙を吐き出しました。凄まじい熱です。じゅうじゅうと湯気を立てる花弁は、もはや捕食どころではなく、必死に咳き込んで、悪臭と粘液を撒き散らすことしかできません。のたうつ触手から、みるみる力が抜けてゆきました。
やっぱりそうか。
未だ煙の上る指先へ、ムゥは息を吹きかけました。
いくら外皮が硬質であろうと、内側は普通の植物なのです。というか、喉の奥で炎が暴れたら、誰だってそりゃあ発狂するでしょうね。
ヌシは、ムゥを放り捨て、いそいそと撤退を始めました。
形勢不利を察したのか、他のオニカヅラ達もそれに続きます。
ふぅ。ムゥは溜息を吐き、額の汗を拭いました。なんとか追い払ったようです。多少のダメージは残りますが、先を急がねばなりません。辺りに散らばった道具を手早く集め、被害を確認します。回復剤や筋力増強剤、痺れ薬など、瓶入りのものは、ほぼお釈迦でした。矢も折れて、もう射ることはできそうにありません。
あとは? 何か忘れているような気がしますが……。
「なんで術士が鈍器を持ち歩いてンだよ……」
あ、セヴァか。
「おい! 俺はどォなるんだコラ!」
ちらと一瞥くれれば、何故かこの場に残った数匹のオニカヅラが、まだセヴァで遊んでいました。あんなところをああしたり、こんなところをこうしたり。飽きもせず、捏ねくり回して喜んでいます。
「今世紀最大のモテ期到来だな」
「冗談じゃねェ! なんとかしろよ、このセクハラカヅラども!」
「空中M字開脚で言う台詞じゃないだろう」
「好きでやってンじゃねェよ! あっ、やめ、ふんどしが」
「幸運を祈る」
「待てこの薄情……ひゃ、駄目、そんなところ……あ、あ、あっ」
アッー!
悲痛な叫びと赤い褌を残し、セヴァは数本の触手に牽引されてゆきました。
さぁ、先を急ごう!




